sisters mythologies
@snymsy-ioaao
第1話
4月12日(金)猪口零人
かの哲学者ソクラテスはこう考えた。人が善行を行えないのは、その人が善なる行動を知らないからだ、と。果たしてそうだろうか?例えば、窃盗を行った人は、それが悪い行いだと知っていたはずだ。善い行いは、他人の物を盗まないことだと知っていたはずだ。それなのに窃盗をしてしまったのであれば、はっきり言おう。ソクラテスの考えは完全ではない。完全ではない──そう、全てが間違いだというわけではない。例えば、電車でお年寄りが居たら席を譲る。これは善い行動だ。しかし、それが善い行動だと知らなかったなら、その人は善意があっても、席を譲ることはできないだろう。だから、ソクラテスの考えも正しくはあるのだ。ただ、完全ではないというだけ。
ソクラテスの弟子、プラトンのそのまた弟子であるアリストテレスはこう考えた。善行を行うには二つの徳が必要だと。一つは『知性的徳』。善い行動をとるには、善い行動を知っていなければならないということ。これはソクラテスの考えと同じだ。二つ目は『倫理的徳』。知っている善行を、実際に行えるかということだ。まあ、ざっくり言ってしまうと『知らなくてやっちゃいました』か『知ってたけどやっちゃいました』に二分されるということだ。
ここまで哲学者の名前を出したり、長ったらしく語ってきたが、つまるところ何が言いたいのかというと、そんなに難しいことじゃない。『知らなくてやっちゃいました』も『知ってたけどやっちゃいました』も、どちらも紛れもない悪行だということだ。
廊下に響く吹奏楽部のトランペットの演奏を聴きながら、俺は手芸部の部室である被服室へと向かっていた。
今日は金曜日。手芸部の唯一の活動日だ。体験入部の期間は、高校で新しく知り合った奴らと一緒に運動部を回っていたから、手芸部には全く関わりがなく、どんな活動なのか、どんな人がいるのかさえ知らない。
ではなぜ手芸部に入部したのかというと、答えは単純。楽な部活だろうと予想したからだ。正直なところ、俺は帰宅部がよかったのだが、生徒は必ず何かしらの部活に所属しなければならないという忌々しい校則が、この市立桜幕(さくらまく)高校にはある。
授業を受けて、休み時間に友達と駄弁って、部活はせず家ではゲームやアニメ、インターネットに溺れる。そんな高校生活で、俺は良かったのに。まあ、一週間に一度、放課後の数時間が潰れるだけだ。これくらいならまだ許容範囲内ではある。
もしかすると、碌な活動はしておらず、談笑したりするだけで終わるみたいなこともあるかもしれない。
入学式の日に渡された部活動が紹介されている冊子には小さく載っていたが、入部募集のポスターが校内に貼られているのも見ないし、放課後や休み時間に勧誘している先輩もいなかった。あまり熱心な部活ではないのだろう。ならば、幽霊部員になっても咎められることはないかもしれない。それでも、一応最初だから顔だけは出しておこうと思った次第だ。
「よう。もしかして猪口も手芸部?」
後ろから声をかけてきたのは、俺と同じクラスの鬼山(おにやま)葵(あおい)だった。
席が近いこともあり、何度か話したことがある。俺とは対照的に爽やかな男子だ。
『鬼山』なんてかなり物騒な名前をしているが、言動を見る限りだと悪い奴ではないように思う。人は見かけによらないように、人の名が体を表すとも限らないということだ。もっとも、たかが数日で、鬼山が本当にいいやつなのかどうか正確には判断できるわけもないから、『今のところは』という枕詞がついてしまう。
「鬼山も手芸部なのか?」
「うん」
聞くまでもないか。俺達が向かっている方向には被服室くらいしかないのだから。
被服室の前まで到着する。
失礼しますと一言言ってドアを開けた。女生徒が二人。どうやらなにか話している最中だったらしい。俺達が来訪したことで会話が中断されてしまったようだ。なんとなく気まずさを覚える。
片方は知った顔だった。手水(てみず)瞳(ひとみ)。俺や鬼山と同じ一年二組の女子。手水とは機会もなく、直接話したことはないが、クラスでの言動を見る限りではなかなか騒がしい奴のようだ。性格が悪いわけではないと思うが、こういう輩はテンションが高すぎてついていけない。俺の苦手なタイプだ。
「あ」
と、手水の隣に座っているボブカットの女子が声をあげる。
目線は俺の隣──鬼山に向けられていた。数秒遅れて俺の隣からも
「あ、あのときの……」
と声があがる。
あのとき?
鬼山は無言で踵を返し、来た道を早足で戻っていく。
「え、なぜ逃げる」
そう言って、ボブカットの女子は俺の横をするりと抜けて、鬼山を追いかけて行った。
「うわあ!」
遠くの方で鬼山の声が聞こえてきた気がした。
今はただ彼の無事を祈るばかりである。
被服室には俺と手水だけが残った。
被服室の中は六つの大きな机に分かれていて、一つの机に左右三つずつ一人用の椅子がある。俺の通っていた中学校も、被服室はこんな構造だった。
俺は手水の向かい側の席に座った。
「今のは何だったのかな?」
手水は俺の顔を物色するようにまじまじと見て言った。
「知らん」
「猪口君と鬼山君も手芸部なんだね」
「お前が手芸部なのは意外だな。手芸とか興味なさそうに見えるが」
手水のことは体育会系なのだろう思っていたが、俺と同じように楽そうだから手芸部を選んだのだろうか。
「それを言ったら猪口君だってそんなキャラには見えないよ。あと、私の名前はお前じゃないよ?」
「知ってる」
「じゃあ言ってみてよ、私の名前」
手水は挑戦的な笑みを浮かべた。どうせ私の名前なんて知らないんだろうと言わんばかりに。
「手水だろ。手水瞳」
「違うよぉ。同じクラスなんだし覚えてて欲しかったな」
あれ?確かに自己紹介で手水って言ってたと思うが……。違う人と勘違いしていたか?
「すまん。間違えて覚えてたみたいだ。名前教えてくれるか?」
「山田花子」
「そう……か?」
同じクラスにそんな名前の奴はいなかったはずだが。
「まあ本名は手水瞳なんだけどね」
つまらない冗談だ。
「ご、ごめんごめん!そんな怖い顔しないでよ。ジョークだってば、ジョーク。瞳ちゃんジョーク。シニカルでウィットに富んでてエスプリとエッジの効いたユーモアあるマイケルな冗談だから!」
「自分の冗談を過大評価しすぎだ」
それにしてもそんなに怖い顔になっていたのだろうか。嫌なことは顔に出てしまうと自覚してはいるが。
「それにしても二人とも遅いね。いつまで追いかけっこやってるんだろう」
「鬼山を追いかけていった人はお前の知り合いか?」
「ううん。初対面。手芸部の三年生なんだって」
初対面にしては打ち解けて楽しそうに話していたように見えたが、手水が初対面だと言うならそうなんだろう。いや、つい今しがた手水流のくだらない冗談を食らったばかりだ。これもそうなのかもしれない。まあ、どっちでもいいことだ。
突然、ドアが開いた。
鬼山が逃げてきたか、それとも先輩に捕獲されてきたのかと思ったが、そのどちらでもなかった。はじめましての人だ。肩まであるポニーテール。やや目つきが悪く怖そうな人だという印象を受けた。ただ、顔立ちは整っていて美人だと思う。
「あれ、アカリは?」
アカリ──おそらく鬼山を追いかけていったあの人だろう。
「さっき一年の鬼山君を追っかけていきましたよ」
手水が答える。
「あたしがトイレ行ってる間に何が起こったのよ。まあいいや、とにかく捕まえてくる」
呆れたようにそう言い残して彼女は去って行き、そしてまた、手水と俺だけが残った。
沈黙が流れているが、わざわざ話を振るほどのことではない。
「暇だねー」
「そうだな」
「猪口君はなんで手芸部に入ったの?」
「楽そうだからだな。本当は帰宅部がよかったんだが」
「あー。帰宅部禁止だからね。ここ」
「お前は?」
「うーん。文化部がよかったから……かな?」
はっきりした理由がないからなのだろうか。曖昧な回答だった。
「でも文化部なら他にも色々あったじゃないか。ここは帰宅部禁止なこともあって、部活の種類は結構多いだろ。なんで手芸部なんだ?」
「そこはてきとーに選んだ」
「そうか」
そこからの会話は無く暇な時間だけが過ぎていった。
数分後、三人が戻ってきた。
三人も席に座ったところで、ポニーテールの人が質問をする。
「アカリ、なにがあったの?」
「いや、まず自己紹介しよ。新入部員が三人とも揃ってることだし。私は三年の赤堤(あかつつみ) 灯(あかり)。よろしくね」
唐突に自己紹介が始まった。
「同じく三年の下風(しもかぜ) 憂莉(ゆうり)よ。一応あたしが部長ってことになってるわ」
「一年の手水 瞳です」
「猪口(いのぐち) 零人(れいと)です」
「鬼山 葵です。よろしくお願いします」
「じゃあ自己紹介も終わったし、灯、説明して」
下風先輩に促され、赤堤先輩は語りだす。
「昨日さ、帰りに制服がびしょ濡れになったって話したじゃん?」
昨日は一日中雨が降っていた。小雨がずっと続くような雨だった。
「雨の中、誰かに勢いよくぶつかられて水たまりに倒れたって言ってたわね」
そして、赤堤先輩が鬼山を指差して断言する。
「そのとき私にぶつかってきたのがこいつ。顔もちゃんと覚えてるから間違いない」
「あの時は本当にすみませんでした!」
鬼山が深々と頭を下げる。それを見て、赤堤先輩は呆れたようにため息を吐く。
「だーかーらー。私は怒ってないって言ってるでしょ」
「怒ってないなら追いかけなくても良かったじゃない」
「いやいや。逃げたら追いかけるでしょ」
「じゃあ、鬼山はどうして逃げたの?」
下風先輩に問われて、鬼山は顔を伏せて小さく答えた。
「怒ってるんじゃないかなと思ったので……」
「別に怒ってないんだけどなぁ」
と、当の被害者である赤堤先輩は苦笑いを浮かべた。どうやら怒っていないというのは嘘ではないように思う。
「とにかく、私は怒ってないし、罰として何かを要求することもない。この件はこれで終わり。オーケー?」
「はい……」
鬼山はばつが悪そうにそう返した。
「灯、どうする?特にやることもないし、そろそろ行く?」
「そうだね。よーしお前らー。もうここは閉めるから外に出ろー」
もう解散なのか?手芸部らしい活動はまだ何一つしてない──というか自己紹介しかしていない。まあ、別に手芸がやりたいわけじゃないし、早く帰れる分には構わないのだが。
……いや、今、行くって言ったよな。どこへ?
「どこに行くんですか?」
気になっていたことを手水が質問した。
「灯の家」
被服室を閉めながら下風先輩は淡白に、簡潔に答えた。
ほとんど初対面の俺達を家に上げることに、いささかの不用心さを感じる。
「灯先輩の家でなにするんですか?」
「それは──」
手水の質問に答えようとする下風先輩を赤堤先輩が遮った。
「まだ秘密」
「もしかして、裁縫とかやんないんですか?」
驚いたように鬼山が質問する。こいつは俺や手水と違って裁縫とかミシンとかそういうのがやりたくて入部したのだろうか。
「うん、やんないよー。やりたいんだったら言ってもらえれば憂莉が懇切丁寧に教えるから」
「あたしに丸投げしないでくれる?」
「だって私裁縫とかからっきしだし」
「はぁ……。教えて欲しかったらあたしが教えるわ。ただ、次の機会にして頂戴。裁縫とかする予定じゃなかったから、道具は何も用意してないの。今からだと準備室の鍵取りに行ったり、顧問にいちいち許可取らなきゃいけなかったりで遅くなっちゃうから。あと、どういうのを作りたいのか決めておいて。布とか取り寄せたりできるから」
「わかりました」
「そうそう。どういうのを作りたいのか決めておいて。布とか取り寄せたりできるから」
「いいんですか?」
「問題ないわ。普段碌に活動してないから部費は有り余ってるし」
「ありがとうございます」
「憂莉先輩って、裁縫得意なんですか?」
手水が尋ねた。
「まあ、そうね。手芸部として恥ずかしくないくらいにはできるわ。そこの三年生とは違って」
「だ、誰のことだろうなー」
赤堤先輩は目を泳がせていた。
「あ、鍵返すの忘れてた。先に行ってて」
下駄箱の前に来たところで、下風先輩が引き返していく。
「じゃあ私達は先に行こうか」
「憂莉先輩待たなくていいんですか?」
「大丈夫。あいつ自転車だからすぐ追いついてくるよ。あ、そうそう。自転車で登下校してる人いる?」
全員が沈黙する。家が近いのもあって、俺は徒歩で登下校している。鬼山も手水も、俺のいた中学にはいなかったはずだから、バスか電車ではるばる遠くから通っているのだろう。
「もう一つ。皆このあと時間ある?」
「俺は特に用事とかはないです」
どうせ家に帰っても、なにもすることがないのだから、赤堤先輩の話に乗ってみようと思った。
ああ、この感情は好奇心だ。クソ、悪い癖だ。
「私も平気です」
「俺は、まあちょっとだけなら」
「鬼山は時間なさそうな感じだし、今日は早めに終わらせようか。それではしゅっぱーつ!」
早めに終わらせるとはなんのことだろうかと問いたくなったが、どうせまだ秘密と返されるだろうと思い、口に出すのはやめた。
赤堤先輩の家までは徒歩15分程だった。外見は普通の一軒家。赤堤先輩が鍵を開け、途中で合流した下風先輩も一緒に玄関をくぐる。
そして、リビングルームに案内された──と思うのだが、そこはリビングルームとは言い難い内装をしていた。
家具は部屋のど真ん中にあるちゃぶ台とその下のカーペット。そしてエアコンは設置されているだけ。テレビや椅子、ソファーなどがまるまるなかったのだ。
異様なのはそこだけでなく、ちゃぶ台を囲むように壁沿いに設置された棚だ。
更にその棚の中にはぎっしりと置かれているものは──。
「ボードゲーム?」
「うーん。惜しいね猪口。正確にはテーブルゲーム。私の両親が重度の愛好家で、いろんなテーブルゲームを集めてるんだよ」
「それで灯もテーブルゲームマニアってわけ。金曜の放課後と土日は毎日手芸部でテーブルゲームしてるのよ。だから、手芸部というよりテーブルゲーム部と言った方が近いわね」
なるほど。学校でテーブルゲーム部を創ったとしても、赤堤先輩の私物であるこれらのテーブルゲームは学校に持ち込めないだろう。規則的にもそうだが、なによりこのとてつもない量を盗難の危険もある中学校に持ち込み、保管するのは難しい。
「去年までは先輩もいて人数には困らなかったんだけど、2年はいないから君達が入ってくれなかったら二人で寂しく遊ぶしかなかったんだよ」
「ならもっと募集に力を入れても良かったのでは……」
「猪口のその意見はもっともだと思う。でも考えてもみてほしい。いっぱい──例えば十人くらい入部したらこの家はどうなる?」
「窮屈ですね」
「そういうこと。それに、あんまり大々的に募集しなくても君達は来てくれたわけだし」
「はーい。灯先輩に質問」
手水が言った。手を挙げる必要はないだろ。小学生か。
「どうぞ」
「ボードゲームとテーブルゲームって何が違うんですか?」
確かに言われてみれば両者の違いはよくわからない。俺は、これまで家庭用ゲーム機やスマホでのゲームが殆どで、この手の遊びには触れてこなかったから、知る機会はなかった。
「いい質問だね、手水。ボードゲームは盤と駒を使う遊びの総称で、テーブルゲームは、ボードゲームを含めたテーブルを囲んでするゲームの総称」
手水は眉をひそめ首を傾げる。
「要するに、テーブルゲームの方がくくりが大きいってこと」
「なるほどー」
「さて憂莉、何やる?」
「鬼山が早く帰らないといけないのよね?なら簡単に遊べるのがいいわ」
「じゃあ久しぶりに麻雀やろ!」
「無理。五人でできないでしょ」
「じゃあチェス」
「無理。あれ二人用でしょう」
「じゃあドミニオン」
「ちゃんと考えなさい。長くなることは目に見えてるでしょ」
「私だけじゃなくて憂莉も意見出してよ」
「まともな意見も出さないくせに何を言ってるんだか……。それならトランプ──大富豪とかは?ルールわからない人いる?」
ルールがわからない人はいないようだった。大富豪はトランプでは定番の遊びの一つだ。最後に遊んだのは、確か小学校の頃だったか。担任がトランプを教室に置いていて、休み時間にはよくそれで遊んだものだ。
「じゃあ大富豪で決定だね」
赤堤先輩は大量のテーブルゲームが保管されている棚から、迷うことなくトランプを取り出した。どこに何があるか完全に把握しているのだろう。
俺達は机を囲んで座った。
「手芸部の大富豪は地方ルールてんこ盛りだから。説明はするけど覚えるのがちょっと難しいだろうけど、頑張ってね」
赤堤先輩はそう言って取ってきたトランプをシャッフルし、一枚ずつ配りだす。
「赤堤先輩、配るの速いですね」
鬼山が感嘆する。確かに、赤堤先輩のカードさばきは見事だ。カードはすぐに五つの山に分けられた。赤堤先輩が得意顔になる。
「まあ、慣れてるからね」
「そういえば、私の中学は大富豪じゃなくて大貧民って言ってました」
「地域によって呼び方違うよね。最初は誰からかとか、そういう細かいルールとかも」
言い終わると同時に、カードが配り終わる。
「さて、今から手芸部式大富豪のルールを説明します」
仰々しく、赤堤先輩は宣言した。
──それから一時間程ぶっ通しで大富豪をしたわけだが……イカサマでもしているのではなかろうか。
三年の二人が常にトップを争い、一年の三人が常に最下位を争う。ずっとそんな有様だった。
「なんであんなに強いんだろうね」
