第26話

扉を開いた先にいたのは、点滴を刺したままの母と浅い呼吸を繰り返している父だった。あの日の母なんか比べものにならない、いつ止まるか分からないような呼吸の音が響いた。


荷物をその場に落とす。父の手を握るウィッグをつけた母の手を、それごと包んで声をかけた。



「お父さん、お母さん、来たよ。咲良だよ。娘だよ。お父さん、大丈夫だからね、きっと今日を乗り越えたらまた元気になれるからね。大丈夫だよ、愛してるよ」


その言葉を聞いた父が胸を押さえて苦しそうにえずいて、傍にいた主治医が状態を確認した。


「お母さん、絶対に大丈夫だからね。絶対、絶対お父さんは生きるからね」そう言って顔を見ると母も泣いていた。


ここに来て初めて母の泣き顔を見た。私は詳しく説明を聞かずにここまで来た。お母さんが泣いてるって事は、覚悟しなきゃいけない時が来たって事か。


そんな覚悟していない。二人が生き抜いて三人で生きる未来しか考えていない。それでも目の前の父は、入院したその日とはもう全くの別人になっていた。


落ち着いた父はそれでも苦しそうに、必死に生に縋り付くように呼吸を繰り返している。生きろ、生きろ、生きて帰ってきてくれ。


その思いとは裏腹に心拍数はどんどん下がっていった。止めろ、こんなことあっていいはずがないんだ。


震えながら泣いている母を後ろから抱きしめて、二人で父の手を握った。止まるな、まだこの人は四十七歳だ、そんなことあるはずがないんだ。家にあるノートにだって書いてある、二人は生きて帰ってくるんだ。


後ろにいた医師が言った。「最後に残るのは脳の中でも聞く部位です、話しかけてあげてください」そんなお父さんが死ぬことを前提にしたようなことを言うな。


そんなこと言うな、本当になったらどう責任を取ってくれるっていうんだ。それでも手を握って声をかけることしかできなかった。


「お父さん、お母さんも私もいるよ。大丈夫だよ、一人じゃないよ。愛してるよ、この世で一番かっこいいお父さんだよ」また父が、今度は音も立てずに苦しそうにして心拍数が下がった。


段々と、静かに、人工呼吸器をつけた父から呼吸の音がしなくなっていく。心拍を知らせる音がゆっくりになっていく。


手を温めても温めても両親の手は冷たいままだった。


お願いだから。私大学なんてどこにも行けなくてもいい、これまで私なりに闘ってきた全てを明け渡してもいい。だからお願い。


その気持ちはむなしく、心拍を知らせるその音はピーッと音を立てて一定になった。


「愛してるよ、お父さん、」その最後の言葉が届いたのかも分からない。父は咲良が高校三年生になってすぐの時期に命を引き取った。

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