第46話

唯には高校時代に適応障害を寛解させた経験があったもののそれは学校で自分を創り続けていたストレスから離れたためであり、家庭生活の全てを管理していたことによるストレスはそう簡単にはなくならなかった。


乱れた生活に加え定期的にやってくる希死念慮ーーつまり自死の衝動というものが厄介で、唯は何度もアパート三階の自室から下を見下げることになった。


もっとも、一番うつが重かった時期には死ぬ気力どころか泣く気力すら残っていなかった。


自分の見ている世界から現実感が消え、画面を通して景色を見ているような、自分が口にした言葉にも動かしたはずの体にも実感が伴わないような気分で過ごしているうちに一日が終わっていた。


自分がいつも通りに生活できていないこと、両親を心配させていること、友人をきっと心配させていること、治る気のしない病気。治ったとしても再発するかもしれない。


泣きたいことは山ほどあったはずなのに、涙は涸れたように一滴たりとも落ちて来なかった。




少し回復した頃に希死念慮は唐突にやってくる。唯は一週間に少なくとも一回はベランダで希死念慮と過ごしていた。


車に轢かれれば轢いてしまった人がお金を払わなければいけなくなる。首をつればこの部屋は事故物件になって大家さんに迷惑をかける。


その時唯に残されていた選択肢は三階からの身投げだけだった。


ただそのたびに家族の顔が、そしてなぜか宙の顔が浮かぶ。そしてベランダから落ちた無惨な姿の自分を最初に見つけた人の気持ちを考えてしまう。


それはどんなに悲惨なことだろうか。その人に一生のトラウマを植え付けてしまったらどうなるのか。死んだ自分が責任など取れようはずもない。


だいたい三階から落ちたとしても確実に楽になれる保証はない。逆に身体障害まで抱えてこの先を生きなければいけなくなる可能性だってある。


そうなったら今度はきっと簡単に死ぬことすら許されないだろう。


そこまで考え尽くしていても希死念慮が全てに打ち勝ってベランダから身を乗り出すこともあり、唯は半年間の間に三回の入院を経験した。


涙を流せば強くなれるなんて嘘で、涙は流れれば流れるほどこれまで唯が何年もかけて懸命に積み上げてきた自信が崩れていくようだった。

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