赤堤先輩の家を出てすぐ、手水がそう訊いてきた。下風先輩は自転車で、俺達とは別方向。鬼山はさっさと帰ってしまったので、俺は手水と二人きりで帰宅している。
「捨て札とかから相手の手札を予想したりとかじゃないか?あと、単純にどこで何を出すかの選択が上手いんだろうな」
歩きながら答える。
「なるほどねぇ」
手水が感心したように言う。
「でも、そーいうのは私の性に合わないかな」
「そうか」
「明日灯先輩の家行く?」
金曜の放課後と土日は基本的に毎日テーブルゲームをやるそうだ。強制ではないとは言っていたから、別に行かなくても問題はないだろうが。
「行くよ。面白そうだし。それと──」
家にいたくないからと言おうとしてしまたのを、すんでのところで堪える。
言いたくないし、言ったところで面白い話でもない。
「それに?」
「なんでもない。それより、手水は行くのか?」
「え?あ、うん。猪口君が行くなら私も行こうかな」
「なんで俺が行くかどうかが判断基準になるんだよ」
「一人で行くのはなんか心細くない?」
「そうか?」
「うん。あ、コンビニだ」
「俺は寄らないぞ」
特に買いたいものはない。無駄遣いはしない主義だ。
「そんなこと言わないでさ、コンビニに入って仲良しコンビになろうよ」
「……」
「今のはね、コンビニと」
「わかってるから黙れ」
「で、結局寄らないの?」
「寄らない」
「大丈夫。成人向け雑誌とか見ててもそっとしておくから」
「そもそも見ない」
「私聖人だから成人向け雑誌とか見てても気にしないから」
「……」
なんなんだこいつは。上手いこと言ってやったぜみたいな顔しやがって。
自然と大きなため息が出た。
「どうしたの?」
「……お前を生かしたまま返してしまって良いものだろうかと思案しているところだ」
「そいつはイカしてるね!」
「……」。
「手水」
「なに?」
「俺はそういうの全く面白いと思わないからな」
「あ、うん。ごめん……」
「……」
苛立って少し早足で歩いた。その後ろを、手水は黙ったまま俯いてついてきた。
路地を曲がる直前、手水が呼び止めてきた。一応振り向いたが、正直このまま無視して帰ってしまいたかった。
「あの……さっきはごめん。私のこと嫌いになった?」
手水は今にも泣きだしそうな顔をしていた。
なんだよ。これじゃあ俺が悪者みたいじゃないか。
……いや、俺にも非はあるか。
「その……俺の方も少し言い過ぎたかなとは思う。だから、なんというか、嫌いにはなってはいない。ただ、あの寒い親父ギャグはやめてくれ」
「わかった。私、家こっちだから。じゃあね」
「また明日な」
「うん。また明日」
再び帰路につく。なんだかどっと疲れた気がした。ふと空を見上げると、三日月が見えた。
4月13日(土)鬼山 葵
俺は普段平日は朝5時に、休日は朝6時に起きる。今日は休日だから6時に起きた。カーテンを開けると、ビルとビルの間を縫って橙色の光が届けられる。毎朝この写真を撮りたくなるほどに綺麗だ。これを見るだけでノスタルジックな気分になるのはどうしてなのだろう。
時間が経つのは早いものだ。ついこの間まで、6時に起きるとまだ空は暗かったのに。早起きをする今の生活になってから、起きた時間に出ている日の位置を観察することが一つの楽しみになっていた。その観察も、もうそろそろ一周年だ。朝早く起きるようになったこの習慣も、もうそろそろ一周年だ。そして、母が死んでからも──。
そして一時間の間に自分の朝食を済ませたり、学校の準備をしたり、漫画を読んだり、勉強したりする。
次に家族の──じいちゃんとばあちゃんと妹の芹菜の朝食を作る。先にじいちゃんとばあちゃんの分をリビングの机に置く。その頃にはもう二人は起きていて、二人は新聞を読んだりテレビを見たりしている。俺はそれから芹菜の朝食を持って芹菜の部屋に行ってテレビを見たり、雑談したりする。ここまでは平日のときも休日のときも共通だ。平日の場合は更に追加で自分の弁当を作る。
これが引っ越してきてからの毎朝のルーティーンになっている。料理とかは最初の頃だとばあちゃんに手伝ってもらいながらだったけど、今では一人で四人分の朝晩の食事を任されるまでに成長した。料理の手際も格段に良くなってきているから、最近はもう少し遅く起きてもいいかもしれないと考えているくらいだ。
7時を少しまわった頃、いつもの朝食(イチゴジャムを塗ったトースト一枚と塩胡椒をかけたベーコンエッグにスーパーで買ったヨーグルトと牛乳)をお盆に乗せ芹菜の部屋に向かう。
片手でお盆を持ち、空いた片手で扉を開ける。
「起きろー。朝だぞー」
芹菜は、やはりベッドの上で寝息を立てている。数え切れないほど何回も見ているのに、一向に慣れない──いや、諦めきれない。扉を開けると芹菜が立っていて──跳ねていて──はしゃぎまわっているというような都合のいい妄想を。
さて、相変わらず寝起きが悪い。こればっかりはしょうがないか。お盆をサイドテーブルに置き、代わりにリモコンをとってベッドを起こす。ベッドが機械音を立てて折れ曲がる。こうすれば大抵、目を覚ます。
「ふわぁ……。おはよう」
「おはよう」
いつものように、挨拶をした。そしていつものようにカーテンを開け、日の光を取り込む。いつものようにテレビをつける。いつものように朝食の載ったサイドテーブルを芹菜の前に持ってくる。
そして、芹菜が食べ終わるまで椅子に座って待つ。
「いただきます」
「こぼすなよ」
手を合わせた後、真っ先にベーコンエッグをイチゴジャムが塗られたパンに乗っけてかぶりつく。
イチゴジャムとベーコンエッグとか絶対合わないと思うんだけど、なぜかこれが旨いらしい。
俺も真似して食べてみたことがあるが、普通に分けて食べた方がおいしかった。
「芹菜、今日はちょっと出掛ける。すぐに帰ってくるから」
普段の休日ならば、芹菜と散歩でもしたりするのだが、今日は久々に一人で出掛けることになる。手芸部(というかもはやテーブルゲーム部だと思う)の先輩の家に行くからだ。
『強制じゃないとは言うけど絶対来いよ』というような圧力をどうしても感じてしまう。
「そういえば、今日はどこ行くの?」
「昨日話してた手芸部の先輩の家」
「そうだったね。私のことはいいから、お兄ちゃんは心置きなく遊んできてよ」
「ごめんな」
「気にしないで」
……気にしないでと言われても、気にしてしまう。
「ごちそうさまでした」
椅子から立ち上がり、片手でお盆を持つ。
食器類しか残っていないから、来るときよりは大分楽だ。
台所へ向かうついでにリビングに寄る。
じいちゃんとばあちゃんに芹菜の世話(と言っても殆ど昼食を作るだけ)をお願いするためだ。
芹菜の世話は俺がすると大々的に宣言した手前、こういうことは頼み辛いのだが、それでも頼まなければならないのであれば、芹菜から伝えてもらうのではなく自分から言うべきだ。
「今日、出掛けるんで芹菜の世話お願いしてもいいですか?」
「構へんよ」
おじいちゃんとおばあちゃんは、よくわからない方言で話す。初めこそ話が通じないこともあったが、これも料理と同じように慣れてきた。
「ほんでじいちゃんは何したらええんじゃ?」
「もし俺が帰るの遅くなったらお昼作ってもらえますか?12時過ぎくらいまでには帰ってくると思いますけど。あとは特にないです」
拍子抜けしたという風に、じいちゃんは言った。
「ほんだけで構へんのか」
「ほんだけで構へんのかって、あんたは料理でけへんやないか」
高らかに笑いながら、二階からばあちゃんが階段を下りてくる。芹菜のことを慮って二階の部屋を使ってもらっているじいちゃんとばあちゃんだけれど、階段を上り下りするのを見るたびに、足腰に負担をかけて悪くしないか心配になる。それを言うと本人達は決まって運動になるからむしろありがたいと返す。それでも、罪悪感というか申し訳ない気持ちは残り続けてしまう。本人達が大丈夫だと言っている以上、心配しなくてもいいとはわかっているのだけれども。
「ほんだら、なにすればええんじゃ」
じいちゃんが口を尖らす。
「なんもせんでええじょ。こっちで全部やっとくけん。葵くんは用事あるんけ?」
「部活の先輩の家に」
ばあちゃんが訝しんだ顔をしたので、とっさに付け加えた。
「部活の親睦会みたいな感じで、その先輩の家にいろいろゲームがあるから、皆で遊ぼうみたいな感じで……」
「ほんなら、芹菜ちゃんのことはおばあちゃんがやっとくけん。楽しんで来ぃや」
「ありがとうございます」
一言お礼を言ってリビングを後にする。
既におばあちゃんが食器を洗ってくれていたから、俺は芹菜の分だけの食器を洗った。
水が冷たい。冬ほどではないけれど、もう4月だというのに。
食器を洗い終えた俺はコップに水を汲んで、歯ブラシを差し、歯磨き粉を持って芹菜のもとヘ行く。
「持ってきたぞ」
「ありがとう」
芹菜が歯を磨いている間、俺は椅子に座ってぼーっと窓の外を眺めていた。
「お兄ちゃん、終わったよ」
芹菜の呼びかけで我に返り、歯ブラシのささったコップと歯磨き粉を受け取る。
「俺はもう出るから。なにかあったらスマホで電話かけるんだぞ。目悪くなるからスマホ使いすぎるな。あと食べたすぐだから横になるなよ。それと勉強もしろよ」
「心配しすぎだよ。大丈夫だから」
と芹菜は苦笑した。
「あ、おむつの交換は大丈夫か?」
「平気。いってらっしゃい」
そして芹菜は──下半身不随の俺の妹は、優しく微笑んだ。
歯磨き道具一式を片付け、リビングに戻ると祖父母は仲良く身体を寄せ合い、ソファーに腰掛けてテレビを見ていた。
お熱いことで。
邪魔するのも悪いと思い、すぐに自室に戻り支度をする。
年老いても愛が冷めない二人は、見ていて素直に羨ましく思う。ただ、それだけに──。
「へいらっしゃい」
インターホンを押すと、部屋着姿の赤堤先輩が出迎えてくれた。
「お邪魔します」
もうすでに他のメンバーは全員集まっていた。
「さあ、今宵円卓に集いしテーブルゲーマー達よ!」
と、赤堤先輩が変な音頭をとる。
「ニューヨークに行きたいかー!」
全員沈黙。場を盛り上げようとしてくれてくれるのはありがたいけど、空回りされるとこっちまで恥ずかしくなってしまう。
「誰か乗ってあげなさいよ」
「下風先輩も乗ってないですよね」
ごもっともだ猪口。
「えー、それでは気を取り直して参りましょう」
「灯先輩のオススメのゲームはなんですか?」
「うーん。ドミニオンとか」
「まだ慣れてないだろうし、もうちょっと簡単なゲームからがいいんじゃない?」
「例えば?」
「ツインズとか」
「んー。まあその位が妥当かな。というわけで、ツインズをやります」
そう言って赤堤先輩は無数にテーブルゲームが収納されている広大な棚の中から迷いなく紫の箱を取り出した。
箱のサイズはスマートフォンより少し大きいくらいで、海外のヒットマンのような黒い帽子とスーツを着た人物の絵が二つ描かれている。
「はーい。灯せんせー。ルールわかりませーん」
「ちゃんと教えるから大丈夫」
そう言って赤堤先輩は箱を机の中央に置いた。
「で、とりあえずこのカードを見てほしい」
赤堤先輩は箱の中からカードを一枚取り出し、机に置いた。カードには箱と同じ人の絵が一つ描かれている。
「カードを見る上で重要な部分は三つ。一つ目はカードの上に書かれてる数字。数字は1から10まで。二つ目は絵の背景の色。これは全部で六種類。三つ目はカードの上下にある帯の色。これは白と黒の二色で、上と下は同じ色。あと、背景の色で帯の色が白か黒かが決まってる。とりあえずここまででなにか質問は?」
全員が首を振る。
「よし、じゃあ次はカードの強さを説明します。カードは二枚一組で出すんだけど、その二枚のどこが一致しているかで強さが決まる。一番強いツインズっていうペアは、帯の色と数字が一致しているペア。そして次に強いペアはペアーズ。数字だけが一致しているペア。次に強いのはカラーズ。背景は一緒だけど数字が違うペア。一番弱いのは数字も背景の色も違うシングルス。勝負は合計4ラウンドを繰り返し行って、誰かがチップを払えなかったらゲーム終了。そのときにチップが一番多かった人が勝ち。このまでで質問ある?」
「同じペアの人がいたらどうするんですか?」
「そうだ。それを忘れてた。同じペアの人がいたら、二枚の数字を合計して大きい方が勝つ。それも一緒だったらじゃんけんで決める。他に質問があれば言ってね。あとはやりながら説明するから、早速始めよう。憂莉チップお願い」
「はいはい」
赤堤先輩はカードシャッフルし、下風先輩が厚紙でできたチップを配る。
ルールはなんとなくわかった。面白そうだ。
全員の手元に合計10のチップと、8枚の手札が配られる。
「そうそう。各ラウンドの最初にチップを払えばこの配られなかったカードの束──山札からカードを引けるんだよ。1ポイントで一枚、3ポイントで二枚ね。払ったポイントは真ん中に置いて賞金になる。あと、ラウンドごとに報酬とかペナルティとかが違うから、この表見てね」
そう言って赤堤先輩が一人一枚ずつ表を配る。
最初のラウンドは下三人が2点ずつ支払う。なるほど、いつ強いカードを出すのかが重要になるわけだ。
どれどれ、俺の手札はと。
うーん、微妙。今のところ一番強いのは背景がグレーで上下が黒の9と、背景が黄色で上下が白、数字が9のペアーズだ。次に強いのは背景が緑で上下が黒、数字が7と6のカラーズ。あとはあまりパッとしない組み合わせしかできないが、背景が水色で上下が白の10がある。カードを引いて上下が白の10がくれば、全部のペアの中で一番強いツインズになる。
皆はというと、手水は二枚、猪口と下風先輩が一枚のカードを引いている。
場には既に5ポイント。
表によれば、一番最後の4ラウンド目は最も強いペアを出した人が場のチップを総取りできる。そこで勝てば、カードを引くために払ったチップも手元に返ってくるし、既に5ポイント場にある時点で、総取りできればそれまでに負けても元は取れる。
けれども、そんなことは全員が考えているだろう。皆ラストで一番強いペアを出してくるに決まっている。
三年の二人は、もう二枚のカードを伏せて、自分達は準備ができているぞとアピールしている。
4ラウンド目で9のペアーズを出したとしても、誰かがツインズを出したら勝てない。五人全員の一番強いペアがツインズ以下ということはまずないだろう。つまり、4ラウンド目で勝つにはツインズを出すしかない。
よし、引こう。9をもう一枚引ければ、9のツインズもできる。10のツインズでなくとも、9のツインズなら十分勝てるだろう。
どうせ最後に勝てば元は取れるのだし、二枚引こう。
俺は三ポイントを払い、山札に手をかける。
来い!
引いたそのカードは、なんと素晴らしいカードだった。決して完璧とは行かなかったが、十分に良い。
背景が青で、上下が白の9。そして背景がグレーで上下が黒の6。
つまりこれで6のツインズとと9のツインズが出せる!
勝った!
1ラウンド目は下三人が2点を払う。問題ない。このラウンドはくれてやる。
俺は適当なシングルスを伏せた。
10のカードはまだ使い時ではない。
唐突に手水が呟いた。
「灯先輩、なんか楽しそうですね」
「え、そうかな?」
少し驚いたような赤堤先輩。
「口角が上がってますよ」
「楽しいっていうより嬉しいんじゃないかしら」
下風先輩が悪戯っぽい表情を浮かべた。
「私達の一つ下は一人も入部しなかったから、後輩と遊べるのが嬉しいのよ。入部届が三枚来てるって言ったとき、めちゃくちゃ喜んでたもの」
「ちょっと、それは言わないでよ!」
顔を赤らめた先輩が声を上げた。
「それに昨日だって──」
「わー!言わないで!それ以上は!お前らも聞くなー!」
赤堤先輩が下風先輩の口を塞ごうと飛び掛かった。
じたばたと床で揉み合っている二人を見ていると、見えてしまった。
──紺。
赤堤先輩はズボンタイプのルームウェアを着ていたので見えなかった。見たいとは思わなかったというと……嘘になる。
慌てて目線を外すと、猪口と目が合った。俺の隣に座っている猪口の角度からも見えただろう。
「見たね?」
手水が小声で尋ねてきた。
「見てない」
俺達は即答した。
赤堤先輩がこほんと一つ咳払いをした。
「皆揃ったね。じゃあ行くよ。せーの!」
赤堤先輩の掛け声で一斉にカードをひっくり返す。
「えーっと、下三人だから……俺と赤堤先輩と鬼山か」
「む。私も下三人に入っちゃったか。まあ大丈夫。最後にごそっとかっさらってあげるから」
机の中央にチップを置く。これは十分許容範囲だ──しかし。
ここで負けてしまうのは予想通りだけれども、一つ気がかりなのは、手水が2のツインズを出していることだ。そして、ラウンドが進むにつれ十中八九今より強いペアが出てくることだろう。
10のツインズを持っているのかもしれない。
それだけが不安だ──。
次のラウンドが始まる。このラウンドは勝った2人が中央のチップ置き場から3点を得られる。
できることなら勝ちたいけれど、次の3ラウンド目では下二人が1点を払ってなおかつ脱落──つまり次のラウンドには参加できなくなってしまう。3ラウンド目で負けてしまえば、いくら強いカードを温存していたとしても意味がない。
勝たなければいけない優先順位としてはこのラウンドではなく次のラウンド。
──このラウンドは、最悪落としてしまっても構わない。
ただ、自分以外にチップが渡ることもできれば避けたい。6と9のツインズは温存しなければいけない以上、今出せる一番強いペアは10と2のカラーズ。勝てるかは怪しいところだ。追加のカードは引くべきだろうか……?
