第5話



 私の運命をさらに大きく捻じ曲げたのは、七月にあった体育祭の時だった。


 

 この時点で、瑠夏と会えなくなってから二ヶ月以上も経っていて、私の精神はかなり落ち着いてきたところだった。少なくとも学校にこれるくらいには。



 人間というのは何であれ事象に慣れる生き物だ。人間だけに限った話ではないが。


 例えば、毎日家でダラダラしていた人が、いきなり一日十時間も働かされたらそれはキツイだろう。疲労困憊やストレスや相当なものであるはずだ。

 ところが、働く生活を一年二年と繰り返していくと、自然とその生活が板についてくる。個人差もあるだろうが、ある程度始めよりも精神的な苦痛が治るものなのだ。

 これが生活における慣れだ。


 私という生き物もそれに漏れることはなく、血を望み続けるうちに、ある種の『慣れ』の段階に入った。

 言ってしまえば、血を求めるという行為に慣れすぎた結果、それが当たり前になって苦痛を感じにくくなったのだ。


 瑠夏がいなくなってからだいぶ時間がたって、私もようやくその心情の変化を理解した。

 そのおかげで、この時点では割と楽に日常を過ごせていた。


 学校だって普通に行っているし、他人の肌を見ても噛みつきたくなって苦しい思いをすることはない。


 もちろん私の欲求がなくなったわけではないけど、適応を重ねたことでなんとか自我を安定させられていたのだ。



 しかし、とある体育祭の日に、私の積み上げた理性的判断は瓦解することになる。


 邪悪な本能に平和的な薄っぺらい感情を上塗りしていただけだと、自分自身に分からされることになった。




─────────────────────




 体育祭の日、私は特に可もなく不可もなくの気分で学校に向かっていた。

 学校的には特別なイベントなのかもしれないけど、悪いが私には関係がない話だ。

 瑠夏が隣にいるならまだしも、他に友達といえる友達がいない私にとって、ただぼーっと外を眺めるだけの、普段の授業と何も変わらない日常が繰り返されるだけだ。

 適当に競技に参加して、あとは教室で本でも読んでいよう。そんなふうに思っていた。


 血を求める気持ちを表面に出さなくなった私は、ある意味で虚無に陥っていたのだ。


 でも、別にそれが悪いことだとは思わない。どうせ誰も血をくれやしないんだから、瑠夏が帰ってくるまで棒立ちで生きるのが一番合理的だろう。



 学校に着いたものの、当然私に声をかける人間などいない。

 嫌われているわけではないけど好かれてはいない、そういう存在だ。


「……私の競技は11時からか。」


 9時過ぎを示す教室の時計の針を眺めながら、ぼんやりと一人で呟く。


 根暗な存在ではあってもクラスに反抗的であるわけではない私は、当然体育祭の何かしらの競技には出なくてはいけない。


 体育祭の協議を決める際に、「何でもいいよ。」と言った結果、あまりものの綱引きに参加することになった。

 超絶ひ弱な私に綱引きなんて似合ったものではないが、とはいえ個人競技に参加して目立つよりは、手を抜いてもバレない綱引きに参加することに不満はない。


「瑠夏がいればなぁ。」


 もっと楽しめただろうに。


 みんなが競技の観戦や参加のために校庭や体育館に出ていったあと、一人ぼっちでそう呟く。

 瑠夏の血に依存してきた私は、無論瑠夏という存在そのものにも依存してきた。今思えば、もっと他の人とも仲良くしていればよかったと思わないでもないが、全ては後の祭りというやつだ。



♦︎♦︎♦︎



 色々考えながら本を読んでいたら、すぐに11時になってしまった。


 そして、外野からわーわーと歓声が耳をつんざくなか、私はフツーに綱引きに参加して、フツーに負けて教室に帰ろうとしていたところだ。


 まあ負けたのはどうでもいいとして、個人的には真面目に参加しただけでも満点をつけていいだろう。


 校舎の方へと足を進めつつ校庭を振り返ると、みんな何が楽しいのか、各競技場である中心部を除いて校庭は生徒たちで溢れていた。


 それを見ていると、こういうイベントを素直に楽しめる人って人生充実してるんだろうなぁってちょっと羨ましく思わないでもない。でも私には無理だろうなとも同時に思う。


 じゃりじゃりと砂が擦れる地面を歩いてから校舎の玄関に戻ろうとした時だった。




 私の目の前で体操着姿の女子生徒が転んだ。


 あの時みたいに。



「いったぁ……!」


 女子生徒は普通に立ち上がったものの、かなり痛そうに足を抑えている。


 見ると、膝とその少し上あたりからかなりの量の血が出ていた。

 ハーフパンツの体操着なのだから、砂の地面に勢いよく転んだら血がでるのは普通だ。



 でも、その普通を受け入れられる私ではなかった。


 ドクンッ……!


