第2話
林を抜けた先にあるのは、よく手入れされた
その垣根の合間にある小さな裏門を押し開くと、そこは大きな
仕える者の数も部屋の広さも日当たりも、神子屋敷は村で一番恵まれていた。全てにおいて、
この水守村は、暴れ川との悪名高い
だが長い年月を経る内に、大きな地震や大雨による河川の氾濫などの所為で、地形が徐々に変化した。いつの間にやら神威川は水守村を挟むように二股に別れ、おまけに何年かに一度は大氾濫を起こす暴れ川となったのだ。
と、これはこの世界の常識だが、人の暮らしに甚大な被害を及ぼす脅威的な自然には、必ず神が宿っている。暴風が吹く土地には風の神が、雷鳴が轟く土地には雷の神が。そして水害が齎される土地には水の神――龍神がいるのである。
水守村の人々は、神威川が暴れるようになった原因を、自分達が龍神を十分に祀ってこなかった為だと考えた。そして神の怒りから逃れる為、村の中から人身御供を差し出そうと決意した。
が、御供は誰でも務まるというわけではない。それには必ず、神と通ずる事のできる神子の資質が必要だ。その資質とは、胸元の痣によって見分けられる。資質ある者には生まれ付き、左右の胸の中心に勾玉型の痣があるのだ。
痣を持つ子は神子として育てられる。いざ村が水害に見舞われんという時に龍神に捧げる為、大切に大切に護られながら。
つまり神子とは、水守村の命運を握る存在なのだ。ならば村長以上に尊まれて当然というわけである。
さて、ただでさえ崇められてきた歴代の神子の中でも、今年十七になる千歳は人々から一際強い期待を受けていた。それは千歳の胸の痣が、特別くっきりとしていた為だ。
これはきっと、とんでもない資質を持っているに違いないと誰もが思う。それに歴代の神子は女だったが、初めての男神子という点からも、特別な感じがするじゃないか。
そんな村人達の考えを裏付けるように、千歳は妙に動物に懐かれた。流石に言葉まではわからないが、それでもなんとなく心が通う。自然と動物達が擦り寄ってくる。
千歳が動物達に囲まれてみるのを見る度に、村人達は感嘆し、安堵した。きっとこの神子様は、龍神様にも大いに愛されるに違いない。いざという時にはその身をもって龍神を鎮め、村を守ってくださるに違いないと……
「――いや、しかし」
存分に日が差し込む座敷にて、朝餉の準備が整うのを待つ千歳の傍ら、平蔵は大きな溜息と共にそう吐き出す。
「初めから覚悟をしていたとは言え、いざその時が近付いているとなると、なんとも言えない心持ちになりますなぁ……」
その言葉が聞こえると、膳を運んだり飯をよそったりと立ち働いていた侍女達がギシッと身体を強張らせた。彼女らの顔には一斉に、暗い影が落ちていく。
「ええ、本当です……歴代の神子様の中には御役目を迎えない方もいらっしゃるというのに……どうして千歳様の時に限って……」
「そうですよ、こんなにもお優しい御方を差し出さなければならないなんて!」
「でも、お優しくていらっしゃるからこそ、御役目が回ってきたのかも……」
「嗚呼……なんにせよ、おいたわしい……」
侍女達は口々に言い、部屋の中はどんよりとした空気に沈む。千歳はそんな面々に対し、さっぱりと笑って見せた。
「皆、そんな顔をするでない。確かに私も皆との別れは寂しいが、しかしこれは名誉な事だ。私はとても誇らしいぞ、龍神様に仕えられるという事が! 皆にもそれを誇ってほしい。自分達が育てた神子が、神の元へ行くのだと……そしてこの村で平和な朝が訪れる度、私の存在を感じてくれれば、そんなに嬉しい事はない」
千歳は本心からそう語る。
今夜、千歳は儀式に行くのだ。少し前から龍神に呼ばれていると感知していたのである。
呼ばれた以上、自分はこの身を捧げねば。そうして欲を満たさねば、龍神は機嫌を損ね、川を氾濫させるからだ。
と、そうして龍神が御供を所望するのは、数十年に一度程度の事である。故に神子として生まれても、その御役目が回ってこない者もいた。それだけに、仕えの者達は千歳にお呼びが掛からなければと考えてしまっていたようだ。
何しろ御供として捧げられた神子は神の所有物となり、人の世との繋がりが切れてしまう。二度と村には戻れない。だから皆、今生の別れを目前に寂しがっているのである。そして千歳の事も憐れんでいるようだが。
しかし千歳には――皆と同様寂しいという気持ちや、道の環境へ赴く緊張はあれど――自らをいたわしいとは思わなかった。
そもそも千歳は孤児だった。生まれてすぐに両親が病で死に、しかし胸の痣があるからと、こうして大切に護り育てられて来たのである。それを思えば、与えられた役目を全うするのは当然だ。立派に御供の務めを果たし、水守村に恩返しがしたい……考える事はそれだけだ。
「だから皆、余り暗い顔をしてくれるな。ほら、折角の朝餉が台無しになってしまう。これで最後になるならば、皆と清々しい気持ちで過ごさせてくれ」
「千歳様……」
千歳の前向きな言葉に、皆はぐすぐす鼻を啜りつつ、しかしなんとか心持ちを立て直してそれぞれ給仕に戻っていった。だがそんな中、最後まで「しかし……」と暗い顔をするのは平蔵だ。
「やはり私は、遣り切れない思いでございます。今日の夜には、千歳様を龍神様の元へお送りしなければならないなんて……勿論、それが村の為に必要なのだと重々承知しておりますが、どうしても……」
そう言ってついには涙を零し始める平蔵につられ、千歳の目頭も熱くなった。いくら割り切っている事とは言え、誰よりも親身になって育ててくれた平蔵に嘆かれると流石に辛い。堪らずに腰を上げ、平蔵のすぐ傍らに屈み込む。
「そんな風に想ってくれて、私も嬉しい。平蔵は、身寄りのなかった私にこの上なく良くしてくれた……今日まで育ててくれて、本当にありがとう。立派に御役目を果たしてくるから、それを孝行とさせてくれ」
そう言って、平蔵の背を摩ろうとそっと手を伸ばしたのだが――その瞬間。
「っ、いけません千歳様!」
平蔵は血相を変え、すぐに千歳から飛び退った。
「常人に触れては、穢れが移りかねません! それに今は、儀式の直前となりますし……お気持ちだけ、お気持ちだけ有難く……!」
「――……あぁ、そうだな。済まなかった」
千歳は静かに微笑むと、行き場を失くした手を下げて自らの席へ座り直した。触れられなかった指先に、虚しさが後を引く。
屋敷の人々は千歳に大変良くしてくれたが――特に平蔵は本当によく面倒を見てくれたが、しかし身体に触れる事は許されなかった。ほんの幼児の頃であっても、やむを得ない場合を除いては、神子に穢れを移してはいけないからと触れさせてもらえなかったのだ。
――最後なのだから、許してもらえるかと思ったが……
しかし、そうはいかなかった。考えてみれば当然だ。千歳の価値は、立派に御供としての御役目を果たしてこそなのだから。万に一つも龍神に嫌われる要素があってはいけないのだ。
できれば最後に平蔵の温もりを覚えておきたかったのだが、無理は言えない。千歳は小さく息を吐き、用意された膳へと箸を伸ばした。
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