いや、今のままでも十分強いし、引かなくてもいい。
ちなみに他の人はというと、手水はまたしても二枚引いている。猪口は一枚引いて、下風先輩と赤堤先輩は引いていない。
俺は10と2のカードを伏せた。カラーズだ。
10のカードはもう少し強いペアとして出したかったが、まあ仕方ない。
「せーの!」
赤堤先輩の掛け声で一斉にカードをひっくり返す。
勝ったのは赤堤先輩と手水。
……マジか。
手水は5のツインズ。
ツインズを出したのは手水だけだ。
ここでそう来るか。
「仲間じゃーん。イェーイ」
赤堤先輩が手水に向かってこぶしを突き出す。
「……?」
手水は首をかしげながらパーを出した。
「違う違う。じゃんけんじゃなくてグータッチだよ」
「ああ、なるほど」
得心がいったという風な顔をして、手水は自身のこぶしを赤堤先輩のこぶしに軽く突き合せた。
赤堤先輩と手水が3ポイントを受け取り、3ラウンド目に突入する。
手水はすぐに3ポイントを払い、またしてもカードを二枚引いた。
どういうことだ?手水は強いペアを持っているんじゃないのか?だから2ラウンド目で早くもツインズを出したのだと思ったのだけれど。カードを引くということはより強いカードが欲しいということだよな。何をしているんだ?
いや、強いペアが揃っているからこそ、他の人に強いペアを引かせまいとどんどんカードを引いているのかもしれない。
猪口は一枚引き、下風先輩と赤堤先輩はまたしても引かない。もちろん、俺もだ。
今回はさっきまでよリも速く全員の準備が整った。俺は6のツインズを伏せた。さすがにこれで脱落するなんてことはないだろう。
さあ、誰が脱落するのか見ものだ。
赤堤先輩が合図を出す。
「せーの!」
全員が伏せたカードを一斉にひっくり返す。
オープンされたカードを一通り見る。脱落者は……え?
「あーやっぱりだめだったかぁ」
手水は呑気な様子で1ポイントを払った。
いや、3と4のカラーズでいけるわけないだろう。もっとマシなカードはなかったのか?
そしてもう一人の脱落者は猪口だった。
「マジか。8のペアーズで脱落するのか。いけると思ったんだけど」
結局手水は何をしたかったのだろうか。何を狙っていたのだろうか。いや、そんなことはもうどうでもいい。遂に最終ラウンド。
赤堤先輩、下風先輩、俺の三人で決着をつける。
俺は迷わず9のツインズを伏せた。
堂々と伏せてやった。自信満々に伏せてやった。
もしかしたら、ものすごくニヤけてたかもしれない。
手水という不安要素が脱落した今、もう俺を脅かすものは無い!
誰も追加でカードを引くことはしなかった。
赤堤先輩と下風先輩もカードを伏せる。
合図は例によって赤堤先輩が行った。
「せーの!」
さぁ、勝負だ!勝てるものなら勝ってみろ!
俺は9のツインズを表にした。
どうだ!
中央のポイントの山に手を伸ばそうとしたそのとき──思わず固まる。
10のツインズ……!赤堤先輩、こんなに強いカードを隠し持っていたのか。
「いっただきー」
ああ、俺の宝の山が──18ポイントが。
「さあ、また1ラウンド目からだよ。気張っていこー」
赤堤先輩がカードを集め、シャッフルしだす。
それから誰かがポイントを払えなくなるまで何回か繰り返した。
最終的にポイントが多かった勝者は赤堤先輩だった。そして俺は3番目。
あと、一つわかったことがある。手水はあの後も毎回ありったけのポイントをつぎ込んでカードを引いていたのだが、それを不思議に思って尋ねてみると、曰く『ガチャみたいで楽しいから』とのことだった。正直よくわからない。
それからもまた何回か試合をした。
順位は真ん中らへんで、パッとしない順位ではあったけれども、それでもこうして皆でワイワイ盛り上がるのは楽しかった。
最初は気乗りしないままここに来たが、またこうして時間を忘れるように遊びたいと思った。
ぐー。
不意に猪口の腹から音が鳴った。
「猪口君、お腹空いたの?」
「あー、朝飯食ってきてないからだな」
「猪口君、朝食は食べたほうがいいよ?」
「早いけど、お昼にしようか」
赤堤先輩がそう言ったので、ふと今は何時だろうかと壁の掛け時計を見た。
午前10時46分。
まだ時間はあるな。
「チャーハンとかでいい?」
「ご馳走になっていいんですか?」
「遠慮しなくていいよ猪口。美人な先輩の手料理とか貴重だよ?」
「自分で美人とか言っちゃうのやめた方がいいわよ」
「うるさいなぁ。あ、皆アレルギーとか大丈夫?」
「私はないですよ」
「俺も同じく」
俺はキウイアレルギーで、キウイを食べると少し喉が痒くなるけれど、まあ、チャーハンにキウイなんて使わないだろうし……いや、念の為言っておこう。
「俺、アレルギーはキウイだけです。食べなければ大丈夫ですけど」
「おっと。聞いといて良かった」
「えっ、チャーハンにキウイ使うんですか?」
「使わないよ。食後にでもどうかと思ってただけ」
赤堤先輩はそう言い残し、キッチンへ向かった。
「そういえばチャーハンって焼き飯とも言いますよね」
ふと手水がそんなことを言う。
ああ、そうえば──。
「うちのじいちゃんとばあちゃんは焼き飯って言ってる。焼き飯って呼び方まったく聞いたことなかったから、初めて聞いたときちょっとびっくりした」
「関西の方は焼き飯って言う人が多いらしいわね」
「へー。憂莉先輩物知りですね」
「そうでもないわよ」
「じゃあ鬼山のおばあさんとおじいさんも関西に住んでるのか?」
「どうだったかな。関西だって言ってたような気がするけど」
「自分の祖父母の住んでる地域もわかんないのかよ」
「……うん、まあ」
「そういえば、灯先輩って料理上手なんですか?」
じいちゃんとばあちゃんのことにはあまり触れてほしくなかったので、手水が話題を変えてくれてホッとした。ひょっとして俺の気持ちを汲み取ってくれたりしたのだろうか。
「そこそこ。まあ、あたしよりかは全然上手よ」
「憂莉先輩って料理上手そうに見えますけどね」
「マ──母親に似て全然」
瞬間、手水が悪い笑みを浮かべた。
「憂莉先輩。もしかして普段母親のことママって呼んでるんですか?」
「……そうよ!悪い!?」
下風先輩が顔を伏せて答える。前髪の間から、顔が赤くなっているのが見えた。
「私、憂莉先輩がママって呼んでるところ見てみたいですー」
「手水、そのへんにしとけよ。下風先輩の顔真っ赤だぞ」
猪口が手水にストップをかける。
「うん。そだね」
それからは皆無言だった。
やがて赤い無地のエプロン姿をした赤堤先輩がチャーハンを乗せたお盆を手に戻ってきた。
「あれ、どうしたの?私がいない間に何かあった?」
「憂莉先輩が母親のことをママって呼ぶことについてからかってました」
「あー、それね。私が気づいたときもそうやって顔真っ赤にしてたよ」
「──っ!」
憂莉先輩が真っ赤な顔で赤堤先輩を睨む。
別に母親のことをママと呼んだって恥ずかしいことじゃないと思うけど、憂莉先輩にとっては恥ずかしいことらしい。手水も赤堤先輩も、恥ずかしがる憂莉先輩を面白がっているのだろう。
赤堤先輩はトランプを配るときのような慣れた手つきでチャーハンの皿を配っていく。
香ばしい匂いが漂ってきた。
「さあ、冷めないうちに平らげちゃいな」
それぞれいただきますと言って食べ始める。
うん、普通に美味い。
「憂莉、遺伝だね。諦めな」
エプロンを外しながら赤堤先輩が言った。
「灯先輩、遺伝ってどういうことですか?」
「憂莉のお母さんも、過去にママ呼びが発覚してイジられて顔を真っ赤にさせてたっていう経験があったとかなかったとか。ちなみに、憂莉って母親似でめっちゃそっくりなの。学生時代とか特に。写真あるけど見る?」
「私、見たいです!」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
赤堤先輩は、チャーハンを食べる手を止め、ポケットからスマホを取り出す。
「ほらこれ。誰が憂莉のお母さんか一発で分かるから」
手水はスマホを受け取って憂莉先輩と見比べるように眺める。
「あ、この真ん中の方の人ですよね?」
「そう。一発でわかるでしょ」
「瓜二つですね」
「ちょっと見せてくれ」
猪口が立ち上がって手水の背後から覗き込むようにスマホを見る。
「おお、確かに」
そんなに似てる似てると言われたら、どれだけ似てるのか気になってくる。
「俺にも見せて」
「はいどーぞ」
と手水にスマホごと渡される。
それは一軒家の前で撮られた写真だった。
九人の男女が二列になって写っている。身長から見て高校生が七人と小学生が二人。
そして中央には憂莉先輩とそっくりな女性。
髪を結んでいるかの違いはあれど、どこが似ているとかではなく、もう全部似ている。
「おー、確かに。これならママ呼びの遺伝も納得ですね」
「そんな遺伝あるわけないでしょう」
「ありがとうございました」
スマホを赤堤先輩に返しながら、ふと疑問に思う。
「これってどういう写真なんですか?」
記念写真とかだろうか。写っている人の繋がりも謎だ。小学生が混じっているし。
「それがねー。教えてもらえないんだよ。写真のことだけじゃなくて、二人の学生時代のことは全部。私だけじゃなくって実の娘の憂莉にも」
「ほうほう。ミステリアスですね。手水ちゃんセンサーに反応しましたよ」
「なんだよ手水センサーって」
「え、猪口君知らないの!?」
「知らねーよ。でも、確かに気になるし面白そうではある」
「ちょっと、人の両親の過去とか探らないで」
「でも憂莉先輩も気になりますよね?」
「……まあ、詳しいことは何も聞いていないし」
「灯先輩、二人の過去のことで分ってることはありますか?」
「一つ、冷めるから早く食べて。二つ、あんまり深く関わらないほうがいいかもしれないよ」
手水は思い出したようにチャーハンを一口食べる。
「灯先輩、なんでですか?」
「憂莉のお父さんが、もしかするとお母さんの方も──」
赤堤先輩は一旦そこで言葉を区切って、小声で話した。
「鶴松の暴力団事件に関わってたかもしれないから」
その発言に息をのむ。空気が一気に張り詰めた感じがした。
鶴松の暴力団──この辺に住んでいるなら誰でも知っている組織だ。なんせその暴力団は、ここのすぐ近くの鶴松市を拠点として、全国のニュースで大々的に報道されるくらいに暴れまわっていたのだから。二十年ほど前に一斉に摘発されて壊滅したものの、今でもたまにニュースやドキュメンタリー番組で過去の事件が取り上げられていたり、交番に貼ってある指名手配された残党の目撃証言の協力を呼びかけるポスター。
「灯、どういうこと。私も初耳なんだけど」
「あ、そっか。憂莉にも話してなかったか」
「灯先輩、大丈夫なんですか?それ。暴力団と関わってたって……」
「ちがうちがう。暴力団と関わってたんじゃなくて、事件と関わってたんじゃないかって話。警察に協力したとか、そんな感じだと思うよ。憂莉のお父さん、警察のお偉いさんだから。確か官房長官とかって言ってたっけ?」
「全然違うわ。警視正よ」
「まあ、とにかく暴力団と関わってたならそんな高い地位にはつけないでしょ」
それを聞いて、手水は安堵の息を零した。
「よかったぁ。でも、少なくとも灯先輩が知ってることまでならセーフですよね?灯先輩が消されてないってことは」
「そうだけどさぁ……言い方が物騒だな」
「手水は聞きたいです」
「猪口も聞きたいです」
「鬼山も聞きたいです」
「あたしも知りたいわ」
「わかったよ」
赤堤先輩は観念したという風に両手を挙げた。
「で、何から聞きたい?」
「灯先輩の知ってること全部洗いざらい吐いてください」
「なんで私が容疑者みたいになってるんだか。えっと、知ってることでしょ?まず、写真は憂莉のお父さんが、憂莉のお母さんの高校時代は今の憂莉とそっくりだって言ってたから、見せてほしいって頼んだら送ってくれたの。写真のことについては憂莉のお母さんと憂莉のお父さんが誰かってことしか教えてもらってない。それ以外はノーコメント。いつ、どこで、なんのために撮ったかも不明。あ、でも記念写真だっていうことは言ってた。なんの記念かまでは言ってなかったけど」
「憂莉先輩のお父さんって誰ですか?」
「憂莉のお母さんの左隣に居た人」
「もう一回見せてもらっていいですか?」
「どーぞ」
渡さられたスマホを見る。
下風先輩にそっくりな人の左隣には、爽やかイケメンが立っていた。
「かっけー」
思わず声が漏れてしまう。
「でも憂莉先輩には似てないですね」
「あたしは母親似なのよ」
スマホを赤堤先輩に渡す。先輩がスマホをしまって、引き続き語る。
「他に分かってるのは、憂莉の両親は幼馴染で、この辺の生まれってこと。あとは高校のとき同棲してたり、母親の方には妹さんが一人いるってことくらいかな」
「え?ちょっと、同棲ってどういうこと?」
「あー。詳しいことは聞けなかったんだけど、前に何か聞けないかなと料理に酒を盛ってみたことがあって、そのときにポロッと言ってた」
「あんた人のパ──父親に何してんのよ!」
「私にも好奇心旺盛だった頃がありまして……」
高校で同棲か……。昔ってすごいな。
「でもまあ、ちょっと混ぜただけだったんだけど、あまりにも下戸過ぎてすぐ寝ちゃったから。あとは鶴松暴力団がどうとか。それくらいしか聞けなかったんだよね」
「あ、まさか去年の夏休みのとき?」
「ご名答」
「あんたねえ……」
「で、ここからは気になった私が勝手に独自で調べたことなんだけど、どうやら写真の制服って県立じゃなくて私立だった頃の桜幕高校の制服らしいんだよ」
「え、桜幕高校って昔私立だったんですか?」
「そこからかよ。学校紹介のパンフレットの学校の歴史って欄に書いてあっただろ」
それは俺も知らなかった。家にパンフレットが残っていたはずだし、帰ったら見てみるか。
「確か、経営が立ち行かなくなったのを市が買い取ったとか、そんな理由だったかな。それで、憂莉の両親が高校生のときと、丁度例の暴力団の活動が活発になってきて、警察に一斉検挙された年が一致してるんだよ。それだけじゃなくて、実は当時の私立桜幕高校に暴力団関係者が何人かいたっていう噂もあるんだよね。事実、一斉検挙されたすぐ後に不自然な長い臨時休業があって、その後急に私立から市立になった。臨時休業中に警察に事情聴取された人も何人かいたらしいっていう話もあるんだよね。ま、これはあくまでネット上での都市伝説だけどね」
そこまで言って、赤堤先輩は腰を上げ、5人分の空き皿を重ね始めた。
「私の知ってることはすべて話したし、皆も食べ終わってるみたいだから片付けてくる」
そう言って、お盆と畳んだエプロン持ち、台所の方へ向かった。
「憂莉先輩は何か知ってることないんですか?」
「何かって?」
「決まってるじゃないですか。憂莉先輩のご両親の学生時代についてですよ」
「手水、お前まだ興味が尽きてないのかよ」
「そういう猪口君はどうなのさ」
「確かに興味なくはないけど、例え知ったとしてもろくなことにはならないだろ。ヤバそうな話だし」
「例えこの身がどうなろうとも、私は真実を追い求める!」
急に立ち上がり、仰々しくそんなことを言う手水なのであった。
「なんだそれ」
「私的に探偵っぽく言ってみたつもりだったんだけど」
「諸君、探偵になりたくはないかね」
突然、背後から声がした。
ハンカチで濡れた手を拭いながら赤堤先輩は棚から一つの箱をまたしても迷いなく取り出した。
「はい!不肖手水、探偵になりたく存じます」
「うむ。いい覚悟だ。というわけで、次は違うゲームをしようじゃないか」
そう言ってちゃぶ台の中央に置かれた箱には、こう書いてあった。
「はいこれ。犯人は踊る」
今回は、ルール説明もなしに、いきなりカードが配られた。
「さあ、一人4枚ずつカードを配ったところで、ゲームを始めます。これから皆さんはある事件に巻き込まれます。そしてその事件の犯人を当ててもらいます!」
「赤堤先輩、この中にいなかった場合は?」
「いいか、猪口。犯人はこの中にいるんです。絶対。そういうことにしないと話が進まないから。というわけで犯人探しをします。第一発見者っていうカードを持ってる人は、それを真ん中に出してどんな事件が起こったかを皆に報告してください。事件の内容は、お好きに決めてどうぞ。殺人とかでもいいし、ケーキを誰かに食べられたとかでもいいし」
「はーい。私が第一発見者でございます」
手水が第一発見者と書かれたカードを出す。
「事件の内容は……。そうだ、手水ちゃんのハートが盗まれたってことで。誰に盗まれたか見つけましょう!」
「これで手水が犯人だったら面白いな」
ふとそんなことを思ったから口に出した。たまに芹菜と一緒に刑事ドラマとか推理ものを見ることがあるけれども、紆余曲折の末、結局は第一発見者が犯人だったということもある。
「そうなったら私かなり痛い子になっちゃうよ」
「もともと痛い奴だから気にしなくていいんじゃないか?」
「やめてよー、猪口君。私ってそういうの結構グサッときちゃうタイプだからさ」
と、わざとらしく両手で胸を抑えた。なんというか、手水っていちいちオーバーな動きをするよなぁ。
「次からは第一発見者から時計回りにカードを一枚ずつ出してく。探偵カードを出して犯人のカードを持ってる人を当てることができたら犯人以外の勝ち。犯人カードを持っていても、アリバイカードを一緒に持っていれば、しらを切ってオッケー。犯人カードは、自分の残り手札が犯人カードしかないときにしか出せなくて、犯人カードが出されたら、そのカードを出した犯人の勝ち。無事に犯人を当てることができたら、犯人以外の勝ち。犯人カードは一枚だけ。探偵カードとアリバイカードは二枚。あとはてきとーに入れるから」
既に配られた手元にある自分の手札に目を落とす。
俺の手札には今のところ犯人も探偵も無い。
自分の手札のカードに書いてある説明を見ていく。
