第92話

大切なものを作らないままでいるはずだった。でも気づいたときにはもう大切になっていた。


一人きりで生きていくはずだった。でも気づけば自分の隣には宙と可奈がいた。

二人は傍にいることしかできない、救うことも代わることもできないと言いながらも、唯のいる地獄にずっと一緒にいてくれた。唯にとってはそれだけで十分だった。



怖かったはずの世界はずっと変わらず優しかった。ただ自分が勝手に怖がっていただけだったことに、やっと気付ける時が来た。



宙への、二人への想いを自覚した瞬間、守るものがあれば強くなると聞いていたはずが弱くなった。


あれだけ強く持っていたはずの、あれだけ願っていたはずの死ぬ勇気がなくなった。


誰にも大切にされず、誰の唯一にもならないままで生きていく孤独も、耐えることはもう唯にはできなくなっていた。



三年の間交わされていたメッセージが、電話が、一緒にいる時間が、どんなに暗い素の唯でも宙も可奈も自分のもとから離れなかった。


曲がって拗ねた子どものようで全てを拒否した唯のことを二人ともが認めてくれた。


うつ病が最も辛く重く苦しかったときも二人は唯のもとを離れなかった。それどころか助けにさえ来てくれた。二人の支えのおかげで唯はもう一度立つことができた。


それすらも唯が拒否しようとした日にも、「頼むから心配くらいさせてくれ、頼むから生きていてくれ」と二人は唯の傍にいることをやめなかった。


宙の”まだ”を、可奈の”生きていて”を信じて唯は三年間を生き延びた。そして、「生きていて良かった」と思える日がやっと唯にも来た。


うつ病にかかって良かったと思うことなど到底できなかったが、それでも唯はまた幸せを手に入れた。辛かった時のことは自分自身を守るために記憶から抜けていく。だから唯にとっては今幸せを感じられることで十分だった。


宙も可奈も、もう唯にとってはかけがえのない存在になっていた。

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