異界の私は血溜まりに沈む

佐古橋トーラ

第1話




※この物語は法律・法令に反する行為を容認・推奨するものではありません。また、この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは関係ありません。



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 人を傷つけたいと思ったことはあるだろうか。

 怒りや不満からくる衝動的なものではなく、冷静な状態で、感情的になっていない状態でそう思ったこと。

 

 私はない。

 

 わざわざ人を傷つけたところで気持ち良いわけでもないし、お互いに心が傷つくだけだ。

 私だってそれくらいの感性を持っている。そこらへんの理性を失った獣ではないのだ。


 それでも、世間の人間はきっと私が狂っていると思うのだろう。


 傷つけたかったわけじゃない。痛めつけたかったわけじゃない。


 ただ、目の前を歩く誰かの血を飲み尽くしたかっただけなのに。




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 その願望を心に秘め始めたのはどれくらい前だっただろうか。

 確実に言えるのは、もう振り返っても思い出すのが難しいくらい昔のことだということだ。

 いけないことだということは分かっていたけど、幼い頃からその味を確かめたくて仕方がなかった。


 人の血を飲みたい

 

 そんな衝動に常に駆られている人間が私というやつだった。


 自分でもどうしてそうしたいと思っているのかはわからない。他の動物じゃなく、物事を論理的に思考できる生き物である人間が良いというのも変わっている点だと自覚している。


 もしかしたら自分が吸血鬼の生まれ変わりなのではないかと思わないでもないが、別に血そのものが欲しいというわけではないのだ。いや、それもないわけではないけど、梱包された血を飲み尽くしたところで虚しいだけだ。

 私が望んでいるのは、直接人間から血を吸い取ることだ。

 眠っていたり気絶しているときは望ましくない。

 ちゃんと私という存在を相手に認識させた上で、表情を見ながら飲み込みたい。


 勘違いしてほしくないのは、私は誰かを痛めつけたいわけではないということ。結果的に痛い思いをさせてしまうこともあるかもしれないが、それはあくまで不可抗力であり、痛みというのは私の吸血行動に最も不要な要素の一つだ。

 なんてったって、傷の痛みで私の行為への感情がかき消されてしまうのかもしれないのだから。



♦︎♦︎♦︎



「おはよー由美ゆみ。」

「あ、おはよ。瑠夏るか。」


 いつもと同じ朝、いつもと同じ登校ルート、そしていつもと同じ親友。

 ありふれた高校二年生の日常だ。


 幼馴染の久野瑠夏からの挨拶に、内心ほっとしながら挨拶を返す。


 わざわざ心配しなくてもいつも通りに日常が繰り返される確率はほぼ100%だろうに、どうしても今日は瑠夏が休んでしまうのではないかという不安が頭の片隅に常に存在している。

 もしかしたら、私たちの関係が普通の親友関係とは少し異なった歪なものであるからかもしれない。


 瑠夏は幼稚園からの旧友であり、私の吸血願望を理解してくれている数少ない人物でもある。理解というよりは心配といった方が彼女にとっては適切なのかもしれないが、勝手に都合よく解釈しておく。


「ねえ。授業始まる前に吸っておく?」

「……あ、うん。ありがとう。」


 そして、彼女は私の唯一の吸血対象でもある。



 どうして私たちの関係がそんなものになったかを説明するには、三年ほど遡る必要がある。


 中学二年生だった私は、自分の欲求を抑え続けていた。


 物心着く頃には憧れていた吸血という行為だったが、もちろん誰かを傷つけて血を吸い取るなんてことは悪いことだと理解していたし、血を飲ませてくれなんてお願いすることも非常識なことだと分かっていた。

