第2話
あの日以降、瑠夏は定期的に私に血を吸わせてくれる。
というのも、私がダメ元でお願いしたことを瑠夏が聞き入れてくれているのだ。
一週間に一回、わざわざ自分の手の指に針を刺して、そこから流れた血を飲ませてくれる。
自分で頼んでおいてなんだけど、こんなことをやらせてくれるのは倫理的におかしいと思う。
瑠夏は『別にいいよ、こんくらい。ハグするのと同じようなもんだし。』と言ってくれているが、果たしてその感覚が常識の範囲内に収まるものなのかは知らない。
でも、知らなくてもいい。
分けてくれるなら、断る理由も疑惑を浮かべる必要もないのだ。
♦︎♦︎♦︎
「早く行こ。もうすぐホームルーム始まっちゃうし。」
「……うん。」
月曜日の朝のホームルームが始まる前、私たちはいつも学校の最上階にある空き部屋で二人の時間を作り出す。
秘密だけど愛情でも劣情でもない行為。
血を吸うという一見すると必要ではないと思われるような行為。
今日もいつも通りそれが行われる。
私は一週間の間、これを楽しみにして生きているようなものなのだ。
だから、どれだけ非常識だとわかっていても心臓が駆け出すように熱くなってしまう。餌を与えてくれる飼い主に懐くように、尻尾を振って喜んでいる情けない生き物だ。
「ほら。いいよ、好きに飲んで。」
瑠夏は空き部屋に入るなり、小さな針を取り出して自分の左手の人差し指の側面に突き刺した。針が皮膚を突き抜け、その間から真っ赤な血が流れの悪い水道のように少しずつ伝ってくる。
瑠夏の表情は、決して私を見下すようなものではなかった。
でも、どこか面白そうに指を自分の腰くらいの高さにまで下ろした。
いつも瑠夏がやることだが、こういう時私は自然と瑠夏の前にひざまずいて目線を指の高さまで合わせてしまう。
瑠夏がそうしろと言ったわけではない。
私が血を分けてくれる瑠夏に服従したいわけでもない。
流れ出る血を見たことで理性が働かなくなって、自分の腕の使い方を忘れてしまうのだ。
普通に考えて、血の流れる瑠夏の指を口に含みたいなら、自分の両手を使って瑠夏の手をこちらに近づければ良い。
だが、血を見て興奮している獣にそんな効率性なんて眼中にない。ただ目の前にある生き血を啜りたくて、本能的に口を近づけてしまう。
ドクッドクッと鼓動が高鳴るのを感じ、自分の息が過呼吸だと思うくらいに早くなる。
そんな自分を俯瞰することもできるはずもなく、私は直接瑠夏の指に口付けをした。
そして出血し続けている患部からその血を一気に吸い出す。
瑠夏の体温を感じさせる生温かさと、生命の源を示す湧き上がるような鉄の味が、舌の上に乗っかって絶妙な混ざり合いを演出する。
ある意味では拒否的なその異色味が、たまらなく視界を彩らせてくれることを私は知っている。もはや中毒という段階を越えて、血液が生命そのものになりつつある自分の身体について、考察しているような暇はなかった。
こうやっている時の私は世界で一番幸せだと断言できる。
前の歯を人差し指を強めに押し付けると、圧迫された指は一層放出させる血液の量を増やした。
先程まで吸い取らなければ出てこなかった血が、飛び出るように舌に勝手に乗ってくる。
それを存分に味覚で感じたのち、口が血で溢れる前に喉に流す。
小さな傷口から流れ良く出続ける紅血を口の中に含み、自らの喉に押し流すとき以上の快感を私は人生の中で味わったことがない。
「……う゛っ……」
歯を押し付ける力を強めたからか、私の視線の上から瑠夏が苦痛のうめきを絞り出した。
全て私が口に流し込んでいるものの、血が勢いよく吹き出るくらい強く噛んでいるのだ。その反応はとてもリアルなものと言えるだろう。
「ごめんっ……もう無理。」
もう少し強く噛みついたところで、瑠夏は自由になっている左手で私の頭を押して右手の指を引き抜いた。
血を見て理性を失った私がしゃぶりつき、強く噛みすぎたところで瑠夏が拒絶する、これが大体いつもの流れだ。
瑠夏のこの言葉によってようやくこちらも理性を取り戻す。
「あ、ごめん……。すごい血が……。」
そして大抵の場合、今の今まで自分が噛みついていたせいで大量に血が流れ出てしまった瑠夏の指を見て、再び飲み込みたいという欲望が生まれてきてしまう。
「こら。今飲んだばっかでしょ。わたしが失血死する前にそのよだれを引っ込めてね。」
子供を躾けるように瑠夏はポンと左手で私の頭を叩いて、血まみれの右手人差し指をハンカチで拭った。
「………うん。ごめん、ありがとう。」
自分で血に酔って、自分で噛みついて、自分が噛み付いた部分を見てまた酔って。もしも瑠夏が止めてくれなかったら、私はきっとこの工程を何回も繰り返すだろう。
だから、瑠夏みたいにちゃんと私を制御してくれる人が必要なのだ。
そうじゃないと、きっと骨だけになるまで吸い尽くしてしまうから。
「にしても変わってるよね。人の血が飲みたいなんて。」
「……それを、変わってるで済ませて血を飲ませてくる瑠夏もだいぶおかしいと思うけど。」
「え?あはは、そうかな?だってなんか面白いじゃん。血を吸ってる時の由美、親の仇かってくらいわたしにがんがん噛みついてくるし。」
綺麗にハンカチで血を拭い切った瑠夏は、絆創膏を指先に貼り付けながら平然と言う。
それのどこが面白いのか分からないが、感情を取り戻した私目線だと、みっともない姿を瑠夏にガン見されていたという事実はあまり好ましいものではない。
それ以上に血液を望む意識が大きいのだから仕方がないのだが、サバンナのハイエナみたいに無我夢中で指に貪りついている自分を想像するとさすがに人間としての尊厳的な何かが汚されていくような感覚だ。いや全部私が自分の意思でやったことなんだけどね。
生き血を追い求めて友人の指に喰らいつく私と、そんな獣を見て笑う瑠夏、どちらも当然の如く変なやつで、私たちの関係はそれ相応なものなのかもしれない。
つまるところ、私たちの関係はただの親友同士ではないのだ。
そういう生活が続いてもう3年以上、今はまだ高校二年の夏だが、もしも卒業後瑠夏と離れ離れになったら?と考えなくもない。そうなった時、私はまた誰か血を分けてくれる人を探すことになるのだろうか。それとも……。
そんな疑問が日常の中にポツポツと沸いてきた頃だった。
大きく人生の物語が動くことになるのは。
実際のところ、この生活に慣れすぎていたことに気がつくのが、私にはあまりに遅すぎたのかもしれない。
血を得られなくなった私がどんな行動を取るのか、この時はまだ深く考えていなかった。
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