第3話




――しゃん、しゃらん。

 石段を一つ上るその度に、鈴のが高く響き渡る。

 純白の衣は、松明の灯りに照らされて揺らめく橙に染まっている。

 儀式が行われるのは、神威川の源流がある、水守村のすぐ北にある山中だ。その中腹まで続く石段の先に、龍神を祀る社が建てられているのである。

 一歩、また一歩と千歳が石段を上るのに、村人達は息を顰めるようにして追従した。これからついに自分達の神子が神の御供になるのだと、その非日常感に固唾を飲んで。そして誰もが初めて目にする事になる龍神を恐れ、緊張して。

 千歳も全てを覚悟しているとは言え、ここに来てまで平静で居られる程は図太くなかった。長い長い石段の先、しめ縄の張られた木製の鳥居が闇に浮かび上がってくると、いよいよなのだと身が竦む――

 が、しかし止まりそうになる足を、どん、どん、という太鼓の音が励ました。行列の音頭を取るその音が、千歳の心を奮い立たせる。逃げるわけにはいかないと、村の為、自分には果たすべき勤めがあるのだと、その自負がなんとか足を進ませる。

 そうしてついに石段を登り切り鳥居を潜ると、龍神の社へ辿り着いた。それは古く小さな木製の社だが、前に立つと強い威圧感がある……強い神がいる証拠だ。

 太鼓の音も止み、ぱちぱちという松明の音だけが聞こえる中。千歳は側に控えた平蔵から供物の酒瓶を受け取ると、一人、社の前まで進み出て、恭しく地面に膝をついた。そして最敬礼の形にこうべを垂れ、呼び掛ける。

「龍神様。貴方様の呼び声に応じ、水守みなかみの神子、此処に参上致しました。龍神様の御心を鎮める為、誠心誠意お仕えさせていただきます。どうか、御姿をお見せ下さい」

 まだ少年らしいあどけなさの残る声。しかし覚悟を決めた者として、堂々と言ってのける。その余韻が山の静寂に吸い込まれてから、数秒。風がざぁっと通り抜けた。これはただの風ではないと、誰もが悟る。何故ならそれは、四方から社へ向かって吹き付けてくるからだ。

 千歳も皆も神の御前とあって深く頭を垂れていたが、しかしこの異様な風に、つい周囲の様子を窺った。すると巻き込まれた木の葉によって可視化された風が、千歳の前に小さな竜巻を作っている。それはみるみる内に膨れ上がり、成長して――次の瞬間。

 眩い光と共に、若き男の姿を取った。

「――――」

 刹那、誰もが大きく息を呑む。龍神が雄神の姿をしている事は口伝によって知っていた。その姿が大変に美しいものである事も聞き及んでいたのだが、しかし此処までの美しさは、想像にも描けた者はいなかったのだ。

 まず目に付くのは、頭上の二本の角である。一尺はあるだろう、二股に別れた立派な角が天を衝く。

 それだけでも見ている者は圧倒されるが、加えて気圧されてしまうのは、人間には有り得ない髪の色だ。極限まで白に近付けたような淡い青色の髪が、腰に届く程長く伸ばされ、絹糸のようにさらさらと風に舞う……

 だが、そんな人ならざる特徴がなかったとしても、やはり誰もがその容姿に釘付けになっただろう。龍神の身長は村の人間達よりも頭一つ分は高い。それだけに、藍色の着物に合わせた、引き摺る程に裾の長い銀の羽織が良く似合う。身体つきは精悍な若者と言った風情で逞しく、しかし纏う空気は雅やかだ。

 顔立ちは、涼やかという表現が適切だろう。一切日に焼けた事のないような白く滑らかな肌に、細く高い鼻、薄い唇。そして――これも村の人間とは決定的に異なる特徴だが――その、瞳。切れ長の目の中心にある翡翠の瞳が、見る者を強く惹き付ける。

 千歳も例外なく――いや、村人達の誰よりも、龍神の姿に圧倒された。何しろ神子である千歳は、神気というものを感じ取る。今、目の前に居る神は澄み渡るような青色の神気を身に纏っているのだが、その汚れなき清涼さ――間違いなく相当に高位な神だ。美しさに加えてのこの迫力に、どうにも唖然としてしまう。

 だが、自分には御役目がある。此処でもまたその自負が、千歳を現実に引き戻した。再度慌てて頭を下げ、改めて言葉を発する。

「龍神様、呼び掛けにお応えいただき、誠に感謝致します。私が水守の神子、千歳でございます。龍神様の御心を御慰めできますよう――」

「面を上げよ」

「っ、はい!」

 口上を遮っての命令に千歳はすぐさま返事をしたが、しかし少しばかり不安に駆られた。龍神の発した声が、かなり高圧的であった為だ。そりゃ神とは絶対的な存在で、人間の事なんて歯牙にも掛けないと理解してはいるのだが、こうも冷たい声を聞くと、彼の元でうまくやっていけるだろうかと不安が襲う。

 とは言え、この御役目を降りる事などできはしない。ならばこの先に如何な扱いが待ち受けようとも、やり切るより他にない。

 千歳はそう覚悟を決めて、顔を上げた。不安が表に出ないよう、真摯な表情を作り上げ――と、そんな千歳の顔を見た途端。

「っ、お前――」

 龍神が短くそう発した。その反応に、千歳は怪訝に瞬きする。龍神は今、自分を見て驚いていたようだが――もしや、初めての男神子だという事に戸惑っているのだろうか。確かこの龍神は御供の性別には拘らないと聞いていたが――……なんにせよ、印象を良くしなければ。何事も始めが肝心と、千歳は龍神に気に入られるよう、精一杯神子然と、凛とした声を出す。

「お初にお目に掛かります、龍神様。私は……」

 と、自己紹介を続けようとしたのだが、そこで龍神の表情が険しくなった。その瞳の鋭さに思わず口を噤んだところで。

「――いらん」

「へ?」

 思わず間抜けな声が出た。それから数秒、辺りは奇妙な沈黙に包まれる。背後に控えた村人達の瞬きの音が、ぱしぱしと聞こえてくる程……それだけ皆、しんとしている。何も言えず、少しも動けずに固まっている。

 だって――龍神はなんと言った?

