第7話


 狂気を持っているのは、何も私だけではない。

 全く同じではなくても、一般に言われる人の倫理から外れたような願望を持ち合わせている人間は他にもいる。


 なら、無論私も他人の狂気に晒される可能性がないとはいえないわけだ。


 社会に存在する限り、あらゆる事項で被害者にもなりうるし加害者にもなりうる。


 そんなの当たり前か。


 




─────────────────────





 ヒュン、と風を切るような音が後ろから聞こえた。如何とも形容し難い、聞いたことのないような音だった。


 直後、私は左足はがくんと勢いよく重心を失い、身体は半強制的に前倒しにされた。


「……!?」


 起こっている状況が理解できず、思考回路に疑問符が無限に湧き出てくる。


 が、そんな暇もなく、左足のふくらはぎを中心に耐え難い激痛が神経を駆け巡るのを感じた。


「………が…っ……!」


 尋常じゃない痛みだ。

 過去にこれほどのものを味わった経験は私にはない。

 

 病気とかとは違う。

 物理的に、肉が引きちぎれることを実感できるような直接的な痛み。


 痛覚が悲鳴を上げる中で、動かない左足を放置して身体だけ起こす。


 何事かを確かめるために痛みを感じる左足に視線を送ると、ちょうど膝の裏側あたりから服から滲み出るレベルの量の赤い液体が噴出していた。

 

 血だ。


 私が唯一望んでいない、自分自身の血。


 なんで私の足から血が出ているんだ?

 しかもあり得ない量の。

 少なくとも見えない建物突起に足をぶつけたとかではない。


 これは、ナイフで切り裂かれたかもしくは、というものだ。


 痛みの中でほんの数秒前の自分に起こった出来事をなんとか考察しようとしていた私だったが、幸いと言うべきか、その答えはすぐに明かされることになる。


「……………!」


 ひたひた、とこちらに向かって大きくなる足音が、奥のほうから聞こえてきた。


 私が今いる場所は路地裏の中でも比較的に大通りに近い場所だ。

 つまり、聞こえている足音は、私よりもさらに路地裏の深い場所にいる人物のものということになる。

 

 原因不明の出血と激痛、そして路地裏から近づく謎の足音。


 ようやく状況を理解した私の息が荒くなる。


 でも、左足が動かない現状では逃げることもままならない。


 何より、近づく足音に付随する恐ろしいほどの雰囲気が、私の逃走の意思を塞ぎ込んだ。



 そして、足音が私の目の前にまで辿り着いて、止まる。


 その正体を目視するべく、心臓の動きがこれまでになく早まっているのを感じながら、精一杯筋肉を動かして顔を上げた。

 

「…………ぁ……?」


 私の目の前に立っていたのは、フードを被った少女だった。

 その顔の中身までははっきりとは見えないが、性別はおそらく女性であり、身長は150センチないくらいの小柄な女の子だ。


 いや、注目すべきなのは彼女の個人的な情報ではない。


 最も私の目に焼き付けられたのは、彼女の小さな手に収まる、真っ黒な筒状の物体だった。


 持ち手の部分に着いた引き金に人差し指を掛け、その円状の口をこちらの顔に睨むように向けている。


 テレビや漫画でしか見たことないけど、はっきりと分かる。


 拳銃だ。


 私の左足に起こった激痛も、間違いなくこれによるものだと確信した。


「動くなよ。おかしな真似をするなら殺す。逃げようとしたら殺す。」


 二メートルくらい離れたところから、銃口に標的を定めるように少女は言った。


 無論私に向けられた言葉であり、その声はありえないほど冷たく凍りつくようなものだった。


 身体が危機を察知したのか、ビクッと跳ねたが、その動きすら許されないような空気に心臓が止まりそうになる。



 ?????


 どういう状況だ?これ。

 急展開すぎてついていけない。


 穏やかではないこの状況で、なぜか思考だけは理解に苦しむように現在地点までのルートを探ろうとしていた。


 なんでいきなり背後から拳銃で足を撃ち抜かれたんだ?