一番気になるカードは、誰か一人の手札をみることができる『目撃者』というカードだ。
「赤堤先輩、これって誰が犯人持ってるぞとか、言いふらしてもいいんですか?」
猪口の質問に、赤堤先輩が答える。
「ノー。それができるんだったら、犯人を送りつけて告発したら一瞬で終わっちゃってつまらないじゃん。ただ、表情で読まれることもあるから、ポーカーフェイスは心掛けた方が良いよと忠告しておく」
「手水から時計回りだから、あたしの番ね」
「ストーップ!」
下風先輩がカードを出そうとしたのを、赤堤先輩が遮った。
「久しぶりにやるから忘れてた。この家でこのゲームをするときは、出したカードのモノマネをしなければいけないというしきたりがあるのだよ」
手水の顔に『マジでやるんですか?』と書いてある。
「というわけで、手水からどうぞ」
「なんでモノマネしなきゃいけないんですかぁ……」
「面白いからに決まってるじゃん。ほれ、つべこべ言わずに」
「この中のどなたかにハートを射抜かれてしまったでやんす。はたしてどちら様にぶち抜かれてしまったのかしら……」
急速に場が静まり返った。
「……おつかれ様」
机に突っ伏した手水を見るに堪えかねて。労いの言葉をかけた。
……労えたのだろうか。ともすれば煽っているようにしか聞こえないかもしれないと後悔した。
「なんか……面白そうかなって思い付きで考えたんだけどさ、ごめんね。次からはしなくていいよ」
赤堤先輩が優しい口調で言った。
ていうかしきたりがどうのっていうのは嘘だったんですか……。
「灯先輩、納得がいきません。私だけあんな目に合うなんてずるいですよ!灯先輩と……あと猪口君あたりは出したカードのモノマネをやってもらわないと!」
「待て。なんでそこで俺の名前が出てくるんだ」
赤堤先輩は少し逡巡した後答えを出した。
「よし、わかった。せめてもの罪滅ぼしに私と猪口は出したカードのモノマネをさせてもらおう」
「えぇ!?俺もですか?」
「うん」
「だって俺全く関係ないじゃないですか!」
「だってもヘチマもない。猪口、諦めなさい」
「まあ、とりあえずあたしの番ね。ウワサのカードを出すわ」
下風先輩が出したウワサと書かれたカード。『右隣の人の手札をランダムに一枚取る』か。
俺の左隣の猪口は、目撃者のカードを取った。俺は探偵も持ってないし、序盤で目撃者のカードを使うつもりはないから、さして問題はないか。
暢気にそんなことを考えていた──気が抜けていた。
俺は、右隣の赤堤先輩から目についたカードを──一つだけ不自然に飛び出ているカードを、何も考えずに取ってしまった。
まずいと思ったときにはもう遅かった。
引いたカードには『犯人』の二文字。俺はまんまと掴まされてしまった。
しかも、しまったという感情が盛大に顔に出てしまった。慌てて無表情に戻すが、どうだろう。赤堤先輩以外の人にも見られてしまっただろうか。願わくば、右隣の人のカードを引くことに気を取られていたりしていてほしい。
赤堤先輩がしてやったりという顔で笑っている。いや、もしかすると『ここにマヌケがいるぞ』と嘲笑っているのかもしれない。
声に出なかっただけマシだと思っておこう。
「さあ、次は私の番だね」
と、ここである危険に気づく。
あ、非常にまずい。今は赤堤先輩の手番。もし俺が確実に犯人カードをもっていることを知っている先輩が、探偵のカードを持っていたなら?
手札にアリバイカードの無い今の俺は、どうすることもできない。
赤堤先輩は迷いなく選んだそのカードは──一般人というカード。テキストには出しても何も起きないと書かれている。描かれているイラストの気の抜けた表情に対し、少し腹立たしさを覚えた。
欲を言えば、犯人のカードを手放せるようなカードを出してほしかったけれども。
「手水の心を奪うやつがこの中にいるなんて恐ろしい!探偵さん、早く犯人を見つけてください!」
この人は急に何を言い出すんだ──そうか、例のモノマネか。ぶっちゃけ、特に面白くもなく、やはり微妙な空気が流れる。
気を取り直して、俺の番だ。次の猪口は目撃者を持っているから、もし俺の手札を見られたら大変危険だ。俺はアリバイも持っていないし、早々に犯人を手放したい。
確実に手放すなら、情報操作ってカードか、取り引きってやつだな。情報操作は各自左隣に好きなカードを渡せる。
取り引きは、出した人が一人指名してその人と一枚ずつ好きなカードを交換する。
問題は、もしここで犯人を手放せても、また俺に犯人が舞い戻ってくる可能性があることだ。その時のために、犯人の動きはある程度ぼかしておきたい。となると、ここはカードの動きの把握が大変な情報操作の方がいいんじゃないか?
俺は情報操作を出した。
そしてもちろん、猪口に犯人を押し付ける。
横目でそれとなく猪口の表情を確認するけれども、猪口は犯人を押し付けられてもポーカーフェイスを貫いていた。
ちなみに赤堤先輩からは探偵が送られてきた。
さっき探偵を使わなかったのは初心者に対しての温情だったのか。
続く猪口は『犬』というカードを出した。
誰かの手札を一枚選び、全員に公開する。それが犯人カードなら犯人の負けになるというカードだ。
つまり探偵に近い役割のカード。
それを今使うということは、犯人を手放したとき、犯人を見つけるチャンスがなくなるということ。猪口は犯人として勝ちを狙うつもりなのかもしれない。
しかし、それなら俺の探偵カードで早々に決着をつけられる。
「このカードが怪しいワン(棒読み)」
とモノマネをして猪口は赤堤先輩のカードを一枚オープンする。
白々しい。お前が犯人の癖に。
オープンされたカードはもちろん犯人カードじゃない。
アリバイカードだった。
これでアリバイカードの二枚のうち、少なくとも一枚は猪口持っているわけではないと分かった。
「私、ハートが射抜かれる瞬間を目撃してしまったんです!」
と、手水やらなくてもいいモノマネをしつつ目撃者のカードを出す。
「猪口君、手札見ーせて」
もしかして、手水は誰が犯人か勘付いているのだろうか?
「どうぞ」
と冷静にカードを見せる猪口からは、動揺している素振りは全く伺えない。
鉄仮面の猪口だ。
「なるほどー。ありがと」
次の下風先輩はウワサのカードを出した。
これは少しまずい。
猪口に探偵が取られてしまうかもしれない。
けどまあ、猪口も手水に犯人を取られるかもしれないし。
「鬼山、早くカード引かせろよ」
「お、おう」
猪口が探偵カードのすぐ隣にあった一般人のカードを取っていく。
セーフ。
そして俺は赤堤先輩から目撃者を取った。
「さて、実は手水と取り引きしたいんだけど」
と、赤堤先輩は取り引きのカードを出す。
手水は犯人を持っているかもしれないことは赤堤先輩も分かっているはず。なにか考えがあるのだろうか。
二人がカードを一枚ずつ交換する。
両者とも特に表情は変わらず。皆ポーカーフェイスが上手いな。もしかしたら俺が顔に出やすいだけなのかもしれない。手水みたいな人は顔に出やすいタイプだと思うんだけど、俺の観察力がないだけなのかな。
そして俺の番。
とりあえず、犯人カードを持っているのは赤堤先輩か手水か猪口だっていうところまでは絞れている。3分の1だし、まだ探偵カードは温存かな。せめて二人までに絞れてからが望ましい。
じゃあ、二人までに絞るか。
「俺も手水と取引する」
少し危険かもしれないが、仮に手水へ犯人カードが渡っていたとしても、先ほどの取り引きで赤堤先輩に渡してしまっているだろう(自分のハートを射止めたのが自分自身だったなんてオチはできるだけ避けたいだろうし)。だから、手水が犯人カードを持っている確率は三人の中で一番低いと踏んだ。あと、赤堤先輩との取り引きで、犯人カードを持っていたにも関わらず渡していないのであれば、俺にも渡してこないんじゃないか?
俺は目撃者を手水に渡す。手水から送られてきたカードを見ると、案の定犯人カードではなく目撃者のカード。差し出した目撃者のカードがそのまま返ってきた形になった。まあ、これで手水が犯人カードを持っている線は除外していいと思う。
俺が手水から送られたカードを確認して上手く行ったと思ったとき、手水が一瞬驚いたような表情を見せた。
目撃者を渡されただけで、そんなに驚くことか?自分の手札を見たら、何が起こったかは明白だった。
俺の手元には、目撃者が二枚。そして、あるはずの探偵カードがない。そう、俺は探偵のカードを送っていたのだ。手水が送ってくるカードに気を取られてすぎた。まさかこんなミスをするなんて。あー。やらかしちゃったよこれ。
……待った。これはすごくいい展開だ。今の取り引きで手水が白なのはほぼ間違いない。であれば、手水はもう探偵カードを出して犯人を当てられるはずだ。
次の猪口は一般人を出した。
ここでウワサとか情報操作とかを出されたら脳の処理が追い付かないところだったから、これは僥倖。こんな風にカードが目まぐるしく動くと、誰の手札に犯人があるか分からなくなてしまう。
ああ──だから『犯人は踊る』なのか、と遅まきながら理解した。
「犯人がわかりました」
そう高らかに──そして自信満々に宣言し、手水は探偵カードを出した。
「私のハートを射抜いたのは──」
と手水は一度全員をぐるりと見て、溜めて、溜めて、溜めて、指さした。
「猪口君だ!」
「いや、違う」
自分の手札に目を落としたままそっけなく即答する猪口。
猪口が犯人カードを持っている強い確信があったのか、手水は目を丸くした。
「え、ホント?」
再度手水が確認するが、猪口の返答は変わらない。
「ホント」
「嘘じゃない?」
「嘘じゃない」
猪口は犯人ではない?
手水が取り引きで赤堤先輩に犯人を渡していたら、赤堤先輩が犯人だと言うだろうから、あと考えられるパターンは2つ。猪口がアリバイカードも持っていたというパターン。それと、手水が犯人カードを持っているが探偵カードを使ったというパターン。
どうも手水の反応を見る限りだと前者だと思うんだよなぁ。俺が誤って探偵を送り付けたあのときに感じたけれど、やっぱり手水は顔に出てしまうタイプだ。今回の面食らったようなあの表情が演技だとは思えない。
だけど、さっき手水は目撃者を使って猪口の手札を見ているはず。だからこそ猪口が犯人カードを持っていることを知っていて探偵カードを使ったのだろう。しかし、そうであればアリバイカードを猪口が持っていることも見えていたはず。犯人カードに目がいってアリバイカードがあることを見落としていたのか?
「取り引きよ。相手はそうね……灯、はいこれ」
「そんじゃあ、私からはこれを。つまらないものですが」
二人がカードを交換する。
次の赤堤先輩はアリバイのカードを出した。さっき、猪口が『犬』を使って公開したカードだ。アリバイカードには、出しても何も起きないと書かれている。
さて俺の番。俺は目撃者を使う(というか手札は二枚とも目撃者だ)。
誰の手札を見るのはもう決まっている。
「猪口、カード見せて」
まあ、見たところで俺にはもうなにもできないけれど。
「はいよ」
猪口が他の人に見られないように手札を見せてくる。
なんだ。やっぱりアリバイを持ってるのか。そして犯人カード。
猪口の番になる。犯人は手札が残り一枚じゃないと出せないから、猪口はアリバイのカードを出すしかない。アリバイカードを出すとき、さっきまで全く表情に変化が見られなかった猪口が、少し苦い顔をしたように見えた。
さあ、猪口。絶体絶命だぞ?
「今度こそ犯人がわかったよ!」
と手水が探偵カードを出した。俺が渡した探偵カードの他にもう一枚持っていたのか。とにかく、勝負あったな。
「犯人は猪口君だ!」
「参ったよ」
そう言って猪口は持っていた最後のカード──犯人のカードを置き、両手をぶらぶらと挙げた。
ゲーム終了。犯人の負けだ。
──それから他愛のない雑談なども間に挟みながら遊んだ。
初め、ここに来ることは気乗りしていなかったけれども、段々と沼に引きずり込まれていったというか、結局俺も一緒に盛り上がって、皆と楽しく過ごした。。
「あ、だいぶ時間経っちゃったね。まだ時間あるし、他のにする?」
赤堤先輩がそう言ったので、ふと今は何時だろうかと壁の掛け時計を見た。
午後一時四十分。
「やっべ!」
「どうしたの?鬼山君」
「用事があったの忘れてた。今日はこれで失礼します。楽しかったです!」
そう言い残し、急いで靴を履き玄関から出る。
今日は元々、芹菜と猫カフェに行く約束をしていた。赤堤先輩の家で遊ぶ予定が急遽入ったから、猫カフェは午後から行くことになったけれど、猫カフェは前々から芹菜が行きたいとかなり楽しみにしていた場所だ。兄として妹の行きたい場所にはできる限り行かせてやりたいし、やりたいことはできる限りやらせてあげたい。医者からは、精神を健康に保つためにも家に引きこもってばかりではなく外に出た方がいいとも言われているし。
全力で……ではないけれど程々に速く走った。
「ごめん!遅くなって!」
つい勢いよく戸を開けてしまい、漫画を読んでいた芹菜がビクッと体を震わせた。
「えっと、どうしたの?息切れてるけど……」
芹菜が目を丸くした。荒い息を整えてから話す。
「猫カフェ行くんだろ?ごめん、忘れてた」
「もう、そんなに気にしなくていいよ。時間はまだ全然あるし」
そう言って笑いかける芹菜だけど、芹菜はイライラとか悲しみとか、そういったのを内に抱え込んで明るく振る舞ってしまう節があるから、かえって心配になる。
「あ、お昼はもう食べたから大丈夫だよ」
「そっか、あとでお礼言っておかなくちゃな……」
「あ、二人からそれ無くしてって釘刺されてる」
「それって?」
「家族なんだから一々律儀にお礼とか言わなくていいよって」
「そうか……」
一年前、母が死に、身寄りがなくなった俺達を引き取って、故郷である田舎を離れて俺達と一緒に暮らしてくれているのがあの二人だ。俺と、下半身不随の芹菜の面倒を見なければならないし、生活費や学費など出費も多くなる。それでも、あの二人は俺達を引き取ってくれた。俺達の家族でいることを選んでくれた。若い頃の貯金や母の遺産、それと年金があるからと、俺達の生活費も学費も、全て賄ってくれているし、望むなら大学にも行かせてくれると話してくれた。俺達に対しても優しく接してくれるし、本当に頭が上がらない。少しでも楽をしてほしいと思っている。だからこそ、せめて家事と芹菜のことは自分でやろうと決めたのだ。
──ただ、どうしても二人には心を開くことができない。母が倒れて、お見舞いに来るまで顔すら見たことがなかったのに、急に家族だと言われても、どう接していいのか分からないし、他人行儀になってしまうし、どうしても家族とは思えない。もちろん、俺達を引き取ってくれたことには感謝している。それでも、俺の中で家族は母さんと芹菜とあの男だけなのだ。家族として接することに抵抗というか、違和感のようなものを覚えてしまう。
夕食になにかリクエストはないかと部屋に入るなり声をかけたが、芹菜から返事はなかった。
ベッドの上で、ぐっすりと寝息を立てていた。
手にはスマホが握られている。疲れて寝たのか。今日は大好きな猫に囲まれて終始興奮しっぱなしだったからなぁ。
電気は点けっぱなしだし、掛け布団も掛けていない。あとテレビも点いている。
いつも注意しているけど、一向に直らない。
ベッド横の棚の上にあるリモコンに手を伸ばす。
リモコンは全部で四つある。
ベッドとテレビとエアコンと照明のリモコンだ。
照明をリモコンでも操作できるということは最近知った。
おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に住むことが決まって、家具を新調しようと電気屋さんに行った。そしたらなんとリモコンでも照明を操作できるというではないか。
芹菜は自力ベッドから動けないから、リモコン式というのはとてもありがたい。もっと早く知りたかった。俺が遅れているだけかもしれないけれど。
大分疲れている様子だし、起こさないでおこう。
掛け布団をかけ、テレビを消し、芹菜の手からスマホを抜き取り充電機に繋ぐ。最後に電気を消す。
おっと。カーテンを閉め忘れていた。
「さて、作るか」
俺は明かりの消えた部屋を後にする。
「起きろー。ご飯できたぞ」
お盆を棚の上に置いて、電気を点ける。疲れているところ申し訳ないが、ご飯はちゃんと食べなければならない。
「まだねむい……」
「今は寝る時間じゃないぞ」
「……あと三十分」
「ご飯冷めちゃうから」
無理やり布団を引っぺがして身体を起こさせても、芹菜はまだうつらうつらしている。これはあれだな。多分夜更かししていた反動が今更になってきている。原因はスマホだな。
気軽に外出ができない芹菜にとって、スマホは良い娯楽品だと思うし、楽しんでくれているようで喜ばしい限りだけど、何事にも限度ってものがあるわけで。
スマホを使うなとは言わないけど、程よく、節度を持って使ってほしい。
とにかく、今日は早めに寝かせよう。
そのために、芹菜の目を覚まさせて、まずは早く料理を食べさせる。
「おらっ」
手を芹菜の首筋に当てる。
水道から出る冷水をふんだんに浴びた冷たい手だ。
「ひゃう!?」
効果てきめん。バッチリ目が覚めたようだ。
「ほら、早く食べて」
お盆を芹菜の膝の上に乗せる。
俺は椅子に座って芹菜が食べ終わるのを待つ。この時間に、学校のことだったり、テレビのことだったり、今日あった出来事を語り合う。それが、いつもの日課。
「いただきます。お兄ちゃん、今何時?」
「もうそろそろ8時」
「もうそんな時間なんだ」
「芹菜、寝不足だよな。今日は早く寝ろよ」
「うん。わかった」
「あと、テレビと電気点けっぱなしだったし、スマホもちゃんと充電してから寝て」
「お兄ちゃんスマホ見たの!?」
あまりの必死さに驚いてしまう。
「いや、充電しただけだから中までは見てないけど……」
なにか見られちゃまずいものでもあるのか?
