第63話

その日もバイト先の居酒屋にあの男は来なかった。バイトはいつも通りに進んでいった。


大丈夫、きっと「会いに来る」のは今日じゃない。


今日じゃなければ警察の人に何かしら対応してもらえるかもしれないし俊介君にだって頼れる。


今日だけの我慢なんだから大丈夫、バイトが終わったら多少危なくても回り道でも今日は交番のある大通りを歩いて帰ろう。


そしたらもし何かがあっても誰かが見ていてくれるし通りの横にコンビニもある。助けてくれる場所があるから大丈夫。


大丈夫と何度も言い聞かせてバイトを終わらせて九時に外に出た。


雨は降り止んでいて傘をバッグに引っかけて早めの足取りで歩く。


大通りの中で後ろからとん、と肩を叩かれて何か落としたかな、と思ってふと振り返った。





そして体が固まってその場に膝から崩れ落ちた。


バッグからはあの手紙とも呼びたくないような紙の束が広がった。





そこに立っていたのは、あの男だった。


あの日すれ違った、家の前にいたあの男。次の日に自分からの接客以外受け付けないと言ってプライベートに踏み込もうとしてきたあの男。


体は細く、特別大きいわけでもないのに目の前の存在が怖くて仕方がなかった。もちろん自分のストーカーかもしれないと思っているから。


でもそれ以上に、男というだけで、それだけでこんなに怖い。こんなに細い人でもきっと私は力じゃ適わない。


そんな咲良の様子も気にせずに男は嬉しそうに話しかけてきた。


「迎えに来たよ、……それ、僕からの手紙読んでくれたんだね。嬉しいよ持って歩いてくれて。さあ、一緒に行こうか」


怖い、怖い、怖い。声を出して助けを呼んだら目の前の男に口を塞がれるかも知れない。


ならもう逃げるしか、走るしかない。手を差し出す目の前の男から逃げようと、バッグと紙の束を抱えて走った。


後ろから「なんで逃げるの」という怒ったような声がする。捕まったらと思うともっと怖くなった。




私は短距離走者だ、新人戦だって優勝したんだ。今日はスニーカーだ、絶対追いつかれてたまるか。


そう思うのにこんな時ばかり足は上手く回らない。追いつかれたらと思うとぞっとして必死に足を回した。




逃げろ、逃げろ、逃げろ。もっと、もっと速く。


お願いだから足、動いて。


なんとか男を引き離し交番に向かった。


もう少し、もう少し。もうすぐ、目の前にある。だからそこまで追いつかれるな。


そう思って自分の全速力を出した。


目の前にある交番のドアを開けて滑り込んだ。何も入ってくるなと思ってドアを閉めた。

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