第54話

宙の足下に落としたらしく、おそらく拾い上げられて机の上に乗っていたのは、ハンカチを取り出そうと焦って落とした障害者手帳だった。



心の底から冷たくなっていく。頭が真っ白になって時間が止まったような気すらした。



固まったまま動けない唯に、「ごめんね、見られたくなかったと思うんだけど大事なものだから」と宙が言った。


「こっちこそこんなもの落としてごめんなさ……「謝んないで。ごめんじゃないし”こんなもの”でもない。唯ちゃんのこと助けてくれるものでしょこれ。」


と言われ何も言えないまま席について手帳をバッグにしまった。面と向かっても宙は何も訊いてこない。




違う、違うの。違うって何が、これは確かに私の手帳で、でも違うの。でも私が障害者なのは変わらない、それでも違うの。言いたいことは山ほどあった。


バッグごと持って行けば良かったという後悔も今となっては後の祭りだった。


口を開いても何も言葉が出てこない。長く静かな、唯にとっては永遠にも感じられるような時間が続いて、先に沈黙を破ったのは宙だった。




「さっき唯ちゃんごめんって言おうとしてたけど、俺こそごめん。見られたいものじゃなかったよね。拾っちゃってごめん。唯ちゃんにとって大事なものだと思ったら見過ごせなかった。俺には詳しくわかんないけど、ここ一年半、ずっと一人で闘ってたんでしょ。


で、今もきっと闘ってるんだよね。本当は俺、二年の夏頃から唯ちゃんの様子がちょっと変わってたのに気づいてたんだ。でも何も言えなかった。


何の助けにもなれなかった。ごめん。今も無理、してるでしょ。頼むから、……頼むから一人で無理しないで。こんな何もできなかった俺だけど、良かったら頼ってくれない?


もう一人で苦しい思い、してほしくないから」


宙の声は苦しげだった。


ごめんなんて言われる資格、私にはないのに。助けてもらいたいなんて、話を聞いてほしいだなんて、今更なのに。


私が話を聞いてもらっても私が楽をもらえるだけで宙はきっと楽になんてならないのに。


私は家事も勉強も、休むことでさえも、何も出来ない最悪な人間だから苦しまなきゃいけないのに。


大体宙が誰にもそれを話さないという確証はない。今更ただ言わないでおいてくれなんて相手に信頼しきったようなことをするなんて馬鹿げていると思った。



ーーでも、もう楽になってしまいたかった。一人で抱え込むのは限界だった。


それを自覚した瞬間、堰が切れた。


「私、わたし、……発達、障害なの。ASD、授業でやったって、教えてくれたよね。それでこの一年半はそれが原因で適応障害に罹って、ここ半年はそれもうつ病に変わってて、」


途切れ途切れになる唯の言葉を、宙はただ優しく頷きながら聞いていた。しばらくして頬に伸ばされた手が目元に触れて、初めて自分が泣いていることに気づいた。


外で、しかも人がいるところで泣くなんて最悪だ、早く泣き止まなきゃ。そう思っても涙は頬を伝ってテーブルに落ちた。




もう大切なものは作らないーー唯がそう決めてから本当の自分を人にさらけ出したのは、実に六年ぶりのことだった。



唯が落ち着くまで店員はケーキを持ってこなかった。小さくてもよく気の利いた店だった。

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