第5話
春とは実に良い季節だ。暖かくて長閑だし、多くの花が咲き誇り、目と鼻を楽しませてくれるのだから。山の中を散策すれば、日々千歳の心は豊かになる。長く厳しい冬に堪え、身体以上に冷え切った心には、そんな時間が有難い。
そして何より、食べ物が多いのが春の良いところである。つくしにヨモギにオオバコにふき……野草の収穫に困らないし、果物だってよく取れる。おまけに気候の麗らかさで人々がよく昼寝をしてくれるので、日中でも村人の畑から野菜を失敬できるのが良い。
そうして集めた収穫物を傍に起き、今、千歳は神威川中流の岩場に座り込んで渓流釣りの真っ最中だ。イワナやヤマメ、ニジマス等が掛かってくれれば幸いと、釣り糸を垂らしてじっと待つ。
と、そうして座っていると、周囲には多くの獣が集まってきた。馴染みの小鳥達の他、うさぎだのたぬきだの、鹿までもが寄ってきて、千歳の周りでくつろいでいる。まぁそれに関しては全くもって構わないが……
「ってオイ。何してる」
千歳は低い声で言う。目線の先は、胡座を組んだ足のすぐ前だ。そこにそろりそろりやってきた一匹のうさぎが、こてんと腹を出して横たわったのである。さぁ好きにしてくれと言わんばかり、無防備に。
「あのなぁ……勘弁してくれよ」
これに千歳は額を押さえてそう吐いた。
「お前の気持ちは有難いぞ? 確かに俺は落ちぶれた……神子という役目を果たせずに屋敷を追われ、今じゃ宿無しの文無しだ。けどな、いくらなんでも友人を食う程は腐っちゃいねぇよ」
思い切り顔を顰めてそう宣う。
そう、二年前の儀式にて龍神に拒絶されて以来、千歳の人生は一変した。役立たずの返品神子にこれまでと同じ待遇を与えるわけにいかないと、屋敷を追われてしまったのだ。
そうなると、元々身寄りのない千歳である。行く宛なんて何処にもない。誰かの家に厄介になろうにも、皆の期待に応えられなかった千歳を快く迎え入れる者はいない。
屋敷仕えをしていた侍女達も、一斉に掌を返して来た。これまで仕えてきた時間を返して欲しいと、いっそ貴方に仕えていた事は恥でしかないと罵られた。当然、家に千歳を置いてくれるはずもない。
と、そんな中でも平蔵だけは、自分の家に千歳を招こうとしてくれたのだが、それは千歳の方から辞退した。侍女達の態度から伝わって来たが、神子屋敷に仕えていた人々もまた、千歳が返品された事で肩身が狭くなっているのだ。お前達の育て方が悪かった所為で千歳は御供になれなかったんじゃないのかと、酷い誹りを受けている……その上で平蔵が千歳を家に置けば、彼は村の中、一際酷い扱いを受ける事になるだろう。そう思ったら、頼るなんてできはしない。
その結果、千歳は決めた。
自分は一人で生きていこうと。
なに、元々は孤児だったのだ。その運命に戻っただけだと開き直って。
と、しかし、その生き方は想像以上に困難を極めた。村の中、最早千歳は嫌われ者だ。家を借りる事もできず、職に就く事もできやしない。まともに生きていく事は不可能である。
ならばいっそ村を離れ、他の土地でやり直せば良かったのかもしれないが、その選択はできなかった。自分が御供となれなかった事で、この村の行く末がどうなるかが心配だったのだ。
皆は新しい神子を探しているが、どうやら苦労しているらしい。きっと神子が見付かるまで、村は毎年水害を受け続ける……それに責任を感じないわけがない。
だから自分は、被害を少しでも抑える事や、復興の為に力を尽くそう。千歳はそう心に決めて、水守村近くに留まった。山の麓に木の枝を組んで極簡単な小屋を作り、其処を住処として暮らし始める。
そうして昨年の長雨の季節に川が氾濫した際には、日夜走り回ったものだ。流されたものを探したり、壊れた橋を直したり、畑に流れ込んだ土砂を掻き出したり……千歳は村の誰よりも働いた。
そんな千歳に村人達は白けた視線を寄越すのみで、平蔵以外は誰一人、礼も労いも寄越さなかったが、構わなかった。別に褒められたくてやっていた事じゃない。ただ千歳は、自らの責任を少しでも果たそうと思って動いただけだ。