まあ、深くは追求しないけども。
いくら兄妹だからって、芹菜にもプライバシーがあるから、スマホを覗いたりはしない。犯罪とか、危ないことに使っているのじゃなければそれでいい。
「危ないことには使うなよ」
「そうだ、それよりお兄ちゃん。どうだった?」
「何が?」
「手芸部の先輩の家に行くって言ってたじゃん。楽しかった?」
「楽しかったよ」
「また大富豪したの?」
「いや、まず遊んだのはツインズっていうゲームで──」
俺は芹菜に、今日のことを語った。どんな面白いことがあったか、どんな体験をしたか。
今日は俺ばかりが喋ってしまったけど、芹菜はとても楽しそうに、そして嬉しそうに聞いていた。
──芹菜が笑っているこの時間が、永遠に続けばいいのに。
4月14日(日) 猪口零人
今日も今日とて赤堤先輩の家へお邪魔する予定だ。なんだかんだ言って楽しいから。
「猪口君、おはよう」
背後から軽く肩を叩かれた。
「おはよう。今日は何するんだろうな」
「当ててみせるよ。確信がある」
「当たるといいな」
朝だし、脳みそが回っていないという感じの会話だなあとぼんやり思う。
「ズバリ……猥談!」
「……そうか」
もう少し真面目に答えほしかったが、まあ、手水がこういうときはふざけ倒す奴だってことはわかってきた。
「覚えたての言葉って無性に使いたくなるよね」
「急にどうした。でも、確かにわからなくはないな。この歳になると、なかなか新しい言葉を覚える機会ってのも少ないけど」
「なんか老人みたいなこと言うね。それに、覚えたての言葉ならあるでしょ?『ツインズ』とか」
「確かにそうだな」
ツインズという単語自体はもともと知っていたが、ゲームの名前としては昨日初めて知った。
「ツインズといえば、昨日はなんであんなにカードを引きまくってたんだ?」
昨日、手水は終始持っているポイントの許す限りカードを引きまくっていた。
そのせいで、手水は常にゲームオーバーの一歩手前で戦っていた。
あれが戦術として有効とは到底思えない。
「だって、カードを引くのって楽しいじゃん?ガチャみたいで」
「マジかよ」
まあ、楽しみ方は人それぞれか。ルール違反ではないし、マナー違反というわけでもあるまい。
などと駄弁っている間に、赤堤宅に到着した。
「おじゃましまーす」
と元気よく手水が玄関の戸を開けた。
手芸部員が来るたびに一々応対するのが面倒だから、休日なら鍵は掛けないと言っていはたが、まさか本当に掛けていないとは。
ここは田舎じゃないし、閑静な住宅街だから空き巣とか来そうだけどな。
「おじゃまします」
俺も続いて入る。
リビングでは赤堤先輩がファッション雑誌かなんかを読んでいた。
どうやら俺達が一番乗りらしい。
俺達が昨日と同じ席に座ると、赤堤先輩がようやく気づいたようで、本から顔を上げる。
「邪魔するなら帰ってー」
「よし、じゃあ帰ろう。猪口君」
「は?」
強引に手を引かれて玄関へ引き戻される。もっとも、手水の顔を見ればそれが冗談だということはすぐに分かった。
「ほんとに帰ってどうすんねーん」
と赤堤先輩が言ったところで満足げに手水はリビングルームへ引き返していく。それでもなぜか手を離さないので振りほどこうと軽く振ってみたが、全く離してくれない。ちょっと強めに振ってみるが、それでも離してくれない。
こいつ、意外と握力強いぞ。
リビングへ入ったところで、ようやく俺の腕が解放された。
「で、ご飯にする?お風呂にする?それとも……」
「大将、お菓子」
こういう赤堤先輩のノリに動じずついていける手水は度胸あるなと少し感心した。
「お菓子はだめ。カードとか諸々が汚れちゃうからね」
「分かりました。じゃあ飲み物ください」
「お茶で良いんなら出すけど、遊ぶときまでには飲み終えて。こぼされちゃかなわない」
「この私がこぼすわけないじゃないですか」
「どーだか。手水ならこぼしかねないと思うね」
「俺も同意見ですね」
「わお、信頼度ゼロだ」
「猪口はお茶いる?」
「大丈夫です。喉乾いてないんで」
それを聞いて、赤堤先輩は雑誌を机に置いて、お茶を淹れに行く。
「……その雑誌取ってもらえない?」
赤堤先輩が置いていった雑誌だ。
「どうする気だ?」
「どうするって、ちょっと読むだけだよ」
「なんだ、普通に読むのか」
「ちょっと。何その反応。私が読む以外に何かすると思ってたの?」
「思ってた。具体的には落書きとかじゃないかと」
「そんなことは断じてしないから」
「でも、読むにしても本人に断ってからにしたらどうだ?」
と、ちょうど良いタイミングで赤堤先輩が戻ってきた。
「はいよ。麦茶一杯」
「どもども」
コップ一杯の麦茶を受け取り、一気に飲み干した。
「ぷはー!血液がサラサラになっていくぅー!」
「そんな即効性はねえだろ……。そういえば、読んでいいか訊かないのか?」
「ん、ああ。灯先輩戻ってきちゃったし、もういいかなって」
「ほう。私がいたらできないようなことをするつもりだったと?」
「灯様の仰られた通りにございますが」
「開き直るな」
そう言って、手水から空のコップをぶんどり、台所の方へ向かっていく。
それと同時に、リビングのドアが開く。
「おはよう」
下風先輩だ。
続けざまに、鬼山も入ってくる。
「おはようございます。うわ、もうみんな揃ってる」
赤堤先輩も戻り、これで全員が揃った。
「それじゃあ早速始めようか。皆はなにやりたい?」
赤堤先輩が質問するが、誰も答えない。
そりゃそうだ。何をやりたいか問われても、そもそも何があるのか知らないのだから。
俺はどうせなら既にやったゲームではないゲームをしたい。
誰の反応もないことを受けて、赤堤先輩が言った。
「よし手水、立って」
「イエス、マイロード!」
「目を閉じて」
「イエス、ユア・ハイネス!」
「そのまま手探りで移動して、棚の中から今日やるゲームを取ってきて」
「イエス、ユア・マジェスティ!」
そして全く馬鹿なことに、手水は勢いよく前進しようとする。
そう、前進。手水は立ってから身体の向きは変えていない──つまり、机に激突する。
机の高さはちょうど手水の脛くらいなので、机は手水の脛にクリーンヒット。
机は固定されてはいないものの、手水の脛キックを受けても微動だにしない程重い。手水のダメージは容易に想像できた。
「痛ったああああああ!」
脛を押さえて転げ回る手水に一同大爆笑。見事な一発芸だった。
「代打鬼山。行ってこい」
赤堤先輩が代打を宣言する。手水は無念の負傷交代。
「俺ですか……」
先程のことがあったから、目を瞑っている際、鬼山はやたらと足元──特に脛を気にしていた。
鬼山が棚から取ったのは、ピックテンというゲームだった。
「ご苦労さん鬼山。しかしピックテンか。いいね。最近遊んでなかったし、ルールも分かりやすい」
赤堤先輩は、鬼山から箱を受け取ると、カードをシャッフルし、中央に置いた。
「はい、じゃあまず皆3枚ずつ取って。書かれてる数字は0から10のいずれか」
試しに3枚引いてみた。カードには数字と絵が描かれている。
バレリーナのような格好をした豚や狼の着ぐるみを着た豚など、個性的な豚の絵だ。
「順番は私から時計回りにしよう。全員、自分の番になったら、カードを一枚出して、山札から一枚引く。最初の人は好きなカードを場に出す」
そう言って、赤堤先輩は6の数字が書かれたカードを出し、山札からカードを一枚引く。
「次の番の人からは、自分の出したカードの数字と場のカードの数字の合計をどんどん足していく。自分の出したカードと場のカードの数字の合計を10にしたときは『ピックテン!』って言って場のカードを総取りできる。もし、数字の合計が10を超えてしまったら、最後にカードを出した一つ前の番の人が場のカードを総取りします。これを山札と全員の手札がなくなるまで繰り返します。最終的に一番持ってるカードの枚数が多かった人の勝ち。0と5のカードは少し特殊で、0のカードは、出したら場の数字の合計が0になる。5のカードは、場の数字に5を足すか5を引くか選べる。あと、場の数字の合計と同じ数字のカードを出した場合、足さないこともできる。例えば、今、場の数字の合計は6だから、憂莉が6のカードを出したとする。そしたら、場の数字の合計を12にするんじゃなくて6にすることができる。説明は以上!始め!」
いざやってみると、ルールは案外シンプルだ。数字の合計を10にするとき『ピックテン』と言わなければならず、それが恥ずかしいのが少しネックだが。しかし、こういうシンプルなゲームは、俺の性に合っている気がした。
「すみません。用事があるんでそろそろ帰ります」
他のゲームでもしようかと話していたところだった。
時計は、そろそろ正午だと言っている。
もう帰るのか。昨日も用事があるとか言って早めに帰っていたよな。
「気を付けてねー」
と返す赤堤先輩に鬼山は、お邪魔しましたと告げ、急いで帰った先日と違い、歩いて部屋から出て行った。
「この前も用事があるって言ってたよね」
手水が少し悲しそうにぼやく。
自分達といるのが嫌だから、用事があると嘘をついて帰っているのではないか、そう考えているように見えた。いつもはしゃいでいるくせに、ネガティブというか、ナイーブだよな。思えば、金曜の帰りも同じような顔をしていた。
「アルバイトとかじゃないか?」
暗い顔を見ていられなかったので、気休めになったかは分からないが、そんな可能性を提示してみた。クラスの奴もそろそろバイトを探してみようかみたいなことを話していたし、ありそうな話ではある。
玄関が閉まる音を聞くやいなや、赤堤先輩が席を立つ。
「よし、追いかけよう」
「灯、あんた正気?」
「もちろん。一昨日も昨日も今日も急いで帰ってるんだよ?気になるじゃん」
「はぁ……。分かったわよ」
赤堤先輩が飛び出していき、ため息をつきながらそれを下風先輩が追っていく。
「猪口君、私達も行こう」
「ああ、そうだな……」
二人も出て行ってしまったし、ゲームをする流れにはならないだろう。それに、手水と二人ここに残っても、特にすることもない。
「ほら、早く」
手水に腕を引っ張られ、連れられて行く。
二人とも、玄関先で立ち止まっていた。どうやら、家を出た瞬間から、鬼山の姿は見えなかったようだ。
「灯、もう見失ったし諦めましょう?」
「いや、問題ない」
赤堤先輩はおもむろにズボンのポケットからスマホを取り出した。
「すまーとふぉんー」
「別にひみつ道具みたいに取り出さなくていいから」
「これで鬼山の居場所がわかる」
「は?……ってあんたまさか」
「こうなるだろうと思って、遊んでる間に隙を見て鬼山のバックにGPS仕込んでおいた」
「やけに計画的じゃない。なんでそんなもの持ってるのよ」
「予備で二個買っておいたんだけど、憂莉につけるのは一個で十分だし、何か面白いことに使えたらなーと思って保管しておいたんだよ。まさかここで日の目を見ることになるとは思わなかった。鬼山は気づいてないみたいだしスマホも発振機の方も充電はバッチリ」
「え、どういうこと?あたしにもついてるの?一個?」
「うん。頑張って探してね。宝探しみたいな感じ?」
「わかった。見つけたら潰しておくわ」
「それはやめて、あれそこそこお値段張ってるから」
自分の身体をまさぐり始める下風先輩。ズボンのポケットの中、フードの中、背中──。
「……どこに隠したのよ!」
「さぁ、みんな行くよ!鬼山追跡隊しゅっぱーつ!進路はあっち!」
「無視!?」
赤堤先輩を先頭に歩き始める。未だにGPSを探している下風先輩を横目に、手水に小声で話しかける。
「なあ手水、こういう他人のプライベートなことって詮索しない方がいいと思うんだが」
「え、でも気になるじゃん」
真顔で言われた。そうか。手水も赤堤先輩側の人間か。
「確かに気になるけど、いいのか?」
「モハメドだね」
アリらしい。鬼山からしたらたまったもんじゃないだろうな。
「あと女の気配がする」
「なんでそう思うんだ?」
「んー。愛は勝つ歌ってるひとかな?」
は?
