森下風雅1

僕にはやりたいことがいっぱいあった。


小学校に行くこと、新しくできた遊園地に行くこと、シュークリームをお腹いっぱい食べること。


まだ全部できていなかった。


それなのに、僕はもう死ぬらしい。


ひどく寒い夜だった。


朝からいつものようにいくつかの検査をした。


看護師の山本さんの顔がいつもより暗いように見えた。


山本さんは若い女の人で僕が入院し始めた4年前からずっとこの病院にいる。


「今日はお医者さんのとこ、いこっか」


なんだか嫌な予感がした。


その予感は的中した。


「森下さんは余命1ヶ月です」


お医者さんは無表情でそう言った。


患者用の椅子は冷えていた。


言っている意味がよくわからなかった。


僕はまだ9歳だし、まだ大人にもなっていない。


そんな僕が死ぬだなんて。


ぼくよりずっと大人なお医者さんもまだ生きているのに。


怖かった。死んだらどうなるのかわからなかった。


急に暗闇におそわれた。


診察室から飛び出して逃げた。こわいこわいこわい!


真っ黒な怖いものは一気に僕を飲み込んで、何も見えなくなった。


「死にたくないよ!」「1ヶ月なんていやだ」


怖くて一生懸命抵抗するのに、逃げられなかった。


そんなとき、声が聞こえたんだ。


天使みたいだった。


「死ぬのは怖くないよ」


僕を包んでいた真っ黒は消えて、女の人が現れた。


優しい笑顔だった。


胸がぎゅってした。こんなのは初めてだった。


「死ぬのは怖いよ」


僕の声は掠れていた。


「ううん、怖くない。教えてあげる」


その人ははっきりそう言った。もう怖くなかった。


僕はこの顔を知っていた。


山本さんが教えてくれた。


こはるちゃんって言って、高校生のお姉さんだそうだ。


こはるちゃんの病室には山本さんもよく言ってるり、お母さんとお父さんもよくきているみたいだ。


こはるちゃんは僕とはちがう。


愛されてるんだ。


こはるちゃんは僕の手を握って走った。


「看護師さん、屋上いってきます!」


こはるちゃんは屋上って言った。


屋上、行ったことがなかった。


こはるちゃんに階段は登れるか聞かれた。


登れたけどなんでだか僕は首を振った。


こはるちゃんは僕を軽々と持ち上げて、お姫様だっこにして階段を駆け上がった。


胸がまたぎゅっとした。


いままでで一番楽しかった。


屋上までの扉が開かれた。


僕は下された。ちょっと名残惜しい。


「すっごーーい」


目の前には真っ青な空が広がり、昨日降った雨に空が反射していた。


目に映るもの全てがきらきらしていた。


僕は屋上中を走り回った。


全部が新しかった。


池もあった。これも綺麗だった。


お花が植えてあったりもした。誰が手入れしているんだろう。


一通り見終えて、こはるちゃんのところに戻ってきた。


こはるちゃんは僕を見ている。


それが嬉しかった。


「死ぬのは怖くないってなんで?」


僕よりもずっと大人なこはるちゃんにそう聞く。


彼女は嬉しそうに笑って言った。


「いまから教えてあげるよ」


すると、僕の体がふわっと浮いて目の前には10階下の地面が見えた。


こはるちゃんに抱きかかえられているのだ。


そう気づいたのは行き交う車たちを見て、数秒後のことだった。


おもわずひって声が出た。


「怖いよ…はなして」


そうこはるちゃんに頼んだけど離してくれなかった。


血の気がひく。


車に撥ねられる僕。地面で潰れる僕。


全部容易に想像できて嫌だった。


「怖いの?おかしいな」


そんな僕とは反対にこはるちゃんそんなことを不思議そうに言った。


「こはるちゃん!話して!」


そう叫んだ。


すると急にこはるちゃんの力が弱くなって僕は柵から逃げた。


まだ少し足が震えた。


「私の名前を知ってるの?」


驚いたようにそんなことを聞かれた。


知ってるに決まってるじゃないか。


「知ってる、山本さんから聞いた。」


ずっと小春ちゃんに憧れていた。


「ねえ、こはるちゃんは死ぬのが怖くないの?」


こはるちゃんはさっき怖がるどころか楽しそうにしていた。


こはるちゃんはきれいだった。


「怖くないよ」


肩まである髪が風に揺れていた。


「なんで?」


少しだけおでこにしわが寄ったのを僕は見逃さなかった。


「生きることの方がずっとずっと怖いからかな」


不思議だった。


こはるちゃんはお父さんもお母さんもいて毎日のように病院にきてもらっている。


山本さんもこはるちゃんが好きみたいだし小学校にも行ったことがあるらしい。


なのに、生きるのが怖いなんて。


でも怖いと語るこはるちゃんはいまにも泣きそうだった。


こはるちゃんは闘っていた。


生きるという呪いから逃れれないんだ。


思わずこはるちゃんに抱きつきつぶやいた。


「僕はこはるちゃんが死んだら嫌だ」


本当だった。行きたかった小学校も、欲しかったお母さんもいらない。


こはるちゃんがいればいらなかった。


死んでもよかった。


「ありがとう」


頭上からそれが降ってきた。


嬉しかった。


しばらくして僕たちは少し離れた。


こはるちゃんは笑っていた。


「明日も教えてよ」


僕も笑った。








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