第70話

ある日目を覚ました時、違和感を感じた。いつもの部屋だから脳内補完されてどこに何があるのかはすぐに分かる。でも何かがおかしい。隣で眠っているはずの望と奏斗の顔を見てそれが確信に変わった。


ーーいつもよりも見えていない。望の顔が、奏斗さんの顔が欠けて見える。これって、緑内障が進んだって事、ってことはもうこれは元には戻らないって、ことだ。


ベッドを静かに抜け出してリビングに向かう。三人で取った写真を引っ張り出してきて開く。それも一部分が欠けて見えて、もう元通りになれないんだと絶望した。


アルバムに涙が落ちる。いつかこうなることは分かっていた。もっと酷くなっていくだろう事も。でも実際に直面してみるとこんなに悲しいだなんて思わなかった。


アルバムを動かさないと小さな望の顔は真っ白に見えてまるでいないかのように写ってしまう。一番大切な、自分の命よりも大切なその子の顔が満足に見られない。


この子は大きくなる。でもそれと同時に、もしかしたらそれよりも早くこの子の顔が見られなくなってしまうかも知れない。


こんなに愛しい人との愛しい子の顔が。奏斗の顔ですら少し欠けて見える気さえしてしまう。自分がかかった病は治らない。知っている。知っているからこそ悔しくて悲しくてたまらない。治療だって欠かさずにしてきたはずだ。それなのに残酷に時は進んで自分の視野を奪っていく。


もしも明日目を覚ましたときに何も見えなくなっていたら。全てが真っ白になっていたら。この世界に何もなくなったしまったら。


アルバムの写真の上にいくつも涙が落ちていく。その時隣の部屋から足音がした。咄嗟に涙を拭ってアルバムの涙も拭き取る。


「奏斗さん、おはよう」


「陽向、早いな。……どうした、そんなに不安そうな顔して」


愛している人に、愛されている人に、作り笑いなんて通用するはずがなかった。その優しい声に涙がまた溢れてくる。そばに寄ってきた奏斗が陽向を抱きしめた。


「奏斗さん、あのね、左目、あんまり見えないの。右目も前より見えない。今朝起きたらもう昨日とは違ったの。どうしよう、明日起きた時に何も見えなくなってたら。

大好きな物、何も見えなかったら。分かってた。分かってたはずなのにっ、悲しいよ。こんな酷い事ってないよ。望の顔が欠けて見えるの。望が大人になるのは、やっぱり私には見られないのかな」


抱きしめた奏斗は何も言わなかった。ただ泣いている陽向を抱きしめて、その背中をさすって、陽向が落ち着くのを待ってくれていた。


しばらくして収まった涙と同時に、「医者の言葉を信じよう。まだ陽向には何年もある。絶対にだ。明日見えなくなるなんて事、絶対にない」と力強い声で奏斗が言った。


その力強さが陽向を少しだけ安心させた。その日から、陽向の目はゆっくりと、だが着実に見えなくなっていった。

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