勘──ってことか、多分。
「わかりずらいな。もっとわかりやすく話せよ」
「猪口君ならわかってくれるって信じてる。これからも私のパートナーとして頑張ってね」
「お前のパートナーになった覚えはない」
「二人は同じ中学だったりするの?」
赤堤先輩が尋ねる。
違うと答えると、先輩は意外そうに俺達を交互に見つめた。
「へぇー。違うんだ。仲よさそうだったから顔見知りかと思った」
「いや、手水とは高校で知り合ったばかりですけど」
「それにしては仲良さそうに見える」
「そうですか?」
「灯先輩と憂莉先輩はいつ知り合ったんですか?」
「私と憂莉が知り合ったのは中学からだよ。そこから一気に憂莉の好感度を上げて、ついには永遠の愛を」
「誓ってないし、誓う予定も一切ないから」
「でも親友ではあるでしょ?」
「それより灯、あいつの家に着いて、あいつが外出しなかったらどうするのよ」
「露骨に話をそらしたね。まあいいか。鬼山の家についたらねえ……。考えてなかったわ」
「とりあえず張り込みましょう!牛乳とアンパン持って!」
「手水、よく考えろ。この人数で張り込んだら近隣住民はどう思う?」
「怪いと思うだろうね」
「怪しい人がいたらどうすると思う?」
「通報するね」
「だから却下だ」
「でも正面突破で玄関からってわけにもいかないでしょ」
「悪い予想が当たっちゃたかなー。これ、多分家にいると思う。さっきからピクリとも動いてな……いや、たった今動き出した。速度的に歩いてるね。私達の方に向かってきてはないから、鉢合わせる心配はないと思うし、追うよ」
数分後、曲がり角に差し掛かると、赤堤先輩が皆を制止した。
「この角を左に曲がったら、遠くに鬼山が見えるはず」
つまり、向こうからもこちらが見えてしまうわけだ。
「ここからはより慎重に尾行する必要がある」
赤堤先輩が顔だけ出して角の先を見る。
俺達もそれに倣う。
確かに鬼山らしき人物が見えるが、俺の視力はあまり良くない(といっても眼鏡をかけるほど悪くはない)ので、ぼんやりとしか見えない。
「あれは確かに鬼山君だね」
「お前、はっきり鬼山が見えるのか?」
「うん。私、視力はそこそこいいんだ」
日本の現代社会において、その視力の良さはぜひ大切にしてほしいものだ。
いつだったか、アフリカの人が東京に移住したら、高かった視力が数年で眼鏡をかけなければならない程に下がったという話を聞いたことがある。
曰く、遠くを見る機会が激減するからだとか。
「というか、いつまでこうしてるんですか?これじゃあ不審者みたいですよ」
「確かに。遠目じゃ私達だって気づかないかもしれないし、腹くくって進もうか。自然に歩いていれば、目立つこともないでしょ」
俺達は赤堤先輩を先頭にして再び歩き出す。
人通りも少なく、近くに四人全員が隠れることができそうなスペースもないので、もし鬼山が振り返ったら、俺達に気づく可能性はある。
「あ、こりゃ多分駅に向ってるね。一年二人、電車賃持ってる?」
「無いって言ったら貸してくれますか?」
「よし、手水はおいていこう」
「おいてかないでください!ありますよ。五千円くらいチャージがあるんで余裕です」
その中にICカードが入っているのだろう。手水は赤堤先輩に向けて小さいハンドバッグを掲げた。
俺はズボンのポケットにスマホと財布がしっかり入っていることを確認した。
「俺もありますよ。手水ほどじゃないですけど。っていうか、五千円はさすがに多いだろ」
「そう?どうせいつかは全部使うんだしいいんじゃない?」
「なくしたらどうすんだ。チャージしておいた金が無駄になるぞ」
「確かに。でもいちいちチャージするのは面倒だよね」
「……そうか」
「あー。これは非常にまずいぞ」
「灯先輩、どうしたんですか?」
「お腹すいた」
確かに、ちょうど昼食を赤堤先輩が作ろうかというときに鬼山を尾行し始めたから、昼食を食べていない。
「手水と猪口は引き続き尾行して。私はなんか食う。憂莉は私の財布係」
「またあたしが奢るの!?」
「だって私財布持ってきてないもん」
「電車賃はあるんでしょ?それ使いなさい」
「……」
赤堤先輩は照れ笑いを浮かべながら頭を搔く。
「まさか電車賃も持ってないの!?」
「いいじゃん、今度ちゃんと返すから」
「そのセリフを何度聞いたことか。それで、ちゃんと返したことあった?」
「覚えてないの?」
「なかったことは覚えられないわよ」
「お願い!このままだと餓死しちゃう!」
「……わかったわよ。なにか奢るわ。一年は引き続き尾行してて。場所をメールしてくれたら、後で追いつくから」
「私もお腹すいてきちゃいました」
こいつ、下風先輩にたかる気だ。
せっかくだし、俺も便乗させてもらうことにした。
「俺もお腹すいてきちゃいました」
「……わかったわよ。あんた達にも買ってくるから」
「さっすが憂莉!心が広い!」
「今日の分、絶対返してもらうわよ」
「それも何度聞いたことか」
「あ、灯先輩、スマホ貸してくださいよ」
「なんで?」
「GPSですよ」
「別にGPSがなくても尾行はできるでしょ?それに手水に私のスマホを渡すなんて危険極まりないじゃん」
もっともだ。俺も手水と赤堤先輩にだけはスマホを貸したくはない。たとえ一瞬でも。
「いいから追え。お高いの買ってくるから」
「買うのはあたしよ」
「ちなみに、鬼山が駅についたから、早く行かないと見失っちゃうよ?」
話に夢中で歩調が落ちていたのだろう。見れば、鬼山との差はかなり開いており、鬼山は駅の改札を通って見えなくなってしまった。
「しょうがない。行くよ猪口君」
「お、おう」
──手水は俺の腕を取って駆けだした。
それはあまりにも疾く、風景を置き去りにしている様にさえ感じられた。手水の顔には、風を切って走ることがこれ以上ないほど幸福だとでも言わんばかりの笑顔が浮かんでいた。
その姿は、俺が彼女と出会ってから最も生き生きとしていて、そして──そう、美しかった。
ああ、認めるしかない。こんなこと、こいつには口が八つ裂きにされても言いたくないが、思ったのだ。不本意ながら思ってしまったのだ。
この時の手水瞳を、美しいと。
負け惜しみのようになってしまうが、美しいと感じたのはあくまで『この時の』手水瞳だ。普段のあいつは美しさなんてものとは程遠いと思う。それでも、今この瞬間だけは、伸び伸びと優雅に走る彼女を見て、美しいと──そして眩しいと思った。
恋々(こいこい)線(せん)──このあたりにある唯一の電車だ。桜幕(さくらまく)市を含めた十二の市を環状に回っている、この辺の人々にとってなくてはならない交通手段だ。
俺達が来たのは桜幕駅。
幸運なことに、この駅は中央にホームがありその両側に電車が停車する、いわゆる島式ホームなので、鬼山と反対側のホームに来てしまう心配はない。
ホームには、既に電車が来ていた。
ホームに鬼山がいないことを確認し、電車に乗った。俺と手水は適当な席に座る。額に滲む汗を腕で拭いながら隣の手水を見ると、心なしかいつもより晴れやかな顔をしているように感じた。
電車が動き出したのと同時に手水に肩を叩かれた。
「ねえ、あれ」
手水が指した方向を見ると、隣の車両──貫通扉のガラス越しに鬼山と車椅子に乗った少女が見えた。鬼山達とは距離があり、乗っている車両も違うので、気づかれることはないだろう
「手水、あの子知ってるか?」
「うん、鬼山君だね」
「そっちじゃない。車椅子に座ってる方」
「そっちは知らない」
「でも、手水の勘はあたってるみたいだな。『女の気配がする』ってやつ」
「確かに。適当に言ったら当たっちゃった」
「勘ですらないのかよ」
「それにしても謎だね。学校にも車椅子の子はいなかったよね?」
「そうだな」
「猪口君、彼女いる?」
「急にどうした」
「車椅子の子って鬼山君の彼女じゃないかと思ったから」
「そこから鬼山に彼女がいるかって話になるのはわかるけど、俺に彼女がいるかの話にはならないだろ」
「それがなっちゃったんだよ。で、彼女はいるの?」
「いないし、別に欲しくもない」
「またまた強がっちゃって」
「別に強がってはない」
「強がってるやつは皆そう言うんだよ。とっとと白状しちゃいな」
……しつこい。さっきはこいつのことを美しいだのなんだのと形容したが、やはりこれが普段の手水瞳なのか。こういうときは、嘘でもいいから認めてしまうのが正解だと俺の経験が言っている。
「はいはい。強がってたよ。実はものすごく彼女がほしいんだ」
「じゃあ私が彼女になってあげようか?」
……認めたら認めたでこれかよ。
「遠慮させてもらう」
そう言った瞬間、電車が止まった。話しているうちに次の駅に着いたよだ。
「降りるよ猪口君」
「は?なんで?」
「鬼山君が降りたから尾行するんだよ」
「ああ……」
尾行か。そういえばそんなことしてたな。俺達は距離を空けながら鬼山達を尾行する。なんというか、車椅子の大変さについて考えさせられる尾行だった。
段差などは避けたり、慎重に上がったり下がったりと、いちいち手間がかかっていた。
特に大変そうだったのは駅の階段の移動だ。一段一段ゆっくりと、これでもかというくらい慎重に進んでいた。
スロープの重要性と必要性がよくわかった。
そんなこんなで鬼山達が辿り着いたのは、動物園だった。
「そういえば、ここ最近来てなかったなー」
「俺もだ」
俺の誕生日に、家族全員で来て以来だ。何歳のときだっただろう。小学生だったことは覚えているが。
「あ、灯先輩からメールだ。『ふう。食った食った。で、今どこ?』だって。空の牛丼三杯の写真付き」
「二杯食べたのは赤堤先輩だろうな」
「だね。そうだ、こっちも写真撮らないと」
「なんの写真だよ」
「あの二人のだよ」
と鬼山の方を指す。
「なるほど。でも先輩達もあの子のことは知らないと思うぞ」
「そうだろうね。でも報連相は大事だから」
殊勝な心がけだ。いや待て。これ盗撮だの肖像権の侵害だのにあたるんじゃないか?まあ、営利目的ではないし、この写真で特に変なことをするわけでもないから大丈夫だろう。
「写真だけじゃなくて、現在地も伝えとけよ」
「言われなくても、そんなヘマをする手水ちゃんじゃないよ」
「念のためだよ」
鬼山達は動物園を徘徊していくが、これといって変わった様子は見受けられない。
猿、ライオン、象等々。
それを俺達が追うのだが、鬼山達に気づかれないよう、なおかつ周囲から不審に思われないよう行動する必要があり、碌に動物を見ることもできなかった。
さらに本格的に腹が減ってくることも重なり、もうこのままどこかで飯でも食って帰りたくなる。やる気も失せてくる。
それに、今気づいたがGPSがあるのならば先輩達について行って牛丼を食べても良かったじゃないか。まあ、今更気づいてももう遅い。
「なあ、この尾行って何が目的なんだ?」
「あの二人がどういう関係か知るため……かな?」
「それならもう直接本人に訊けばいいじゃないか」
「えー、それだとつまんないじゃん。こう、探偵とかスパイみたいにさ、こっそり探るのが楽しいんじゃん」
果たしてこんなごっこ遊びで楽しいのだろうか。
「猪口君、あの二人ってどういう関係だと思う?」
「さあな」
「ちょっとー。真面目に答えてよ。私はね、あの二人は恋人同士なんじゃないかと思ってたんだよ」
「兄妹とかかもしれないだろ。もしくは親戚とか」
「そう。それもあるなーとは思った」
「兄妹だったら、あいつが一度家に帰ったのにも説明がつく」
「確かに。……そういえば、猪口君って兄弟姉妹はいるの?」
「……いや、いない」
俺は嘘をついた。
怖かったから。
『あのこと』を知られたくなかったから。
醜悪で下劣で卑劣な俺は、浅ましく自分勝手な理由で嘘をついた。本当に、どうしようもない。
こんな嘘はいつか露見するだろう。そして手水や赤堤先輩なら、なぜ嘘をついたのかを知ろうとするだろう。
これは、結果の先延ばしにすぎない。
皆が──手水が、鬼山が、赤堤先輩が、下風先輩が、俺を軽蔑し、俺から離れていく……。そんな結果の先延ばしだ。それでも、いつかは終わると分かっていても、もう少しだけ、今の関係のままでいたいと願ってしまうのは、仕方のないことじゃないか。
そうやって自分の過ちを棚に上げる自分にも、とことん嫌になってしまう。
──この人達となんの気兼ねもなく接することができたらどんなに良かったことか。
そんな都合の良い願望なんて叶うことはない。考えるだけ無駄なことなのに、それでもそんな日常を妄想してしまう。
「猪口君、顔色悪いよ?」
「いや、大丈夫だ。なんでもない」
それから、お互いに会話がないまま赤堤先輩達が合流してくるまで尾行を続けた。
「お待たせー」
「灯先輩、遅いですよ」
「ごめんごめん。はい、これ差し入れ」
赤堤先輩からビニール袋を受け取る。
中身は──コンビニの日の丸弁当だ。
まあ、持ち運びしなくてはならないことを鑑みれば、コンビニ弁当というのは決して悪い選択ではないとは思う……が、空腹をおしてまで尾行をしたのだから、もう少し良いものが支給されてもよいはずだ。
「赤堤先輩、もっと高価な報酬を希望します」
「二人とも許してやってほしい。憂莉の財布にも限界があるんだ」
「元はといえばあんたが原因でしょう」
優しさを無下にするわけにもいかないし、ありがたく食べよう。
「灯が牛丼を二杯食べたからこんなことになったんじゃない」
「憂莉先輩、帰りの電車賃は大丈夫ですか?」
「それぐらいはギリギリ残ってるわ」
「私の分もある?」
「あんたは歩いて帰りなさい」
「何してるんですか?」
背後から鬼山に声をかけられた。弁当のことですっかり鬼山の存在が意識から抜け落ちてしまっていた俺は、素っ頓狂な声を上げてしまった──だけなら良かったのだが、誤って弁当が入ったレジ袋から手を放してしまう。さらに反射的に背後を振り返ったときに動かした脚が落下中の弁当に当たり、レジ袋とその中の弁当は横に傾き地面に衝突。
急いでレジ袋を拾って中を確認する。
日の丸弁当だった……元は。今となってはもう弁当とは呼べない有様になっていた。
蓋が外れ、米やおかずが散乱している。不幸中の幸いは、中身が袋の外にまで飛び出なかったことか。
「あ、ごめん猪口……」
「いや、いい。食えなくなったわけじゃないし、気にするな……」
全く元気のない声が出た。
帰りの電車の中、何をするでもなくただ座っていた。
手水と先輩二人が何かを話しているが、会話に加わる気分じゃなかった。
弁当を落としてしまったことがショックだったというわけではない。ただなんとなく、そんな気分だった。
鬼山は、車椅子の少女を置いて一人で俺達の方へ来た。
あの子は誰だとか、そんな質問を次々に投げかける赤堤先輩と手水に対し、鬼山は『明日の放課後にちゃんと話すので、今日は帰ってしてください』とだけ言い残して、こちらを不思議そうに見つめていた少女の下へ小走りで去って行った。
鬼山の表情は硬く険しかった。何か事情があるのだろう。
委細は明日聞けると鬼山が言ったということもあり、手水と赤堤先輩はそれで納得し、明日も特別に手芸部の活動をすることとなり、今日のところは解散として、現在帰宅中というわけだ。
鬼山の表情を思い返す。きっと笑い話などではなく、もっと深刻な話だ。
色恋沙汰だとでも思ったのか、手水は尋問だなんて楽しそうに言っていたが、とてもそんな雰囲気ではなくなるのだろう。
正直、俺も鬼山の『用事』とやらが気にはなった。でも、その『用事』はきっと知られたくないことだったのだろう。知ろうとしなければ良かった。またくだらない好奇心のせいで後悔することになるのではないか?
あいつの見せたくない部分に踏み込んでしまったことが、たまらなく怖い。
ふと眺めた車窓から、少し欠けた上弦の半月が見えた。
4月15日(月)鬼山葵
何年か前までは円満な家庭だった。
その頃、まだ芹菜の足は動いていたし、休日には家族全員で出かけたりもしていた。ごく普通の、ありふれた家庭。俺は、それで十分だったのに。そんな普通のままでいれたら良かったのに。
いつからだっただろう。母さんと父親は徐々に喧嘩するようになっていった。
それでも、その頃の俺は父のことを好いていた。なんだかんだでいい父親なんだと思っていた。でもそれは多分『自分の親だから』という、ただそれだけの理由で好いていただけだったような気がする。いや、どうなんだろう。分からない。もう何年も前のことだし、思い出さないようにしていたからよく覚えていない。
両親は頻繁に激しい口論をしていた。
両親の怒号聞こえるのは、決まって父親が帰ってきてからの夜遅くだった。
その時間、俺と芹菜は寝ていたが、怒鳴り声で目が覚めたことなんかはしょっちゅうあった。もし目が覚めても、聞こえないふりをして、恐怖心を抑えて、目を閉じ、眠る。それが日常だった。
二人が言い争いをしていたリビングは俺と芹菜の寝室からは遠かったので、何を言っているのかは聞き取れなかったし、聞き取ろうともしなかった。
そして、俺が小学校六年生の時だった。
その日は休日で、母さんも父親も芹菜も家にいた。
俺はできるだけ家から離れたくて、友達の家へ遊びに行っていた。芹菜も一緒に行きたがっていたが、俺は断固として芹菜を連れて行かなかった。
二人は俺達の見えるところでは衝突しなかった。というか、そうならないように意識的にお互いがお互いを避けているようだった。とにかく、芹菜が居れば二人は喧嘩しないと思っていた。だから、俺一人だけで逃げた。今でも後悔している。芹菜も一緒に連れて行っていたら──。
後から警察に聞いたところによると、父親は不倫していたらしい。そして、母さんはその日、不倫の証拠を見せ、離婚届にサインをするよう父に求めたらしい。
夕方になり帰宅すると、玄関からでも芹菜の泣き喚く声が聞こえてきた。芹菜の声のする場所──リビングには、母を殴りつける父の姿と、それを見て泣き崩れている芹菜の姿があった。
何度も、あいつは母さんを殴りつけた。
殴る。蹴る。掴む。叩きつける。何度も、何度も、何度も、何度も。
動けなかった。何もできなかった。怖くて、泣くことさえもできずに、ただその場にへたり込んでいた。
やがて、母さんは頭から血を流してぐったりと倒れ込んだ。あいつは泣き喚く芹菜に矛先を変え、怒号を飛ばしながら蹴りつけた。まだ小さかった芹菜が、大人の男に蹴り飛ばされ、壁に打ち付けられる。俺は動くことも、泣くこともできず、ただ立ち尽くしていた。
やがて、警察が来た。
近所の人が通報していたのだ。
幸い、母さんは軽症で済んで後遺症も残らなかったが、芹菜は二度と歩くことができなくなってしまった。
両親は離婚した。
それから芹菜は車椅子で学校に通うようになったが、心無い言葉をかけられたり、からかわれたり、自分のせいで周りに気を使わせたりしてしまうことに耐えかねて、次第に学校に行かなくなっていった。
それでも母は、女手一つで俺と芹菜を育ててくれた。俺も、そんな母さんをできる限り助けようと芹菜の介護を請け負った。
しかし、俺が中学二年の春、母さんが倒れた。病院にいくと、末期のがんと経度のうつ病であると診断された。とても低い確率ではあったけど、手術すれば助かる可能性もあった。でも入院費も掛かっている上、手術は高額で、父親からの慰謝料とこれまでの貯金を合わせても足りなかった。
借金をしてもいいから。俺が働いて返すから。助かる確率が低くてもどうか手術を受けてほしい。生きていてほしい。──何度も母さんに言った。
それでも、俺達の負担になってしまうからと、母さんは手術を受けないまま、俺が中学三年に進級してすぐ、亡くなった。
今は母さんの両親が来て面倒を見てくれている。
幸い、今の生活は安定していると思う。ただ、思い出さないようにしていても、時々リビングにいるとフラッシュバックすることがある。日常が目の前で壊される様と、それをただ見ていることしかできない無力さを。
全ては話さなかった。多少ぼかしたり端折ったりして皆には伝えた。けれど、嘘は一つもつかなかった。
「──それで、休日はなるべく芹菜を外に連れていくようにしてるんです。医者にも外出した方が良いって言われてるんで。昨日も、それで動物園に行ってたんです」
放課後の被服室が、静まり返る。
こんな雰囲気になると思っていた。皆、大体予想通りの反応だった。
──ただ一人を除いて。
「じゃあ芹菜ちゃんも交ぜて一緒にテーブルゲームやろう!人数は多い方が楽しいよ!」
はあ?この人は何を言っているんだ?