 この少女は何が目的なんだ?

 どうして私がその対象になったんだ?


 分からない。

 何もかもが理解の届かない範囲まで広がっている。


 サスペンスドラマじゃあるまいし、私には誰かに銃で撃たれるような謂れはないはずだ。


 

 推理しようにもあまりにも証拠が少なすぎるこの状況に絶望していると、少女は鋭い眼光で牽制するように睨んだ後、ゆっくりと口を開いた。


「私はさ、お前が人を襲おうが殺そうがどうだっていいんだ。こっちに不利益がないならそれを咎める所以もない。」


 心底見下すような表情と、吐き出すような言葉が私の耳を占領してありとあらゆる感覚に伝播する。


「だが、お前は手を出してはいけない人を殺そうとした。だからここで死ぬのはお前だ。」

 

 静かな怒りを確かに感じる殺気の籠った声だった。


 私が誰かを殺そうとした?

 だから私が殺される?


 意味がわからない。

 人を殺そうだなんて思ったことあったっけ?


 ……もしかして、赤星先輩のことだろうか。

 確かに、死んでも仕方がないくらいには考えていた節があったかもしれない。


 もしかして、これはその天罰なんだろうか。


 そもそも、なんで私は赤星先輩に対してそんなことを思っていたんだっけ。


 そうだ。

 血が欲しいからだ。

 彼女の血が欲しくてたまらなかったからだ。

 だから、誰もいないところで彼女を……


 でも、目の前で拳銃構えている彼女は、どうしてそんなことを知っているのだろうか。

 私がこの欲望を打ち明けた相手なんて瑠夏だけだし、仮に私に吸血願望があることを知っていたとしても、赤星さんを狙っていたことがわかる要素なんてなかったはずだ。


 今この場でまず真っ先に思い浮かんだのは、運悪くヤバいやつに遭遇してしまった可能性だ。私が路地裏でコソコソ潜んでいたから良いカモにされたのかもしれない。

 でも、拳銃まで使っているのだ。そんなのあまりにも現実的じゃない。それに『手を出しちゃいけない人を殺そうとした』っていう言葉を信じるなら、少なくとも私と何らかの関連性がある人物だ。

 次に浮かんだのは、赤星さんが私の計画に気がついて、先んじて殺し屋をけしかけた可能性。

 ……いやいや赤星さんと殺し屋に関係性があるとは思えないし、そもそもそれ以前に警察に私のことを通報すればいい話だ。


 急に向けられた殺意、そして謎の少女。状況は至って混沌としていて、物事を考えられるような余裕はとてもじゃないが無い。



 でも、そんな中で、血の暴虐を望んでいる私に似た何かは、あることに気がついた。



 一見すると冷酷な暗殺者じみた少女の目の奥には、ほんのわずかに真っ暗な怪物が見えた。

 私が鏡で何度も見た、狂気的な欲望に塗れた、現代社会にそぐわない怪物の姿が。


 あ、この目、人とは違う欲望を溜め込んだ人間の目だ。

 そう私は本能的に確信した。


 ………………………あははっ


 なんだ。

 同類じゃないか。

 いろいろ罵倒しているけど、この女も私と同じ、社会に適合できなかった狂人だったんだ。


 そうじゃなきゃ、人の足を拳銃で撃ち抜いておいてこんなに平常ではいられないはずだ。

 どこで虎の尾を踏んだのかは分からないが、運悪く私は頭がおかしいやつを怒らせてしまったらしい。


 でも、そういうことなら私がこいつを食ってしまっても誰も咎めないだろうな。


 そうか。

 それでもいいや。


 なんにも理解してないけど、血が目の前にあるなら、それでいい。


「…………あはっ…っひゃ…っひゃひゃ……おんなじかぁ……ははは」


 よく分からないけど、なんか笑えた。

 拳銃を向けられ、今にも命の灯火が消え掛かっているはずなのに。

 

