第41話

その時宙ができることといえば、唯にいつも通りメッセージを送ること、そして彼女が帰ってきたときに同じ科目を教えられるように勉学に励むことくらいだった。


宙が文学部でもないにもかかわらず卒業単位にカウントされない心理学の授業をとり続けていたのは、心理学の勉強がしたくて文学部に入学したという唯との接点を一つでも多く残しておきたかったからだった。


そして心理学の世界というものは案外面白く、ADHDの弟を持つ宙にとっては勉強になることも多かった。


年の離れた弟であったためまだ治療という治療はしていなかったが、ADHDには不注意や衝動性があると聞くと確かにそれは弟の海にぴったりだった。


自分の後ろをくっついてきたかと思えば急に突拍子もないことを訊いてくる。会話していても話がいきなり飛ぶことも多く、まともな話はほとんどできない。その上目を離すとすぐどこかへ走り出してしまう。


「ねえお兄ちゃんね、今日これの勉強して漢字書けるようになったよ!」


「すごいじゃん宙。どんな漢字?」


「そういえば虫見つけて捕まえてきた!」


なんて端から見れば訳の分からない会話が海との会話の殆どだった。


おかげで宙は相手の脳内を推測することは少し得意になった、ような気もする。多分書いた漢字が虫だったんだろうな、なんて具合に。


ランドセルを忘れて小学校に出かけたことも何度かあったし、傘をなくして帰ってくることなど日常茶飯事だった。


小学校も半ばに入る頃には海用の傘はコンビニで売っている安価なビニール傘で定着していた。


宙にとってはそんなうっかりしたところももう今では愛おしい一面だったが、社会に出るとそれが”障害”としてのしかかることを知った。


確かに傘をなくす程度ならまだしも、営業先に資料を忘れて行ったりプレゼン中に話があさっての方向にいったりすることが重なればそのままその職場で働き続けることが困難なのは想像に難くない。


どんな職場に行ったとしても海の”うっかり”が続いてしまえば首にされてしまうこともあるかもしれない。


今発達障害に理解があってサポートしてくれてきちんと正当な給料を出してくれる会社などどれくらいあるのかも分からないし、あったとしても倍率は高くなるだろう。


それならばおそらく障害の程度が軽く優秀な人材から採用されていく。


教授が補足として付け足した内容では十八歳までにADHDの症状は落ち着いてくることが多いこと、そしてADHDに有効な薬が認められていることも書かれていた。


コンサータ、ストラテラ、インチュ二ブ、ビバンセ。どれも宙には聞き馴染みのないものだったが、使った人からは感動の声が出ているらしい。


海が見ている世界は自分のそれとどれだけ違うのだろうか。


薬を使って感動するほどの違いがあるならば、海が、そしてADHDを持つ人が話している間に脳の中では自分の比ではないほどの様々な考えや単語がぐるぐると回り続けているのかもしれない。


自分ならそんな脳に耐えられるだろうか。海が最初からその脳を持っていたとは言え、そしてそれを今は家族や友人に受け入れられて過ごしているとはいえ、いつかは必ず”普通の脳”を持った人と話す時が来る。それまでに海が落ち着いているのかは分からない。


落ち着かなかったら、その時の海を守らなくてはいけない。海のための助けをしなければならない。


そう思うと講義にも身が入った。

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