ともかく新しい神子が見付かり御供として龍神に捧げられるのを見届けるまで、自分は自分に出来る事でこの村を守る。それこそが神子として育てられた者の務めだと、千歳は清廉な心根を発揮させたが――それはそれ。
千歳はすっかり落ちぶれた。野宿をし、山を駆け、コソ泥を繰り返すような生活を送る内、神子としての面影は見事に消えてしまったのだ。
美しく梳られていた艶やかな髪は、動きにくいからと適当に切った為にざんばらだし。大きかった目も鋭くなった。肌は黒く日に焼けて、上等だった衣は今やただのボロ布だ。
だが、そんな見目以上に変わったのが中身である。
“やんごとない”という形容がぴったりだった優美な所作は見る影も無し。誰に見咎められるでもないのだからと心のままに振舞っていたら、まるっきり粗野になってしまった。
屋敷にいた頃は決してやらなかった事だが、今はぼりぼりと身体を掻くし、大股でどんどん歩く。くしゃみだって大っぴらだ。それが板についてくると、丁寧な話し言葉も馬鹿らしくて、村のチンピラ達のような荒々しい口調になり、今に至るというわけだ。
と、そんな千歳を動物達は、どうやら案じているらしい。酷く心が荒んでしまったのではないかと、ならばせめて自らの身を差し出して、食によって慰めようというのである。が、千歳は頑なにこれを断った。
「あのな、お前らにどう見えてるか知らねぇけど……俺は今の暮らしもそれなりに気に入ってるんだ。屋敷に居た頃は、そりゃぁ不便はなかったけど、その分窮屈でもあったからな。皆の期待を裏切るまいと常に自分を戒めて……それに比べて今はどうだ。自由で実に清々しい! な? 決して悪くはねぇんだよ」
千歳はカッカと笑って言うと、仰向けになったうさぎを正しい姿勢に戻してやった。そして背後に集まった動物達にも聞こえるように言ってやる。
「お前達も聞け、俺は決して腐っちゃいねぇ。だからお前らを食おうとも思っちゃいない! まぁ既に捌かれてたら食うだろうが、俺を好いて集まってくる奴らを自分で捌くようになったら御終いだ。いやーその点、魚はいい! 何を考えてるかわからねぇし、食うに罪悪感がない。だからお前らが俺を思ってくれるなら、釣りが上手くいくように応援を……っと、かかった!」
千歳は即座に立ち上がる。そうする間にも、釣り糸がぐいぐいと水中に引かれる。その力強さ――相手はかなりの大物だ。
昔の非力な千歳であれば、これを釣り上げるのは叶わなかった。が、今は違う。野生暮らしが長引いて、体力も筋力もばっちり蓄えられたのだ。
千歳はぐっと足を踏ん張り、水中の影の動きを見極めると、「おりゃっ!」と思い切り竿を引いた。すると水面からニジマスが飛び出し、陽光に鱗を輝かせて宙に舞う。神威川の魚達は皆大きく育つのだが、これはまた特大だ。岩場に上げたそのニジマスを捕まえて、千歳は自慢げに動物達を振り返る。
「ほら、見ろよ! こんな大物が釣れるのに、この暮らしに不満があるわけないだろうが!」
そう屈託なく笑ってやる。これは千歳の本心だ。
まぁ正直なところ、憤りが無いと言えば嘘にはなる。御役目が果たせなかった千歳を村人達は責め立てるが、これについて千歳に責任はないはずなのだ。
だって千歳は、村に長年伝わる教えに従い、神子としてなんの問題もなく育ってきた。にも拘わらず拒絶されたのならば、それはもう完全に、龍神の好みの問題だ。千歳の落ち度なんて何処にもない。だというのに容赦なく居場所を奪われたのだから、理不尽極まりないとは思う……が、千歳は現状をそこまで悲観してはいなかった。
見目も暮らしぶりも落ちぶれたが、心までもは荒んでいないし、やさぐれたつもりもない。自分はただ御役目から解き放たれ、そして逞しくなったのだと、千歳はそう捉えていた。
そして逞しい己というのは、ただ崇められ護られていたあの頃よりも、ずっと快活で好ましいと思うのだ。
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