 だから密かに心に欲望を秘めたまま、なんの変哲もない生活を退屈そのままに過ごしていた。


 でも、その欲望の枷はある出来事を境に壊れることになる。



『うわっ!』


 いつも通り親友の瑠夏と一緒に学校へ向かっている最中だった。

 なんでもない歩道を歩いているとき、瑠夏が躓いて体を前に投げ出したのだ。


『瑠夏、大丈夫!?』


 ただ転んだだけだったが、彼女としても予想外のことだったらしく、まともに受け身も取れずに地面に身体を擦った。


『痛った………あ、でも大丈夫だよ、由美。』

『……膝からすごい血が出てるけど。』

『えっマジで!?』


 スカートの制服だったため瑠夏の膝は大きな擦り傷が生まれ、特に右膝は銃弾で撃たれたんかってくらいの血が出ている。


『うっわ本当だ。ハンカチハンカチっと。』


 痛みやショックというより、どちらかというとめんどくさそうに瑠夏はポケットからハンカチを取り出そうとする。

 

 そんな瑠夏を見て、私の中で何かが動いた。

 いや、暴れ出した。


 瑠夏はいいやつだ。大雑把だけどそれが気持ちいいくらいで、本当に困っている人間には手を差し伸べられるような優しさもある、私の親友。


 もしかしたら、私の想いを聞き入れてくれるかもしれない。


 気持ち悪いと思われるとか、拒絶されるかもしれないと考えなかったわけではない。

 でも、この時の私は瑠夏の膝から流れ出る血に目を奪われていた。もうそのことしか考えられなくなるくらいに。

 何日も何も食べなかった後にご馳走を見せつけられたら、それがどんな状況でも貪りたくなるだろう。我慢なんてできないだろう。

 当時の私もそれと何ら変わらない状況だった。

 何年も我慢してきたんだ。この一瞬くらい、それを望んでも許されるのではないか……?いや、許してくれるかどうかは瑠夏次第なんだけどさ。


『瑠夏……ちょっとこっち来て。』

『へっ?………ちょっ、何!?』


 私はハンカチで血を拭おうとしていた瑠夏の手をとって、すぐ近くにあった建物と建物の間の路地裏へと駆け込んだ。

 路地裏にはもちろん誰もいない。

 とっくに日が出た朝なのに、まるで密林のように暗く、その異様な雰囲気も私を後押しした。


『ねえ……一体なんなの?』


 訝しげに尋ねてくる瑠夏に、私は意を決して振り返った。



『瑠夏のその血、私に飲ませてくれない?』



 そして告白した。

 

 普通の人なら理解できないかもしれない、秘められたパンドラの箱をこじ開けた。


『えっ?』


 瑠夏は自分の聞き間違いかと思ったのか、聞き直すようにこちらに反応を送る。

 ごめん、勘違いじゃないんだ。


『だから、瑠夏の膝から流れてるその血、飲みたい』


 はっきりと欲望をぶつけると、瑠夏はしばらくの間唖然とした表情で固まったあと、考え込むように右手で口元を押さえた。


『……理由は?』


 そして否定するでも恐れるでもなく、私にそう尋ねたのだ。不快感を示すというよりは、本当にクエスチョンマークを頭の上に浮かべるように。

 それを見て私はどこか安心したような気がした。


『実はね……──』


 一言出てからは簡単だった。

 少し長くなったが、淡々と今まで自分がどんな感情を持って生きてきたかを伝えた。


 人の血を飲みたいと思っていたこと。

 それを必死に抑えていたこと。

 この瞬間我慢できなくなってしまったこと。


 全てを伝え終わった後、瑠夏は再度考え込むような仕草を見せた。

 これは私に対してのどんな感情を示すものだろうか。

 

 否定か、肯定か。


 今考えれば、普通は否定するよな、と思う。

 相手を思いやるにしても、心配しつつ断ったり、冗談っぽく苦笑いするみたいな反応を見せるのが、友人がいきなりおかしなことを言ってきたときの一般的な対応の仕方だろう。


 でも、運が良かったのか悪かったのか、瑠夏は違った。


『別にいいよ。由美がそうしたいなら。』


 シャーペンを貸すくらいの感情で、瑠夏はそう言ったのだ。

 『ほれ。』と私の前に血だらけの足を差し出してくる瑠夏を見て、私は一体どんな表情をしていただろうか。

 飢えた獣の目だったかもしれない。


 とにかく、それが私による瑠夏への最初の吸血だった。

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