2-2
――――……比較的心地良い環境と静寂さに包まれながら、自身と昆虫を媒体に人間界を巡回させ、人間の行動を脳という巨大なパノラマに繋ぎ、数多ある映像を介して監視するジュノー。
本来なら地球の裏側にまで監視を手広く配置させるのだが、昨晩の件もあり、今日だけは特別狭い範囲で集中的に捜索を行っている。ただ早朝という事もあり、主に出勤のために忙しなく目的地へ向かう者が殆どで、時間に追われるごく普通の日常が眼下に広がる。
つまりこの時間帯は得られる情報は極端に少なく、監視の手も緩ませる束の間の休息となる。
しかしあまりに非現実的な出来事によって、この平穏が転換期を迎える知らせを得た。
道中、昆虫を潰す謎の男の情報がジュノーの監視下に飛び込んだのだ。
この珍事に多くの昆虫を手配すれば、予想を裏切らない男はジュノーの昆虫だけピンポイントに潰していく。それは不快に思う感情のようで、自らの存在を主張する行為のようで……。
より詳しい情報を得たいジュノ―は、忙しなく脳天から声を出して高らかとフレイの名を呼ぶ。あの深夜の出来事からそう間が立たず、眠気眼のフレイではあるが、ジュノーの苦虫を嚙み潰したような横顔を目にする事で、寝ぼけた頭は一気に目覚める。
「申し訳ないけれど、この男と会って意向を聞いて欲しいの。お願いできるかしら?」
一部の白髪が宙に浮き、縦に並ぶと、毛髪は溶けて結合してなだらかとなり物質を変えて、薄いながら鮮明で近代的な映像が浮かび、色彩豊かに男の顔と全身が映し出されたと思えば、今度は衛星画面のように、男の現在地をリアルな地図で明確な指示を事細かく表現してくれる。
「意向……と言うのは、話しを聞くだけで良いのかな? ジュノーは何を知りたいの?」
「厳密に言えば希望を聞くだけで、決して譲歩も承諾もしないで欲しいの。貴方はただ毅然とした態度で臨めばいいわ。ジェームスを従えなさい、役立つかもしれないわ」
「分かった、努力はするよ」
ジュノー管轄の小さな指導者、赤いテントウムシに擬態している意思を持つ毛髪の【ジェームス】は、総括だけあり、会話は出来ないものの語学を理解する非常に賢い昆虫だ。
そんな心強い友を得て、フレイは不審な男が待つビジネス街を目指す……。
「……来たか、少年!」
忙しない早朝を駆け抜けて、ビジネス街は人が疎らとなった朝九時過ぎ。
舞台を一棟のビジネスビルの屋上に移して、大量の昆虫を潰した男はフレイをまるで昔からの友人のように意気揚々と、子供の姿のフレイとその傍らに存在するジェームスの到着を心待ちにしていたのだから、引き締まった顔は呆気に取られた表情で満ちる他ない。
(な、なんか、調子が狂いそうな空気が漂っているような……)
着いて早々フレイの勘が騒ぐが、残念ながらその予想は見事的中する事となる。
「手荒い方法で悪かった。他に効率の良い方法が思いつかなかったんだ、許せ!」
素が陽気な性格と百歩譲ったとしても、あまりに軽快に、気楽に話す姿はとても馴れ馴れしい。謎の友好的な態度によって主導権を握られたフレイたちは、ただただ唖然とするばかりだ。
「き、君は一体何が目的なんだ? 何故わざわざ僕たちを呼んだんだ?」
「何故? こんな面白い素材を前に一人楽しむには些か贅沢だろう。喜びは共有する事で増幅するもんだろ。つまりは心の距離も縮むってもんだ。そうは思わないか、少年?」
話の内容から事を穏便に進めたいと思うも、己の主張は聞き入れて欲しい事情で溢れている。
「残念だが君の要望を叶えることは出来ない。他を当たってほしい」
「すぐにとは言わん。そう滅多にない巡り合わせだ、ここで断るのは得策でないと思わないか?」
男が口を割る度にフレイの不信感を煽る中、それを超える不快感で激怒しているのはジェームスだ。自身を主張する為だけに仲間を潰したのだと知れば、この怒りは当然だ。普段冷静な対応が持ち味のジェームスも今回の件は許し難く、湧き出る憤慨をコントロール出来ない。
「赤いの、中々陰険な顔をしている。ストレスを溜めると後々面倒だ。少しは気楽にしろよ」
小さなジェームスの感情を細かな動きだけで見極める、鋭い洞察力を発揮する男。
