第89話

葬式が終わっても、納骨されても、陽向がいなくなった実感はわかなかった。陽向の両親には頭を下げて守れなかった、申し訳ないと言うことしかできなかった。陽向の両親が泣いているのを見ても涙は出なかった。本当なら責め立てて欲しかった。なんで彼女を助けられなかったんだと、なんで彼女の最期にすら立ち会わなかったんだと責めて欲しかった。でも両親はそうしなかった。それがまた悔しかった。


保険金が下りても、トラックの運転手と助けた子どもの親からいくらもらって謝られても、そんなもの、としか思えなかった。


会社ではいつも通りに仕事をこなしていても、その目はどこかうつろだった。


陽向がこの世を去って一ヶ月が経った頃、望が寝た後にふと思い立って陽向が大切にしていた手帳を三冊ほど出してきて開いた。


「研修に絶対ついていく、振り落とされない」

「せっかく受かったんだ、実家に帰ってたまるか」

「プレゼン資料の作り方」

「鬼上司になんて絶対負けない、フォローもされなくて良い私になる」

「仕事の手順 これだけは絶対に大事、忘れないで確認する」


スケジュールの欄にも仕事の内容が端から書かれていた。足りなくなった分はA4の紙にぎっしり書かれて挟み込まれていた。


そして自分の字で「励め」と書かれている付箋もあった。そういえばカフェラテと一緒に置いたことがあったような気もする。付き合ってすらいなかった、好意を伝えられたことすら無いようなずっと昔に。こんなものまで後生大事に持っていたっていうのか。そう思うと陽向に会いたくてたまらなくなった。



取引先の対応をした人に関しては似顔絵と一言が添えられていた。

「近藤さん 髪の毛真っ白なのに眉毛だけ真っ黒。なんでだかわからない。あの人は眉毛から生まれてきたのかな」

「城田さん 絶対にあれはヅラだ、間違いない、絶対にいつか吹っ飛ぶ。できることならその瞬間に立ち会いたい」

「斉藤さん 営業に行ったら可愛いねって褒めてくれた、うれしい。優しいのと事務所のお茶菓子が美味しい」

「田中さん 見た目が完全にカタギじゃない、怖い。あれでサングラスしたらもう絶対に映画に出てくるヤクザ、何ならマフィア」

「小山さん ちょっと大きい、大分大きい。なんかのマスコットキャラクターみたいでおじさんなのにかわいい。小山さんなのにエベレスト級に大きい」


その似顔絵は確かに取引先の担当者に似ていて面白かった。


びっしり書かれた手帳をめくるごとに出なかったはずの涙が出てきた。


「絶対弱火、奏斗さんにまずいご飯なんて食べさせない」

「後輩の教育の仕方 私は鬼にならない。私は優しく上手に後輩を育てる」

「岩崎先輩のフォローの仕方」

婚姻届に書いた名前のメモも大事に挟んであった。「本郷陽向、本郷陽向、本郷陽向」

「今日からは岩崎陽向」


「妊娠について」

「夜泣きは安心して寝てもいい、私の元気も大事、望に伝わる」

「望に食べさせて良いものと悪いもの」

「望のお気に入りメニュー」

「たくさん話しかける、どこにでも連れて行く」


「最期の記憶は二人で埋める」


そのページは涙で濡れていた。診断を受けた日に泣きながら書いたのだろう。


次のページを開くと左ページは真っ白で、右のページだけに文字が書いてあった。

もう左目は失明した後の日記だった。


「最期の記憶まで絶対二人でいっぱいにする、愛する人を見て感じて三人で長生きする」

「私の目が見えなくなっても奏斗さんがいてくれる。そう言ってくれたから生きようと思えた。奏斗さんありがとう、愛してる」


「絶対に長生きする。でも、それでももしも私に何かあったら、ビデオカメラを見てみてね。私の気持ち全てが詰まってるよ」


そのメッセージに奏斗は立ち上がった。

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