 この少女も、私と同じように狂っているという事実に。


 そうだよねぇ。


 どう見ても一般社会に生きている人間の目じゃないよ。


 かなりの距離から狙撃した正確性とかその後の冷静さから見て、彼女がその拳銃で殺した人数は一人や二人ではないだろう。


「はぁー……はっ……ふーっははゃっふふ」


 どうしたことか、先ほどよりも左足の痛みが引いた。銃で撃たれたはずなのに、簡単に体を持ち上げられる。

 アドレナリンがどうのこうのとかドーパミンがどうのこうのとかいうのだろうか。


 まあ足が動くなら何でもいい。


 私は右足を大きく踏み出すと、すぐ目の前にいる拳銃を構えた少女に向かって勢いよく体を乗り出した。左足から吹き出す血の量はもはや眼中になかった。


 殺すだか殺されるだか知らないけど、向こうが先に撃ってきたんだ。

 少しくらい血をもらうために飛びかかったって許されるはずだよねぇ。噛み殺しても文句は言わせないよ。


「……へ………………あ゛っ……!」


 しかし、それでも少女の首元に歯が届くことはない。


 飛びかかった凶獣の両膝を、少女は何の焦りもなく骨ごと銃で撃ち抜いたのだ。

 いくら痛みを感じなくとも、立つ能力を失った足は体を支えることはできない。


 刹那、私の全身は今度こそ完全に倒れ込んで立ち上がることはなかった。


「同じにすんなよ。カス。」


 少女は地にへばりつく私の頭に銃口を押し付けながら吐き捨てるように言い放つ。


 いいや。同じだ。


 私が血を飲みたい衝動に駆られる狂人だとしたら、さしずめ彼女は人を殺すことに快楽を覚える狂人だろうか。

 いや、分かんないけど。

 でも、確かにこの女の目の奥には私と同じものが宿っている。鏡と悪戦苦闘してきた私だからこそ分かる。


 ああそうだ。


 今になってようやく思い出した。


 この少女、どこかで見たことあると思っていたら、いつも赤星先輩の隣にいたのんびりした感じの女の子だ。

 どこかふわふわしていて、常に伸ばし棒付きで話しているようなふしぎちゃん。どう考えても拳銃なんかとは縁がないような平和な人。


 そっかぁ。

 とんだピエロだなこれは。

 全然気が付かなかった。


 どう見てもただの高校生だったはずの女の子が、赤星さんを標的に定めていた私の命を簡単に奪おうとしている。それも恐ろしく冷徹に。

 たぶん、護っているんだろう。赤星さんを。


 私が赤星さんを狙っていたことが分かったのも、赤星さんを狙った結果少女の逆鱗に触れたのも、それなら辻褄が合わないでもない。


 これが彼女の本性というわけか。

 あんな平和そうな見た目をしておきながら、裏では何人も殺しているような殺人鬼ときたか。

 それで平気で日常に溶け込もうとしているとか、私以上の化け物だ。


 そういう人、自分だけだと思っていた。

 私だけが異常な願望を抱えていて、それに苦しんでいるものとばかり考えいた。


 でも、今目の前で私の命を断とうとしているのは、間違いなく私と同種の人間だ。


 赤星さんのことを大切にしているのは、育ててエサにするためだろうか。友情を限界まで実らせて、それから跡形もなく切り刻むつもりなのだろうか。

 私にとっての瑠夏みたいに。

 私だって血を供給してくれる瑠夏が目の前で襲われそうになっていたら絶対に阻止する。だから、きっと赤星さんはこの少女にとっての欲望の解放相手なんだろうな。


 あはは。

 こんな考えが真っ先に浮かぶって、改めて最低すぎるな私。

 

