第16話

その日から心なしかあの鬼上司が優しくなった、ような気がした。


月のもので自分が青い顔をしているときには自分から仕事をひったくっていってくれる。何でかと聞いても「俺の手が空いてたからこっちの方が効率が良いと思っただけだ。余計な考えをするな」と言われる。残業はしないでいいから残業するくらいなら俺によこせと言ってくる。それも一人だと非効率だからと理由を付けてくれる。


飲み会は参加すると自分が言えば必ず参加して隣にいてくれるし、自分が好きに飲めるように初回と同じように酌をさせている体にしてくれる。さらには自分の酒量まで見極めて途中でストップをかけてくれるようになった。




一体どういう風の吹き回しだ。これまであんなに鬼のように仕事を回してはできないと言いかけたときには睨み付けていたくせに、今はその仕事を自分から持っていくなんて。


あんなに怖かったのに、あんなに嫌いだったのに。鬼だと思ってたから気の迷いだと思っていられたのに。これじゃ本気でかっこいいと思ってしまう、本気で追いかけていきたくなってしまう。どうしてこんなに変わったんだ。




そんな事を考えていた日、鬼のいぬ間に営業部の別の先輩から声をかけられた。


そういえば研修の時にいた優しそうだった人だ。初日に真ん中で話してた人だったな。確か名前は……えっと、分からん……何だっけ、確か……やっぱり分からん。


「多分君覚えてないだろうけど、研修してた林です。岩崎に大分絞られてたみたいだから大丈夫かと思って」


名前を覚えていないことまで見透かされていたのが少し恥ずかしかった。林さん。今覚えた、この人は優しい。多分。少なくともあの鬼よりは優しい。だって顔つきからして優しさがにじみ出てる、あいつは顔から邪気が出てる。


「ありがとうございます、なんとか大丈夫です。今日は何かご用件で」


「いや、要件って程ではないかな。……本郷さんにちょっと言っておこうかと思って。あいつ実は二年連続で後輩辞めさせてんだよね、二人とも岩崎についていけなくて早期退職。


だから実は俺たちの中ではくっついってってる彼女は結構頑張ってるって話になってたんだよね。ただこれ言うと岩崎多分絞ってたのばらされて俺らが怒られるからオフレコで。……でさ、本郷さん最近ちょっと優しくされ始めてない?」


「ああ、ちょっと前よりは……マシになったって言うか……」


「マシになった程度か、その言い方はやっぱりかなり絞られてたね。……それね、あいつなりの認めたっていう意味だから。あいつわかりにくいけど、なんだかんだ本郷さんのこと気にかけてたよ。毎日残業させてた分体調に変化がないかとか、顔色が悪くないかとかはすごいよく見てたし。


で、同じ仕事する上で認めたから最近はちょっと優しくっていうか普通に接しようとしてるっていうか。あいつ不器用だからなかなか素直に優しくできないと思うけど。


ただあれがあいつの普通だからあんまり嫌わないでやって。無理な話だったらもちろん強制はしないけど。多分本郷さんがどこに行っても仕事ついて行けるようにしてやりたいだけだからあいつ。


って事で今のオフレコね、言ったら俺が大分怒られるからそれは勘弁。頑張ってる本郷さんに俺たち岩崎同期からのエールってやつで。……じゃ、また何かあれば」


そう言って林さんは元の席に戻っていった。




私のこと認めてくれてる。陽向はもう思い出したくもなかったあの日の記憶を、一瞬だけ我慢することにして引っ張り出した。


ーー次からがあるならいい、俺もさっきは言い過ぎた。お前のことは使える部下として認めてる。だから辞めなくていい。


私あの時フォローじゃなくて本気で部下として認められてたって事か……? そう思うと嬉しかった。


優しくしてくれるのは私が全力でついていったことを認めてくれたからなんだ。あの人を、私は追いかけていていいんだ。


やっぱり私、あの人がいつかは追い越したい存在なんだ。かっこいい上司なんだ。


ーーもしかしたら本気で好き、なのか……? まさか、でももしかしたらそうなのか?


いやでもまだそれが本当の気持ちなのかはわからない。その考えは一旦どこかに放っておいてとりあえず上司として、先輩として尊敬したい人だってことがわかった。じゃあ今まで通り、今までよりも仕事して結果出してやる。


そう思いながらデスクに戻って仕事に手を付け始めた。


「岩崎さん、私追い越しますから」


一人で呟いた声が隣のデスクに聞こえていたことには気付かなかった。



「おおそれは大層な目標だこって、まあ余裕で待っててやるから精々働け。働いて働いて少しでも俺を楽にしろ」


「ちょっと人の独り言聞かないでくださいよ、プライバシーの侵害、訴えてやる」


「お前が聞こえるように言ってきたから返してやっただけだろうが。本郷も定年するまでに追い越せるといいけどな、残念なことに俺にその未来は見えないがな」


「ちょっと失礼すぎるこの上司、やっぱり私林さんのところ行きたい。絶対そっちの方が楽しい」


「あん? 林と何か話したのかお前。お前顔覚え悪いのに何で林の顔と名前が一致してやがる」


あ、まずい。


脊髄反射で話してません、だって研修の時優しかったしと答えた。


「言っとくけどあいつの方が優しく見えて容赦ないぞ、行ってもいいが泣いて戻ってきてもお前の椅子はなくなるからな」


「やっぱりいいです、このむかつく鬼上司を倒してからにします」


「はいはい鬼ね、そう呼ぶなら鬼になってやるよはい仕事追加。今日中な」


「くっそう……鬼め、鬼の子め……桃太郎連れてきてやる」


その頃あの小娘はよく岩崎なんかに懐いたなと言われるようになっていたし、陽向も面と向かって鬼上司と呼べる程度には信頼関係を深めていた。

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