「あの、龍神様。今なんと……」

「だからいらんと言ったのだ。お前のような神子など欲しくはない」

「え――」

 もしや聞き間違いかと思ったが、そんな期待を打ち砕くように繰り返され、千歳の頭は一瞬で真っ白になった。村人達も、一言も言葉を発せない。それ程までに、予想外の出来事だった。

 何しろ千歳は幼少期から、神子としての資質を高く評価されてきたのだ。きっと龍神にも深く愛され、永きに渡り村を守ってくれるだろうと誰もが期待を寄せてきた。千歳自身、それが自分の運命なのだと信じてきた……というのに、 “欲しくはない”?

「っ、お待ちください龍神様!」

 そこで沈黙を破ったのは平蔵であった。彼は千歳の横まで転げるような勢いで飛び出してくると、地面に額を擦り付けんばかりに身を低くして進言する。

「こちらの千歳様は、神子の資質を示す痣を確かにお持ちでございます! それも、先代の神子様よりも余程濃い……先々代を知っているという者から見ても、千歳様の痣は並外れているという事です! それに、千歳様は実に清らかな御人です! 必ずや龍神様のお気に召すはず、どうか今一度ご一考を――」

 その言葉に村人達も我に返り、一斉に頭を下げた。

「お願い致します、千歳様をよくよくご覧くださいませ!」

「こんなにも御供に相応しい方はおりません!」

「龍神様、何卒!」

 誰もが必死に訴える。もし千歳が御供として受け入れられなければ、龍神を鎮める事ができないのだ。そうなれば川が氾濫し、村にどれだけの被害が及ぶかわからない。茫然としていた千歳もそう思い至ると、皆と共に訴えた。

「龍神様、どうかお考え直し下さいませ! この千歳、龍神様の為どんな事でも致します、ですから、何卒――」

 だがそんな懇願は、「くどい!」とぴしゃりと切り捨てられた。

「この俺に意見するか、人間風情が生意気な! ともかくお前を御供として受け入れるつもりは毛頭ない、この場に居られるだけでも不愉快だ! さっさと出て行け!」

「そ、そんな――」

 何故そんなにも酷い事を言われるのか。訳がわからないながら、千歳はなんとか縋ろうとした。が、龍神は畳み掛けるように村人達へと言い放つ。

「俺を鎮めようと思うならば、他の神子を連れてこい。男だろうが女だろうが、此奴以外ならば誰でも構わん! わかったな、此奴以外だ! でなければ、絶対に認めん!」

 そんな主張に呼応して、目を開けていられない程の強い風が吹き付けた。村人達から悲鳴が上がる。千歳も吹き飛ばされないようにと急いで地面に這いつくばる。皆の間を暴れ回ったその風が止んだ時――龍神の姿は忽然と消えていた。後はただ、ひらひらと千切れた木の葉が舞うだけだ。

「――……」

 誰もが言葉を失っていた。

 今起きた事を、どう受け止めたら良いのかがわからなかったのだ。

 だがやがて、誰かがぽつりと。

「つまり……千歳様は、返品された……?」

「っ、何を馬鹿な!」

 これを即座に平蔵が咎めた。

「そんな、我らが神子を物のように――」

「いや、しかしそういう事だろう⁉」

 大声で反論するのは村長だ。

「皆聞いただろう、千歳様は龍神様に拒絶された。突っ返されたんだ! 御供としての役割を果たす事ができなかった!」

「そうだ……それに他の神子をと言われても、この代で神子の資質を持っているのは千歳様一人じゃないか! どうしろと言うんだ⁉」

「一体何故こんな事に……これからこの村はどうなるんだ!」

 狼狽は忽ち村人達を飲み込んだ。皆が不安を口にするのを、千歳はただ、ぽかんとして聞くしかない。誰よりも千歳自身が、この展開に驚いていたのである。

 だって自分は、すっかり覚悟を決めていた。いざ御役目としてお呼びが掛かれば、御供として龍神に仕えるのだと、そうして村を救うのだと、そう信じて生きてきたのに。

 それがまさか、こんな風に拒絶される? 一体何故――その理由を考えたいが、頭が上手く働かない。余りにも驚いて、真っ白で。

 だがその内に、寒気がした。緩慢な動作で振り向くと、いつの間にか村人達は口を閉ざし、一様に此方を見詰めていたのである……それも凍てつくような眼差しで。

 その冷たさに、千歳は「ひゅ」と息を呑んだ。と、そこへ聞こえてきた、誰かの言葉。

「なんだよ……期待外れもいいとこじゃねぇか」

 その言葉が皆の総意なのだという事は、誰一人として発言者を咎めようとしない事から明らかであった。懸命に千歳を庇おうとしていた平蔵すら、何も言えずに黙り込んでいる。

 この沈黙に、千歳は悟った。

 自分は神子として失格なのだと。

 そして身寄りのなかった自分は今この時、真に孤独になったのだと。

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