502年4月「白球の行方」
春の府大会、五回戦。市営球場のスタンドに観客はまばらだ。
夏に向けたシード権を争うこの大会は、既に消化試合となっていた。
というのも、上位ベスト十六にシード権が与えられるため、これ以上勝っても意味が薄い。それよりも、勝ち残って下手に注目を浴びたり、対戦相手にデータを取られることを避けるため、どの学校も手を抜くのが通例だった。結果、試合展開も盛り上がらないので観客も少なくなる。
そのマウンドに、俺はいた。
夕方の第四試合で無名の公立校カードだから、観客はまばらだ。
そんな事情など関係なく、俺は緊張で手が震えている。
何しろ、これが公式戦初登板なのだから。
負けたら終わりのトーナメント戦、六回裏の〇対〇。
ひりつく緊張に口の中が乾き、呼吸が荒くなる。
誰の声も、耳に届かない。
実戦のマウンドは、こんなにも孤独だったのか。
「青嶋さん! 今までの練習を信じて!」
ベンチからの彼女の声に、はっと我に返る。
そうだ、俺はこの時のために血の滲む努力をしてきたじゃないか。
練習試合では、うまく行ったじゃないか。
彼女に、勝つと約束したじゃないか。
俺は彼女のアドバイス通り、初球からセットポジションで投げた。
外角低めいっぱいへのストレート。審判のコールはストライク。
よし、今日の審判はストライクをちゃんと取ってくれる。
後は、練習の成果をぶつけるだけだ。
「……二対〇、川内国際高校の勝ち。ゲーム!」
無我夢中だったからほとんど覚えてないが、どうにか逃げ切ったらしい。
確かめるようにスコアボードを眺めると、確かに事実だった。
四イニングを投げて無失点、被安打五、与四死球〇は立派な数字だ。
その数字を目の当たりにしても、勝ったという実感は未だに湧かない。
ベンチ前で惚けていると、主審が歩み寄ってきた。
「公式戦初勝利、おめでとう。記念にとっておきなさい」
なぜ、と言う間もなく主審は走り去っていく。
激戦で土に汚れたそのボールは、でも手の中で何よりも輝きを放っていた。
途端に、俺は寄ってたかってもみくちゃにされる。
「やったな一輝、初勝利おめでとさん!」
「俺達の堅い守備に助けられたな。……ま、チーム力の勝利ってやつだ」
「なーに硬いこと言ってるんすか。今日は一輝のおごりで茶食食べ放題だな!」
「そうそう、それに今日の勝利は僕の好リードあってこそだよ」
「お前ら……それにキャプテンまで!」
盛大に祝われて、やっと勝利の実感がこみ上げてくる。
それにしても茶食、茶谷食堂で食べ放題なんて奢らされたら破産してしまう。
ふと、俺は彼女の姿を探す。見ると、ベンチの隅で使い終わった試合球を片付けているところだった。俺は、意を決して彼女に歩み寄る。
「……水嶌さん」
「ふふ、手荒い祝福でしたね。初勝利おめでとうございます」
彼女は試合球が入った箱を閉じながら、穏やかに微笑む。
勝てて良かった。そんな安堵がこみ上げ、そして感謝の念が強くなる。
「今日勝てたのは、水嶌さんのおかげです。受け取ってください」
「いいえ、青嶋さんの努力あってこそですよ。どうぞご自分で、」
「いや、受け取ってくださいッ!」
腰を直角に折る勢いで頭を下げ、ウィニングボールを真っ直ぐに差し出す。
彼女はおずおずとそれを受け取ると、遠慮がちにはにかんだ。
その笑顔に、俺はたまらず目眩がしてしまう。
ただ、こんなものを見せつけられて放っておくような仲間たちじゃない。
「おいおい、見せつけてくれるじゃん」
「……あれでまだ付き合ってねえのか、あいつら」
「どうもそうみたいです。バッテリーとしても問題視してるんですけどね……」
赤山キャプテンと紺野先輩が呆れ顔になるのに、望月が乗っかる。
「いや、自分と水嶌さんはそんな関係じゃ、」
「ああもう、ほんとにまどろっこしい‼ お前ら、中坊かよ?!」
「なあ、黒金もどう思う?」
俺の弁明なんて、黄崎と茶谷は聞き飽きているのだろう。
話を振られた黒金は、相変わらずの無表情で荷物をまとめていた。
「……興味ないな。それより次の先発だが」
「ほんっと相変わらずの朴念仁だよなぁ」
「おい、お前意味わかって言ってるか?」
勝利の喜びもさめやらぬ中、皆が思い思いに囃し立てる。
浮かれた軽率すぎる行動だったと後悔するも、もう遅い。
しかし、気分は悪くなかった。
「……青嶋さんには、私なんかより。もっと相応しい人がいますから」
喧騒の中で、彼女が淋しげにそう呟くのを、俺は聞き取れなかった。
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