第86話
宙はその後何も話さなかった。ただペンを走らせる音とキーボードを打つ音だけが電話越しに聞こえた。
不思議とその音を聞いていると心地よくて、どんなASMRを聞いてみてもどんな「眠れる音源」を聞いてみても訪れなかった眠気がやってきた。大きくあくびをした唯に、
「眠れそうなら寝な。起きちゃっても俺がいる。うなされてたら起こしてあげるから」と言ってくれた。
だんだんとまどろんでまぶたが閉じていく。世界が見えなくなっていく。夢と現実の狭間でこんな早い時間に眠れそうなの久しぶりだ……と思いながら唯は眠りについた。
「唯ちゃんおやすみ。よく眠れますように。……いい夢が見られますように」と宙が言っていたことには気づかなかった。
次の日も、また次の日も、宙は決まって十時半に電話をかけてきた。唯はもうかけなくていい、今日は話したくないと言った日もあったがそれでも宙は毎日電話をかけてきた。唯がもういい、一人でなんとかすると言って頑なになって電話を切った日も何度もあったがそれでも次の日には必ず宙は電話をかけてきた。
不思議と宙が電話の向こう側にいると思うと眠れてしまう。今日も唯は電話をつなげて三十分と経たないうちに眠りについた。
……誰かが追いかけてくる。殺される。逃げなきゃ、見つかったらどうしよう。怖い、怖い、誰か助けて、早く逃げなきゃ、何で私の足動かないの、もっと速く走って、誰か助けて、早く、早く逃げなきゃあの人達みたいになっちゃう……
「……ちゃん、唯ちゃん、唯ちゃん、起きて、うなされてる」
「……ゆ、め? 違う私逃げないと、ここからでないと殺されちゃう、早く……「唯ちゃん、大丈夫。夢だよ、現実じゃない。誰も唯ちゃんのこと襲ってきたりしない。絶対に殺されたりしない。もし本当にそんなことがあったら俺が行くから、守るから大丈夫。夢だよ、絶対に本当にはならない。……唯ちゃん、ゆっくり呼吸して。俺と一緒に。吸って、吐いて。もう一回。……そうそう、上手。もう大丈夫、俺もいるし怖くないよ」
「ゆめ、か、私大丈夫、怖くない、誰も何もしてこない」
「そう。誰も唯ちゃんのこと襲わない。追いかけても来ない」
「ありがとう宙君、もう大丈夫」
「嘘。まだ涙声だからもう少し起きてようか、話し相手になるよ」
「でも宙君勉強あるでしょ、悪いからい「俺もちょうど今休憩時間がほしいからいいの。甘やかされて」
「私から話せるようなことないな、まだちょっと怖い」
「やっと素直になったな、よし。じゃあ昨日海が持ってきた大量のどんぐりから虫出てきてうち中が大騒ぎになった話でもする?」
「意地悪、私が虫嫌いなの知ってて言ったでしょ。次の夢にでっかい虫とか出てきたら絶対宙君のせい」
「ごめんごめん、じゃあ我が家の今日のご飯の話でもしようかな」
宙は毎日電話してくれたし、唯がうなされて泣いて目を覚ましたときには必ず唯が落ち着くまで、唯が大丈夫と言っても聞かずに怖くなくなるまで話してくれた。
そしてその後の宙のタイピングの音で唯はまた眠りについた。段々と唯の眠りは深くなっていった。
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