 ここで死ぬにはちょうどいいのかもしれない。


 もはや、足で体を立たせられない私に逃げ場はなかった。足元から大量に血が流れ出ていくのを感じる。

 このままなら出血死は間違いなさそうだ。


 それとも、この場でこの女に脳天を貫かれて死ぬのかなぁ。

 赤星さんに目をつけしまったばっかりに、自分以上の獣に殺されるなんて。


 でも、血に溺れ、親友を食べ物としてしか見られなくなり、挙げ句の果てに何の罪もない人を背後から襲おうとしたんだよなぁ私。

 文面だけ見るとゴミ野郎だな。

 いや、実際でもそうか。


「……何か言い残したことはある?」


 引き金に掛ける指の力がグッと強まったように見えた。

 あと少し力を入れれば、私の頭は簡単に吹っ飛ぶだろう。


 言い残したいことかぁ。そうだな。


「あなた……ひと、ころしたこと……ある?」


 掠れ掠れに言葉を紡ぎ出す。

 少女が本当に私の予想通りの人間かが気になったのだ。


「……あったらどうなの?」


「……すき?ころすの。」

「…………っ!」


 質問を耳にした時、少女の顔色が一瞬大きく変わった。そして私は確信した。


 やっぱり、こいつと私は同類だ。


 やってはいけないと分かっていることに快楽を覚えてしまった、哀れな子羊。

 非人道的な行為を好む自分を認めたくなくて、それでも確かに望んでいる自分もいることも確かで。そんな思考の両側から挟まれてネジが吹っ飛んでしまった人だ。


「あかほしさん……いいよねぇ…。……絶対……………っ…あがっ…ッ!」


 最後まで言い終わる前に、少女は私の両肩を至近距離から撃った。銃弾のせいで支えられなくなった関節は、腕をぐてっと垂れ流す。


「三度は言わないぞ。お前と一緒にすんな。」

「…うひひ……っひ」

 

 私みたいに全部解放しちゃえば楽になれるのに、強情な人だなぁ。

 いい子ちゃんぶりたいのはみんな同じか。


 つい最近まで私も我慢してたんだから人のことは言えないけど、欲望の解放はちゃんとしないと、いつか全部捨てることになるんだよ。今の私みたいに。

 あれ?それじゃあ結局どうやっても壊れる運命ってことか。まあ仕方ない。

 くひゃひゃ。


「もういいよ。おまえ。」

「……まって…よぉ、どうせ……最期なん……だからさぁ、………血、ちょうだ……い…よ」


 もう頭からいろんなものが飛び出してわけがわからないが、とりあえず血が欲しい。

 なんでもいいから血が欲しい。

 

 赤星さんのじゃないくてもいいや。


 どうせこの場で全部終わるらしいし、最後くらい欲しかったものを望んでもバチは当たらないだろ。


「…………殺される相手が私でよかったな。」


 少女はそう言うと、どこからか取り出した小さなナイフで自分の左手首を躊躇いなく切り裂いた。

 どばどばと真っ赤な血が血管から飛び出てきて私がへばりつく目の前の地面に溜まっていく。


 ダメ元で言ってみたけど、本当にくれるんだ、血。


 同情かな?


 同情だろうな。


 なんてったって、同じような生き物だもんな、私たち。


「えへっ……へへ……ゃ………」


 路地裏の冷たい地面の上にできた血溜まりに舌を伸ばす。

 最後の晩餐を楽しむように狂気が命令しているのだ。


「……んっ………ん………」


 美味しかった。

 自分が血を流しすぎたせいなのかも知らないけど、いつもよりも血の味が濃く感じた。

 

 本当はもっとたくさん欲しかったし、自分の口でこの子から血を吸い取りたかったが、足を折られて腕も動かない私に実行に移す余力はない。


 だから、甘んじて最後の晩餐を受け入れよう。


 ああ。

 運が悪かったんだなぁ私。


 瑠夏を失った結果狙った獲物が、別の怪物の手中にあったものだったなんて、気づかないうちに横取りするような形になっていたなんて、すごい低確率な不運だ。

 でも、ある意味ではこれで良かったのかもしれない。


 私が人を襲ったことを知ったら瑠夏は失望するだろうが、誰かに殺されたことを知れば同情してくれるだろう。


 最後にこうやって血も飲めたわけだしね。


 最後の最後まで舌の上に濃厚な血液を浸し続けた私は、拳銃から放たれた小さな閃光を眺めながら意識を血溜まりの奥底に沈めた。






 


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る