更にジェームスの「誰のせいでッ!」と言いたげな心の叫びが伝わる雰囲気だというのに、自身がその元凶とはからきし気付かない事から、男の神経は相当な図太さと認識出来た。
「まぁ、例えどんなに有益な情報を持とうが首は縦に振れない。こちらの事情も察してくれ」
「そうだよなぁ、確か俺が何者か、一度知らしめる必要はあるか」
いまいち成り立たない会話に収拾をつける為なのか、男は突然右手をフレイに差し出す。
集中力を研ぎ澄ませて左眼に力を注ぐと、瞳孔が開いた男の虹彩は鮮やかな赤に染まる。
右腕の骨と筋肉を増殖・増強させて、腕の付け根から手のひらに掛けての骨の一部が容赦なく折れる凄惨な音と、血管を突き破る音まで残酷に鳴らして、直視出来ないグロテスクな改造の後、右手に馴染む形で露わとなったのは、艶の無い重厚感ある黒血に染まった立派な銃。
右腕付け根の内部から爪先に至るまでの骨から筋肉、血管を活用して巧妙に組み立てられており、既存の銃とは比較にならない性能を屈指ながら、基本、弾は凝固させた血液を頼りにした作りで、右腕に束ねた太い血管を銃口へ直通させる為の精巧な体内改造を施した珍しい能力。
巧妙に肉体を癒着させた事で実弾用のシリンダーも採用させた構造からは、完璧な回転式拳銃である事を視覚に訴えてくる。何より黒血のバレルには、白光する【№05】の刻印がその身分と地位を主張しているのだから、突然の暴力で殴り掛かられたような衝撃を受ける。
(これは
この男の変異は、フレイたちの変容に加え、ステラの手術技術と同格の【
これは多方面に神経が行き届き、並外れた技術を持つフレイたちだからこそ扱える代物であり、人間に如何ほどの潜在能力があろうと、ただの宝の持ち腐れ。つまり
「これ、見た目通り完全に俺と同化して離れなくてな。中々厄介だろ?」
かなり脱力しながら話してはいるが、この残酷な成形による激痛は計り知れないものと、フレイの経験に訴え掛けるも、相変わらず気楽な雰囲気を崩す気配を見せない男。
まず根本からフレイには№05との接触は記憶の片隅にも無いほど稀薄で、想起も実に曖昧。
その理由はフレイたちが人間界との密接を決意してから、記録を残すのは好ましくなく、記憶を記録方法として採用した。当然記憶は万能ではないし、脳に入れる情報にも制限がある。
今回、単にフレイが『忘れている』のか判断しずらい状況にあって、焦って損じるより、ゆっくり答えに近づく方が無難と言えるだろう。何より男がそれを望んでいるように見える。
ジェームスにとって悪害他ならない存在と理解しつつも、普通の人間すら生き辛い世の中、フレイたちへの連絡手段も限られている事から、この判断が致し方ない点も理解出来る。
そんな見解を巡らす事で、男に対する警戒心が減る一方のフレイだが、理解を示した良心を阻害するように、癖の強い男は最悪の未来へ続く方向へ容赦なく移行させていく。
男は突然、悪意を持ってフレイの首を掴み、地面に押し倒したのだ。
思いもしない襲撃でフレイを撹乱させたまま、男は無理難題を押し付ける。絞殺するなら幸い。問題は生かすその方法にあり、有ろう事か究極の災いへ陥れる封印を強引に解くのだから。
フレイの首を固定し無理矢理目線を合わせると、赤く灯った男の左眼が映写機のような仕組みでフレイの右眼を被写体にして大量の情報をフレイに注ぎ込む。暴れるフレイがみるみる大人しくなると、最後は生気を失くして酷く怯える事態に陥る。一見すると何の変哲もない行動の中、覚束ない眼が小刻みに震えだした頃合いで、男はフレイを自由の身へ。
この数十秒の出来事でフレイの精神は異常を来たし、正常な感覚を把握するための脳も上手く機能せず、漠然とした不安から眼を見開き、放たれた自由に縋るように男のもとを去る。
この過程でフレイの異常性を垣間見たというのに、男は何事も無かったように後ろポケットから煙草を取り出し加えて火に近づける。先程までの陽気さと気楽さが消え去り、深追いもせず、まるで他人事のようにフレイの姿が見えなくなるまで静かに見送った……――――
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