第87話

家に帰る途中、奏斗が「ストップ、赤信号です皆で止まりましょう」と言った。その頃には陽向の左目はもう殆ど見えていなかったので、外を歩くときは必ず奏斗が声をかけるようになっていた。望も買ったばかりのランドセルを背負ってはーいと良い返事をした。


三人で並んで青になるのを待つ。近くに運送会社があるため、トラックが多く走っている。さすがに左目の視野を失った陽向でも音でそれが分かった。


その時、陽向の右目のほんのわずかな視界に、飛び出してくるサッカーボールとそれを追いかけてくるランドセルをしょったままの男の子が見えた。ーー近くには、大型トラック。


陽向は望の手を離して走り出した。お願い、間に合え。あの子はまだこれから未来があるんだ、私にも守らなきゃいけないものがあるんだ。間に合え、間に合え、間に合え。


「陽向待て!「ママ! ママ!」「望行くな、駄目だ止まれ」奏斗が望を押さえつけていた間に陽向は男の子を歩道に突き飛ばした。転んだ男の子の泣き声がこっちまで聞こえてくる。


そしてその瞬間、大型トラックにぶつかって、ーー陽向が吹っ飛んだ。


「陽向!!」その倒れた妻に今すぐ駆け寄りたかった。でも俺には守らなきゃいけない人がもう一人いる。


「望、見るな、何も見るな。目を閉じてろ、……そう、いい子だ」そう言って手で目を覆って泣きじゃくる望を走らないように押さえつけた。ゆっくりと振り向かせてまだ汚れひとつないランドセルの下から抱きしめ直す。自分と、陽向と同じ柔軟剤の香りに望を埋めてとにかく見せないように、後から怖かったなって笑う時にランドセルの傷で思い出さないように。


歩道では突き飛ばされた男の子がまだ泣いている。陽向の横たわる場所には、見て生死が分かるほどに大量の血が流れていた。


ーーもう助からないんじゃないか。

その考えがよぎる。それでも。「誰か救急車呼べ! 早く! 早く呼んでくれ! あれは俺の妻だ、この子の母親だ、早く!」


人生で一番大きい声を出した。人が集まってきてすぐに救急車が呼ばれた。それなのにいつまで経っても来ない。


早く、早く、早くしてくれ。今陽向は死にかけているんだ、ーーもしかしたら。でも陽向のことなんだ、きっと生きている、最後の瞬間まで俺たちを見るって言ったんだ、絶対にまだ生きている。彼女はこんなんで死んじゃいけない。陽向には見ていたいものがまだ山ほどあるんだ。だから、とにかく早く来てくれ。早く彼女を助けてくれ。俺の寿命を分けるから。どうか助かってくれ、早く来てくれ。


いくら陽向の元に走り出したくても、望がそれを、倒れた母親の姿とそこに流れる血の匂いを記憶に残してしまったらと思うと奏斗には望を押さえつけてその場から動かないことしかできなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る