別に気まずい雰囲気や同情を求めているわけじゃないけど、普通テーブルゲームの話にはならないだろう。
思わず笑ってしまった。
この人、どれだけテーブルゲームが好きなんだ。
でも、いい提案だとは思う。芹菜には俺以外の誰かと遊ぶ機会がなかった。平日はずっと家にいるし、休日も俺とどこかに出掛けるくらいで、友達と遊ぶということが長らくなかった。
家にいてスマホをいじっているだけでは退屈だろうし、この人達となら、芹菜もうまくやれるはずだ。
「赤堤先輩、本当にいいんですか?」
「もちろん。大歓迎だよ。他の皆も異論はないね?」
「灯の好きなようにすればいいんじゃない」
「私も異議なし!」
「俺も賛成です」
「よし。というわけで、次回からテーブルゲームは鬼山宅で行います。じゃあ金曜日に会おう。解散!」
各々が帰り支度を始める。
「猪口君、一緒に帰ろう」
「まあ、いいよ」
「赤堤先輩、ありがとうございます」
「ん、何が?」
「テーブルゲームに芹菜とも一緒にやろうって提案してくれたことです」
「別にお礼を言われるようなことじゃないよ。それより、勢いで鬼山宅でテーブルゲームするぞって言っちゃったけど、ご両親の許可とかは大丈夫?」
「多分大丈夫だと思います。家の机も、テーブルゲームができるくらいには大きいですし」
あの二人なら、きっと許可してくれると思う。もしかすると、まざりたいと言ってくるかもしれない。
「じゃあ問題ないね。金曜日が楽しみだ」
ああ、とてもいい先輩を持ったなあ。
「芹菜のこと、手芸部の皆に話した」
帰って芹菜の部屋に行き、椅子に座って早速話し始める。この前話し合って、芹菜のことを皆に伝えようと決めた。変に誤解されたりするよりかはこっちから言ってしまった方が良いという判断だ。
それでもやっぱり、誰かに伝わることには抵抗感があるとは思う。芹菜からしてみれば、手芸部の皆は全く知らない赤の他人だし、無理もない。
「それでさ、芹菜も良ければ一緒に参加しないかっていう話になったんだけど」
「一緒にテーブルゲームしようってこと?」
芹菜もこうなるとは思っていなかったのだろう。目を丸くしている。
「うん。試しに今週の金曜どうかって」
「やりたい!」
芹菜は悩む素振りを少しも見せずに、ベッドから身を乗り出して答えた。
テーブルゲームの話題を出すと、興味ありそうな反応をするなとは思っていたけど、まさかここまで積極的に食いついてくるとは思わなかった。
「分かった。皆にも伝えとくよ。二人にも、俺から話しておくから」
「ありがとう」
あ、そうだ。
メッセージで赤堤先輩に改めてお礼をする。
『今日はありがとうございました』
『なんのこと?』
『芹菜も一緒にって誘ってくれたことです』
『別にお礼とかいいから』
『あと、芹菜も楽しみにしてるみたいです』
『それは良かった』
本当にいい先輩を持った。
椅子から立ち上がり、今日の夕飯は何にしようかとちらっと考えながら、部屋を出た。
善は急げということで、二人を探してリビングに行くが、誰の姿もなかった。
自室にいるのか、それとも外出しているのか。
帰ってすぐ芹菜の部屋に行ったから、家にいるかは確認していないし、玄関の靴があるかないかも見ていない。
二人の部屋に行ってみるかと思ったところで、机の上に銀行の通帳があることに気づいた。
忘れ物か。そういえば、買い物に行くって言ってたっけ。
玄関の鍵は掛けてあったし、俺も芹菜も盗むなんてことはしない。けれどもさすがに不用心だよなと、とりあえず手に取った。
──どれだけの預金があるのだろう。
前々から気になっていたことだった。俺はたまに買い出しも担当しているから、あまりお金がなかったら節約を心掛けなきゃいけない。
何より二人は、俺と芹菜が望むなら大学も行かせてあげられると言っていた。それに生活費も合わせれば、どれだけの額が必要になるのだろう。
二人は年金と貯金があるから大丈夫だと話していたけど、母さんの手術費用分の貯金はなかったはずなのに。そんな大金を工面できるアテでもあるのだろうか。
恐る恐る、通帳を開いた。
数字が印刷されている最後のページを見る。
──そこには、目を疑うほど大きな桁数の数列。桁数を数えてみる。
一、二、三、四、五、六、七、八桁。──つまり、何千万。
裏切られたと、そう思った。
「葵君……」
震えた声で、誰かが俺の名前を呼んだ。祖母だ。血の気が引いて、青ざめた顔だった。多分、俺も同じような顔だったと思う。
「どうして……」
気づけば震えた声が出ていた。
「どうして母さんを助けてくれなかったんですか!こんなにお金があるなら母さんの手術もできたのに!あんた達は母さんの親なのに!それなのに、なんで……なんで母さんを見殺しにしたんですか!俺達の為にだったら使うのに、なんで母さんの為には使ってあげないんですか!」
涙を溢しながら、吐き出すように言った。
「葵君、これは──」
もう何も聞きたくなかった。走って、家を飛び出した。
走って、走って、走った。
寂れた歩道橋の上。西日に照らされてた車が、真下を通りすぎていく。
小さい頃、一人になりたくなったら時は決まってここに来ていた。
ここは人通りも多くないし、すぐ下に信号もあるから、わざわざこの歩道橋を使う人はいない。
こうして柵にもたれかかって、一人で眼下を通り過ぎていく車をただ眺めていると、不思議と落ち着いていられる。
冷たい風が吹いた。足元が冷たい。
靴も履かずに裸足で飛び出して走ったものだから、足の裏が痛い。見て確認したわけじゃないけど、血は出ていないと思う。
ゆっくりと階段を上ってくる足音が聞こえた。足音は俺の真横まで来て、止まった。この場所は芹菜から聞いたのだろうか。
「……通帳、見たんか」
じいちゃんは俺と同じように柵にもたれて言った。抑揚のない声だったけれど、その声はどことなく優しさのようなものがあって、それが嘘っぽく思えて仕方なかった。
「……」
祖父はそのまま続けて話す。
「昔、あの子東京の大学行きたい言うたけん、じいちゃんたち田んぼ半分売って工面したんじゃ」
初めて聞くことだった。母さんは自分のことをあまり話さなかったから。
「代々継いで来た田んぼやったけんど、じいちゃんらが好きでしたことやけん、気にせんでええんじゃ。ほなけんどあの子、それを気に病んでしもうて、それから全く頼ってくれんくなったんじゃ」
確かに、自分一人で抱え込んでなんとかしようとする。母さんはそんな性格だった。
そのせいで体を壊して寝込んでしまうこともよくあった。父親と離婚してからはそれがさらに多くなっていった。思えば、あのときに俺が病院に連れて行ってあげていれば、何かが変わっていたかもしれない。
俺が家事を手伝おうとしても、母さんは自分の仕事だからと無理して家事をこなしていた。母さんに甘えてばかりいないで、俺が母さんを支えてあげなければならなかったのに。母さんが入院してから、何度後悔したかわからない。
「いつでも頼ってええって言うても、大丈夫、大丈夫って。もっとあの子を支えられてたら……。助けてあげられたら……。そのことが今でも心残りなんじゃ」
後悔と優しさのこもった声だった。
ああ、同じだったんだ。この人達も母さんの死を悲しんでいる。でも、だからこそ──。
「だったら、どうして母さんを助けてくれなかったんですか!」
自然と、強めの口調になってしまった。
一瞬、祖父は黙った。
「たくさんお金がいることを知ったんはあの子が入院してからじゃった。それからすぐに迷わずじいちゃんたちの残りの全部を売ったんじゃ。田んぼも、家も、トラクターも、全部。ほなけんど、じいちゃんたちが住んどったとこは田舎やけん、いろんなとこに頭下げても、買うてくれる人がなかなかおらんかった。ほんで、買い手があらわれたんはあの子が死んでからじゃ。やけん、せめてお金は葵たちのために使おう思うたんじゃ。あの子が守ってきた葵君らのために……。黙っててすまん。変に心配かけとうなかったんじゃ。心配かけて、あの子みたいに頼ってくれんくなるんが怖かったんじゃ……」
「……」
俺は最低だ。俺達にあんなに優しくしてくれた二人を──こんなに母さんのことを想っていた二人を疑ってしまうなんて。
二人も、母さんが死んで悲しくて辛いんだ。そんなこと分かっていたはずなのに。
俺はじいちゃんに向き直って、頭を下げた。
「ごめんなさい。二人とも俺達にこんなに優しくしてくれているのに、それなのに、信じることができなくて……」
「謝らんでええ。疑うのもしゃあないけん」
二人は、正真正銘俺の家族なんだと、強く思った。
「忘れとった。葵くん靴履いてきてへんやろ。持ってきたけん、履きぃ」
そう言って、じいちゃんは手に持っていたスニーカーを下に置いた。
「ありがとうございます」
いまだに敬語なのも違う……というか変な感じがしたから、改めて言い直した。
「ありがとう、おじいちゃん」
4月19日(金) 鬼山芹菜
今日は待ちに待った金曜日。お兄ちゃんの同級生さんや先輩方がいらっしゃって、一緒にテーブルゲームをする日です。
元々はテーブルゲームマニアの先輩のご自宅で遊んでいたそうなのですが、移動が大変な私のためなのでしょう。ここでやることになったそうです。
お兄ちゃんが楽しそうに話しているのを聞いて自分もやってみたいなと思っていたので、かなり嬉しかったです。
あと、お兄ちゃんの友達も気になります。話には聞いていますが、実際はどんな人なのでしょうか。
ふと、思い出しました。昔のことを。あまり思い出したくないことを。
そして少し不安になりました。
学校であったように、また嫌な思いをするかもしれない。
避けられて、無視されて、孤立するかもしれない。
反射的にOKしたあのときは、そんなこと考えてもいなかったのですが。いえ、きっと大丈夫です。お兄ちゃんが良い人達だと言ったのですから。それを信じましょう。
何やら玄関の方が騒がしくなっています。
お客さんが来たのでしょう。時間帯も、もう放課後ですし。
もしかすると警察の方かもしれませんね。私を逮捕しに来たとか。冗談です。犯罪なんてしてないですから。
……ですがやましいことなら山ほどあります。例えば、昨日の夜中、こっそり大人向けのそういうサイトを見てしまったこととか。
思春期ですし、仕方ありませんよね。まさかそれで逮捕されることはないでしょうけど、お兄ちゃんにバレたら𠮟られるんでしょうか?それとも見なかったことにするとか?うーん。お兄ちゃんだったら、どうしようか悩んで結局『ほどほどにしろよ』みたいに困りながら言いそうですかね。
なんてことを考えているうちに、警察──ではなくお客さんがテーブルゲームの会場、つまり私の自室にいらっしゃいました。
「こんにちは」
しっかり挨拶します。挨拶は礼儀の基本ですから。
ただ、もう日も沈みかけている頃ですから、こんばんはと言うべきだったでしょうか。日本語話者として十何年か生きてきましたが、そこのはっきりした線引きは未だによくわかりません。
「手水瞳と申しまーす!」
部屋に入ってくるなり手水さんが名乗りました。話に聞いていた通り、元気な方です。
「赤堤灯でーす。よろしくね」
「下風憂莉よ」
「猪口零人です」
「はじめまして。鬼山芹菜です」
「きゃー!かわいいねー!」
手水さんが私のほっぺたを触ってきました。つついて、軽く引っ張ったり。私の頬ってそんなに魅力的なのでしょうか?
というか、いきなり距離感近くないですか?
まあ悪い気はしないので触らせてあげましょう。特別ですよ?
なんて上から目線で思ってみたりします。
手水さん以外の方は床に車座になって座りました。手水さんは私の頬をいじくり倒すのをやめて、今は私に抱きついています。
「て、手水さん。そろそろ離れてください」
「えー、いいじゃん」
「手水、芹菜も嫌がってるみたいだから」
「そうなの?」
「まあ、はい。少し……」
「ご、ごめんね」
と苦笑いを浮かべ、手水さんも皆さんと同じように座りました。
私もお兄ちゃんに手伝ってもらってベッドから床に移動します。
「じゃあなにで遊ぶか決めようか」
赤堤さんは、背負っていたリュックを少し開け、私の前に持ってきました。
「はい。この中から一個選んで」
なるほど。くじ引きですね。
目を瞑って、奥の方にあった小箱を掴んで取り出しました。
「おっ、ゴキブリポーカーだね」
……なんというか、すごい名前ですね。
本物は一度も見たことがありませんが、かなり気持ち悪いらしいですね。
虫とかは多少平気な部類ではありますが、ゴキブリはできることなら見たくはありませんね。
そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんの家では、脚を含めたらCDくらいのサイズの蜘蛛がいるらしいです。時期によっては一日に数匹は見かけるんだとか。毒はないので特に害はないそうですが、そんな大きさの蜘蛛が何匹も跋扈していると考えると田舎って恐ろしいですね。
業者さんを呼んだりして完全に駆除してもらわないのかとおじいちゃんに尋ねたら、蜘蛛はゴキブリを食べてくれるから、蜘蛛を完全に駆除したら今度は蜘蛛と同じ大きさのゴキブリが出てしまうと笑って答えていました。
蜘蛛とゴキブリのどっちがマシなのかということですね。どっちも嫌です。
「灯先輩、結構エグいの持ってきましたね」
「そうでもないよ。この絵を見てごらん」
と、箱の表面に描かれている絵を水戸黄門が印籠を見せるときのようにして見せてきます。これがゴキブリ……なのでしょうか。あまりリアル感がないポップな絵柄です。確かに気持ち悪さは少ないですが……。
「はいじゃあカードを配ります。配られたカードは見ないでね。カードは、ゴキブリ、カエル、ネズミ、カメムシ、ハエ、サソリ、コウモリの八種類」
ゲテモノのオンパレードじゃないですか!
なんてものをやらせる気なのでしょうか。
当の赤堤さんは何食わぬ顔でカードを配っていきます。配るの上手ですね。しかも速いです。カードは裏向きで一人十枚配られました。
「最初は説明も兼ねて私からいくね。まず、自分の持ってるカード一枚めくって確認する。それから、誰か適当な人を指名して『これは〇〇です』と言ってカードを裏向きで渡す。それじゃあ……。芹菜ちゃん。これはネズミです」
赤堤さんが私の前にカードを置きました。
「指名された人は、伏せられたカードが本当か嘘かを宣言してカードを捲る。当たってた場合は、カードを渡した人がカードをもらって表にして置く。外れた場合は、答えた人がカードをもらって表にして置く。カードをもらった人は、自分の裏になってるカードから一枚引いて……っていうのを繰り返して、最終的に同じ種類のカードを四枚もらった人が負けというゲーム」
なるほど。つまり、嘘か本当かを当てるゲームですね。この場合は、このカードが本当にネズミかどうかを当てるということですか。
「ちなみに、答えずにそのカードを見て、それを別の人に『これは〇〇です』って答えさせることもできるよ」
わからなかったら答えないという選択肢もあるわけですね。ルールは把握しました。
「はい、じゃあ芹菜ちゃん。当ててみて」
さて、カードは本当にネズミなのでしょうか?赤堤さんはニヤニヤしています。どういった意味の笑みなのでしょうか。
……ちょっとずるいかもですけど、勝ちに徹してみましょうか。
答えないでカードを捲ります。
カードは──コウモリ。
なるほど嘘でしたか。さて。
「お兄ちゃん。これはハエです」
作戦があります。
実はお兄ちゃん、嘘をつくと、直後に右──対面の私から見て左に視線を逸らす癖があることを私は知っています。もちろん本人には内緒にしています。
なので、お兄ちゃんが問う側である限り、私は負けないという寸法です。
ただ、そのためにはお兄ちゃんに一回間違えさせる必要があります。
ですが、ここでもし嘘だと見破れたとしても、次は見破れるでしょうか。次も見破れたとしても、その次は?