 と大きく心臓が鳴り響くのを感じた。


 抑えていた欲望が解放されていく。


 ここのところずっと『慣れ』に徹してきた反動が一気に押し寄せる。


 あの時と同じようなシチュエーションだ。

 抑えられるはずもなかった。


 そして、ある意味では最も狂気的な冷静さが私を包んで覆いつくす。


「……あの、大丈夫ですか?よかったら、これ使ってください。」


 そう言った私に似た何か﹅﹅﹅﹅﹅﹅、いやは、転んだ女子生徒に向かってハンカチを差し出した。


 保健室に向かうにしても、これだけ血がドバドバ出ている状況だと血を抑えるものが必要だろうと私は判断したらしい。もちろんそれは建前でしかない。


 言うまでもないが、普段の私なら転んでいる人にハンカチを差し出すなんて真似は絶対にしない。見て見ぬ振りをして終わりだ。


 だから、これは私に纏った狂気だ。


 血を得られない慣れにも反抗してきた、影に隠れた欲望の塊がここぞとばかりに顔を出したのだ。


「いいんですか?ありがとう。」


 そんなことを知る由もない女子生徒は笑顔で感謝を伝えると、私が差し出したハンカチを受け取って患部に抑えた。

 顔はすごい美人ってわけではないけど、笑顔をが明るい人だ。


 この人の血は、どんな味だろうか。

 早く飲みたいな。


 誰かが私につぶやいた感情だけは、しっかりと脳内に残っていた。



 私はその後、彼女を保健室にまで連れていった。

 幸いただのすり傷だったらしく、消毒をして大きめの絆創膏を貼り付けただけで平気な様子だった。


「あの、ハンカチありがとうね。今度洗って返すから、名前とクラス教えてもらえないかな?あ、私の名前は……」


 先輩の自己紹介を聞いた結果、私がハンカチを貸した相手は、どうやら三年生の先輩だということが分かった。


「大丈夫ですよ。自分で洗うので。」

「え、でも悪いよ。こんな血まみれにしちゃったのに。」

「いいんですよ。すぐに落とせますし。」

「でも」

「むしろ、いま返してもらえない方がまずいっていうか……。」

「……そっか。じゃあこのまま返すけど、ありがとね、ホントに。」


 先輩は少し申し訳なさそうに血まみれのハンカチを私に手渡した。


 少し乱雑な言い回しになってしまったが、このハンカチを先輩に洗われては困る。この場で水で血を流されても困る。

 何のためにハンカチを貸したと思っているんだ。


 先輩と別れた私は、駆け足になりたい気持ちを抑えながら、歩いて校舎の最上階にある空き部屋へと向かった。

 瑠夏といつも一緒にいた場所だ。


 瑠夏と離れ離れになっていこうここには来ていなかったが、今日は話が別だ。


 部屋の中に誰もいないことを確認した私は、ポケットから先ほどのハンカチを取り出した。



 そして


 血で濡れた部分に、強く口づけをした。


「………っん。…‥っ」


 何度も吸い取るように口をつけては離すを繰り返す。自分の息が乱れているのが分かったが、そんなのどうでも良かった。


 その度に鉄の味が味覚に直接伝わってきて、やめられない。


 美味しかった。

 本当に、ありえないくらい舌を喜ばせた。


 久しぶりっていうのもあるだろうけど、欲望を抑えて慣れようとしてきたことが、これほど満足感を与えてくる大きな原因だろう。


「ッ……ッ……もっと…もっと……」


 ガラスに入ったヒビが一気に広がっていくように、急速に何かが崩壊していく。


 ハンカチについた血だけでは物足りない。

 皮膚を噛みちぎってこの血を飲み尽くしたい。

 右腕も、左腕も、足も、腰も、首元も、ありとあらゆる場所から血を一滴残らず吸い取りたい。


 そうしないと、私の口はもう満足できない!


「えへっ……へっ……ふへへ、あはっははひゃひゃ……っ」


 頭がクラクラする。

 脳が命令しているんだ。


 血をよこせって。


 この血の持ち主から、全てを奪い取れって。


 やっぱりどれだけ慣れようと、私は逃れることはできない。


 逃れる必要はない。


 もう、全部壊せばいい。


 どうせ大したものじゃないんだ。

 世界の倫理がなんだ。法律がなんだ。


 好きなように生きて、加害者になっても私は自分を責めたりはしない。


 分けてもらわなくていい。あの先輩の血を全部飲み尽くせるなら、相手の意思なんてどうでもいい。

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