第72話

タクシーがアパートの前で止まった。


料金を彼が支払って二人でタクシーを降りる。外に出るときも彼が手を差し出してくれた。


その手を借りて部屋に案内してもらった。


オートロックのないアパートの二階の一番奥の部屋。


扉を開けた彼が「どうぞ、こんな部屋でよければ」とドアを開けていてくれた。「お邪魔します…」彼にしか聞こえないような小さな声で言って中に入る。


自分の部屋より少し広い、全体がモノトーンで構成された部屋の中にドライフラワーの薔薇が飾られていた。センス良くまとまった部屋の中にベッドと机。


ふんわり香る彼の匂い。棚には医学書以外にも経済学や法律関係の本も詰まっていた。


「なんか男の子の部屋って、感じだ」


後ろから入ってきて鍵を閉めた彼が言う。「そりゃ男の一人暮らしですから。そこの薔薇くらいでしょ、かわいいの。これ母親の趣味」


その言葉で隣に並んだ彼が少し渋い顔をした気がした。


「あ、いいの。私の両親はちゃんと大事にしてくれてたよ。ただ二人とも肺癌で、お母さんもお父さん追いかけるみたいだった。高校生の時のことだけどあんまり覚えてないの。ただ、愛されてたことと愛してたことだけ、楽しいことだけ覚えてるからいいの」


咲良は全く気にしていなかった。実際覚えてもいないし、彼に聞かれた以上もう黙っていることのほうが苦しかった。


「ごめん、顔に出てたか。ご両親の話、俺にあのタイミングで聞かせるつもりなかっただろうから申し訳ない。でも咲良ちゃんが、……咲良が、辛くないならよかった。ベッドくらいしか座るとこないけどよかったら座っていいよ。お茶出す。それかお風呂先入るかどっちがいい?」


「お風呂、入りたい。シャワーでいいからできるだけ早く。あと、この服、もう捨てたいし、ビニール袋あったらもらえますか」


「わかった。袋脱衣所に置いといて良いよ、明日ゴミの日だから……あと足りないものとかある?」


そう言われてバッグを漁ってから気づいた。


「……ごめん、明日の洋服持ってるけど今日寝る洋服ない」


焦っていた分泊まることを完全に失念していたらしくて申し訳なくなった。


でもそれにも「俺のでよかったら」となんとでもないというように適当に洋服を出してくれた。ビニール袋もわざわざ色の付いた中が見えない物を選んでくれた。


「俊介、でいいのかな、私も」


「いいよ、そっちの方が嬉しい。勝手に呼び捨てしてごめんね」


「ううん、いいの。俊介、か。私もそっちで呼ぶのも呼ばれるのも嬉しい」


「よかった。お風呂、そこね。ちょっと狭いけど。タオルも渡しとくしゆっくり入っておいで。怖くなったらいつでも呼んでくれていいから」


それだけ言って彼はお風呂場につながる廊下から目を背けてテレビをつけた。そういうところの気遣いは変わらない。


咲良は脱衣所で脱いだ洋服で下着を包んでそれごとビニール袋に突っ込んでもう二度と出てこないようにと何度も口を縛った。


お風呂で温かいお湯を浴びてやっと少し息をついた。


いつもの自分のものとは違う香りのもので髪を、体を何度も洗った。


洗っても洗ってもきれいにならない気がして、自分が汚い気がして傷ができるまで体を洗い続けた。


なんとかお風呂から上がって借りた洋服に袖を通す。だぼだぼだ、袖も余ってるしズボンは落ちてくる。やっぱり男の子なんだ。でもこのズボンどうにもならないな


……まあいっか、上だけでワンピースくらいの長さあるし。そう思って「ありがとうございました」と言って脱衣所から出た。

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