何回か偶然で当たったとしても、一度お兄ちゃんが間違えればこっちのものです。
「嘘かな」
むう。まあまあ。まだ二分の一ですから、想定内です。
「正解」
私がカードを表にして横に置き、私の前に置いてあるカードを一枚見ます。今度はネズミのカード。
嘘がバレてしまったので、今度は本当のことを言うと思うはず。だからあえて嘘を吐きます。でも、もしそれをお兄ちゃんが読んでいたら?
……そう考えてしまうと堂々巡りで埒があきませんね。
「これはハエです」
あえての2回連続でのハエ宣言。
逆に本当のように思うのではないでしょうか。
「嘘」
即答です。ぐぬぬ。
「正解」
カードを横に置き、また目の前にあるカードの一枚を見ます。
ハエのカードです。これはラッキー。
「これはハエです」
「また俺か」
三回連続でのハエ宣言。さすがにこれは嘘に聞こえるはず。
「本当……かな」
なんと。
偶然ですよね?これ。一応、六分の一の確率であり得るわけですが……。お兄ちゃんに振るのはちょっと怖いので、次は他の人にしましょうか。
次のカードは、またしてもハエでした。
またハエですか!?
これは……こうなってしまったら……。
「お兄ちゃん。これはゴキブリです」
カードをお兄ちゃんに向かって突き出します。堂々と、自信満々に。
「あはは。芹菜ちゃん鬼山君のこと好きだねぇ」
またハエと言うのは、何周か周って本当に聞こえてしまうのではないかと思うので、嘘をつきました。
堂々としていれば、分かりづらいのではないでしょうか。
「……嘘」
「……正解」
……ここまで立て続けに当たるものなのでしょうか。偶然にしてもひどすぎます。まさか、私に内緒で心を読む超能力的なものを会得したとか……?
いやいや、そんなオカルトあり得ません。
もう一度お兄ちゃんに答えさせるのはちょっと怖いですね。今度こそ他の人にしましょう。
私はゴキブリのカードを引きました。
「猪口さん。これはゴキブリです」
「俺かあ。……嘘かな」
「残念。ゴキブリですよ」
私はカードを表にして猪口さんに渡します。
作戦通りにとは行きませんでしたが、とりあえずこれで負の連鎖を断ち切ることができました。
「じゃあ手水、これはカエルだ」
手水さんは出されたカードを躊躇うことなく見ました。
答えたくないのでしょうか?
それとも、誰かが自分の質問に悩む様が見たかったのかもしれません。
「憂莉先輩、これは正真正銘カエルです」
「嘘ね」
即答しました。
下風さんの読み通り、カードはカエルではありませんでした。コウモリです。
「なんでそんなにすぐ分かるんですかぁ!」
「適当に答えただけよ。つまるところただの二択じゃない」
「じゃあ猪口君。これは灯先輩です」
「はあ?赤堤先輩、こういうのって、アリなんですか?」
「サルバドールだよ猪口君」
「お前は黙ってろ。あと、それアリじゃなくてダリだぞ」
「えっ、そうなの!?」
「うーん。ちゃんとしたルールに則るならダメだけど、まあいいんじゃないかな。多少ルールを変えたりして楽しむのもまた一興だし」
それなら、『これは私の好きな生物です』とか言ってもいいんでしょうか。きっとゲームが崩壊してしまいます。まあ、そこは節度を守ってということでしょうね。
「だってよ猪口君。さあ、早く答えて」
「嘘に決まってるだろ。赤堤先輩のカードなんてないはずだ」
「残念!本当です!」
手水さんはカードを表にします。
そのカードに描いてあるのは……。私にはどこからどう見てもゴキブリに見えます。
「ね?灯先輩でしょ?」
と笑う手水さん。ひどい言いようですね。もちろん本気で言っているわけではなく、あくまで気心の知れた仲での冗談ではあるようですけれど。
「おい手水、もう一度チャンスをあげる。何のカードかもう一度答えな」
笑顔で言う赤堤さん。本気で怒っているのではないとは思いますが、少し怖いですね。
「……あー、これゴキブリのカードですね。なんで間違えちゃったんだろーなー」
「よろしい。じゃあまた手水からね」
「あ、そういうことになるのか……。えーっと、じゃあ灯先輩、これは灯先輩です」
赤堤さんの眉がピクッと反応しました。手水さん、命知らずですね……。
「いいだろう。売られた喧嘩は買うのが赤堤家の家訓だからね」
「五年付き合ってきたけど、そんな家訓一度も聞いたことないわよ」
「そりゃあ私から受け継いでいくたった今創った家訓だからね。それよりも、この不届き物をどう成敗してくれようか……」
「まだ表にしてみるまではわかりませんけどね」
なおも挑発的な態度を崩さない手水さん。
表にしてみるまでは分からない──シュレディンガーの猫というやつですね。この前ネットで知りました。
私に言わせるなら、猫をそんな危ないことに使うな!です。箱に閉じ込められる猫が可哀そうです。
まあ、あれは思考実験ですから、実際には行われていません。
だから箱に閉じ込められた猫なんてそもそもいないのですけれど、それでも!愛猫家である私にしてみれば、猫が命の危機にさらされると想像するだけでも嫌なのです。
猫っていいですよね。見ているだけで癒やされます。
そうそう、この前念願の猫カフェなる店へ行ってみたのですが、なんと言えばいいでしょうか、的確に伝える言葉が私の語彙にありませんが、それでも頑張って簡潔に表現するならば、パラダイスでした!
まず一匹や二匹だけではなく、たくさん猫がいるんですよ!どこに目をやっても一匹は必ず視界に入るくらい囲まれていて、まさに天国でした。しかも、人に慣れているので、猫ちゃんの方からこっちに来て撫でさせてくれるのです!あの毛並みの感触や温かい体温!一生──いや永遠に触っていたいです!ぜひともまた行きたい!うちでも猫を飼えたらと思うのですが、私一人では猫の世話はできないので、結局お兄ちゃんにも手伝ってもらうことになってしまうでしょう。お兄ちゃんの負担が増えてしまうと思うと、諦めるしかないんですよね。
あと、お兄ちゃんはどうやら犬派のようですので。絶対猫の方がいいですよ!確かに犬も可愛いと思います。ですが!やっぱり猫の方がいいですよ!気まぐれで気分屋なところとか!あの心地良い鳴き声とか!撫でたい!抱きしめたい!頬ずりしたい!肉球も触りたい!
盛り上がりました。ゴキブリポーカー。私の脳内もですけど。
皆さんが帰った後、赤堤さんからメッセージがきました。
『今日はありがとう。楽しんでくれた?』
……どう返しましょうか。お兄ちゃんとメールするときみたいな文章で送ったら馴れ馴れしいでしょうか?かといって堅苦しすぎても距離を置かれている感じが出てしまいますし。
……実際に赤堤さんと話したときのような感じでいいですよね。
『はい、すごく楽しかったです』
お、送っちゃいました。時候の挨拶みたいなのとか入れたほうが良かったのでしょうか?今から追加で送る……と会話の順序が滅茶苦茶になってしまいますよね。
そうこう悩んでいるうちに、返信が返ってきました。
『楽しんでもらえたようでなにより。明日もお楽しみに!』
テレビ番組の次回予告みたいですね。
明日も──ですか。これからもまたあの人達と過ごせるのだと思うと、無性に嬉しくなってきます。
スマホをサイドテーブルに置いて一息つくと、まだ早い時間にも関わらず、瞼が重くなってきていることに気がつきました。短い時間でしたが、遊び倒していたからでしょう。外出してもいないですし、昨日はそこまで夜更かししてもいないのですが、かなり疲労が溜まっています。
今、お兄ちゃんは夕食を作ってくれています。確か、オムライスだったはずです。
オムライスができるまで、少しだけ仮眠しましょう。さすがに眠いです。
まだ電気がつけっぱなしですけれど、消す気力も残っていません。
私はそっと目を閉じました。
4月22日(月) 猪口零人
やっと放課後になった。忌々しい退屈な授業からの開放。
号令が終わると伸びを一つし、カバンに手を掛けたところで手水に肩を叩かれた。
「猪口君、このあと暇?時間ある?」
今日は月曜日で、手芸部はない。
他に一緒に帰ったりするような奴もいない。
手芸部に入ってからは頻繁に一緒に帰ろうと手水が誘ってくるが、大抵は適当に理由をつけたり声を掛けられる前に帰ったりしている。だが、今日の言い回しはいつもと違う。別件だろうか。
「特に予定はない。強いて言うならば家に帰って惰眠を貪る予定がある」
「じゃあ帰りにどこか寄るから来て」
「どこかってどこだよ」
「どこでもいいけど、密談ができる場所」
「密談?」
「そう、密談。鬼山君は強制参加なんだけど、猪口君はどう?」
「鬼山は強制参加で俺は自由参加なのか?」
「うん。鬼山君がメインだし。脅し──じゃない、話はつけてあるから必ず来るよ」
脅し、ねえ……。不穏な気配がする。
「で、返答は?」
クソ。悪い癖だ。気になる。知りたいと思ってしまう。嫌だ。また──。
ただ、それを抜きにしても……。
「行くよ。脅されてる鬼山が心配だ」
そんなこんなで、俺達はカラオケボックスの中にいる。
「なんでわざわざカラオケなんだ。別にファミレスとかでも良かっただろ」
「ファミレスとかだと、まだ機密性が甘いかなって。ここなら防音だから」
「そんなに聞かれちゃまずい話なのか?」
「うん。早速本題に入っちゃおう。猪口君、雛ちゃんって分かるでしょ?同じクラスの千ヶ崎(ちがさき)雛(ひな)ちゃん」
「分かるけど、千ヶ崎がどうしたんだ?」
「そこの鬼山君がですね、なんと千ヶ崎ちゃんのことがラブだと発覚した次第なんですよ!」
「あー」
なるほど。恋バナか。
確かに、こんな話をファミレスとか、他の人の耳に入る場所でされたら、鬼山からしてみれば溜まったもんじゃない。
手水なりの気遣いだろうか。
ただまあ、手水のことだからきっと変なことを企んでいるのだろう。
「なあ鬼山。申し訳ないが、よりにもよってなんで手水に話すなんて馬鹿な真似したんだよ。碌なことにならないのは分かりきってるだろ?」
「ひどい言いようだなぁ」
「自覚なかったのか?」
「いや、あるんだけど……。とにかく、鬼山君は悪くないよ。私が勝手に見抜いただけだから」
「見抜いた?」
こいつ、案外そういうところには鋭いんだな。
「鬼山君を観察してたら簡単に分かったよ。特に目線とか露骨すぎるもん。私以外に気づいてる人がいても全然おかしくないよ」
「え、俺そんな分かりやすかった?」
鬼山が顔を赤らめながら尋ねる。
「うん」
「大丈夫じゃないか?少なくとも俺は分からなかった」
「そりゃあ、猪口君は鬼山君より前の席だからだよ。授業中とかしょっちゅう雛ちゃんのこと見てるからね」
「うわああ!そんなところまで見られてるの!?恥ずかしいんだけど!」
「そもそもなんで手水は鬼山を観察してたんだよ」
「鬼山君の席って私より前だし。授業中どうしても目に入るんだよね。まあ、乙女のセンサーを舐めちゃいけないってことだよ」
乙女……?
「猪口君、お前が乙女とか1億年と2千年早いって思ったでしょ」
「いや、乙女って言葉の使い方を間違えているんじゃないのかと思った」
「なんと失礼な。使い方はちゃんと合ってるよ。手水瞳イズ乙女。アーユーオーケー?」
「わかったから。話を続けてくれ」
「そもそも乙女って言葉の意味は──」
「そっちの話を続けろってことじゃない。会話の流れからわかるだろ。鬼山の方の話だ」
「ああ、そっちね。えーっとそれでね、鬼山君の恋路をサポートしようと思うんだよ」
「余計なお世話だよ……」
「まあまあ鬼山君そう言わずに。大船──そう、タイタニック号に乗ったつもりで頼りにしてよ!」
「それ最後は沈むぞ」
「手水製のタイタニック号は沈まないの!」
無茶苦茶だ……。
「そうだ手水、赤堤先輩はどうするんだ?頼りになるかどうかは別として、こういうの好きそうだが」
「あー。だめだめ。灯先輩は何をしでかすかわっかんないんだから。憂莉先輩を呼んだら灯先輩もセットで付いてきちゃうし」
「何をしでかすか読めないとかお前が言うのか」
「えー、というわけで、第一回鬼山君の告白サポート大作戦の会議を始めます!」
「て、手水。いくらなんでも告白は早すぎるって」
「なに弱気になっちゃってんのさ鬼山君。善は急げ。千ヶ崎ちゃんの彼氏の座は早いもの勝ちだよ?誰かに先越されちゃったらどうするのさ」
「いや、でもまだ早いっていうか、脈があるかどうかもまだ判断つかないし……」
「でも話したことはあるんだよね?」
「うん。中学の頃からよく話すし、仲は良いと思うんだけど……。振られたときのこととか考えると怖いし、やっぱりもう少し準備とかができてからでもいいんじゃないかなと」
静観するつもりでいたが、うだうだと煮え切らない鬼山に少し苛立ってきた。
「はっきり言わせてもらうが、お前、様子を見てるとか機会を伺ってるとか言い訳を用意して、先延ばしにして、逃げてるだけじゃないか?高校で知り合いが増えて、千ヶ崎も同じ部活の人とか、クラスで親しい奴とかと遊びに行く機会が増える。それで、お前とは疎遠になるかもしれない。クラス替えでお前と千ヶ崎が別のクラスになったりすると接点が完全に無くなりかねない。そうなった状態で、お前のことを好きになると思うか?」
先延ばしにして、逃げている。それは俺にも当てはまることだ。
どの口が、と心のどこかで声がする。
「……」
「そうなったら、お前にチャンスは無い。このまま日和ってると、何も進展しないまま卒業するぞ」
はっきり言い過ぎたかもしれない──と後悔しながら鬼山の顔色を窺った。
「ありがとう猪口。俺、腹括ってみるよ。二人とも、告白、手伝ってくれないかな?」
吹っ切れたようにやる気に満ちている顔だ。いきなり告白することに対して前向きになりすぎだろ。
あまりの変わりように若干引いてしまっている自分がいる。いや、そういう風に言ったのは俺なのだが、ここまでは求めていなかったというか……。
勢いに任せて言ってしまったが、果たしてこれで良かったのだろうか?
「ええーっと、まずは告白の方法を決めようか。とりあえず今パッと出てきたのは直接伝えるか、手紙で伝えるか、あと電話とかメールで伝えるとかだけど。猪口君はどれが良いと思う?」
「別にどれでもいいんじゃないか?」
「もー。ちゃんと考えてよ」
「……どちらかと言えば直接の方が良いと思う」
「鬼山君はどうしたいの?」
「俺は直接言いたい。やっぱり、こういうのはぎこちなくても面と向かって言わないとだめだと思う」
おお、男らしいじゃないか。
「じゃあ決まり。あとの問題はいつ、どこで告白するかだね。まさか休み時間にクラスの皆が見てる前で告白するってわけにもいかないし」
「うわあ。それ想像したら急に怖くなってきた」
「猪口君はどう思う?」
「また俺に振るのかよ。手水はどうなんだ?」
「私は猪口君の意見を聞いてからで」
なぜ俺の意見を聞いてからがいいんだと問いたいところだが、誰が先に言うかなんて大した問題ではないし、そこまで気にすることでもないか。
「……定番のパターンだと、あれだな。放課後に校舎裏とかの人気のない場所に呼び出して──」
「押し倒すんだね!」
「違う。そんな定番があってたまるか。鬼山もなんでちょっと顔赤くして挙動不審になってるんだよ。初心な女子か」
「まあ、押し倒すかどうかは別として、私も猪口君が言ったことに賛成かな」
「でも、猪口。自分が相手の立場だったらって考えると、人気のない所に自分だけ呼び出されるのって、ちょっと怖くないか?女の子ならなおさら」
確かに、俺も呼び出される立場だったら少なからず警戒はするだろう。
「もっともだな」
「でも、あれじゃない?親しい間柄なら大丈夫なんじゃない?」
「一緒に帰ろうって誘えばいいんじゃないか?」
我ながら良いアイディアじゃないだろうか。これならば、特に警戒されることはないだろうし、二人きりになれる。完璧とまで言ってもいいんじゃないだろうか。
……気づけば積極的に案を出し始めている自分がいる。
「いや、千ヶ崎さんとは家の方向が全く違うから、難しいと思う」
まず帰る方向が同じだという前提が間違っていたわけだ。簡単に否定されてしまった。誰だよ完璧とまで言っていいかもしれないとか思ってた奴は。……俺だよ。
それから議論は行き詰まり、結局、新しい案は出なかった。
「もう最初に言ってたのでいいんじゃない?適当なタイミングでこっそり話しかけて呼び出せば。カラオケとか行こうぜ。ウェーイって」
「大分適当になってきてないか?飽きてるだろ、お前」
「もうさ、千ヶ崎さんが来なかったら、また別の作戦を考えれば良くない?」
「それもそうだな」
俺達の力ではこのあたりが限界のようだ。
「鬼山君、あとはなるようになれだよ。なんくるないさのケセラセラだよ」
「じゃあ鬼山、あとは頑張れよ。なんか中途半端で最終的にはお前に丸投げみたいになるけど」
「いや、ありがとう。猪口のおかげで勇気を出してみようと思えた」
「そうか……。まあ、力になれたのならよかったよ」
「鬼山君、私には?」
恩着せがましいな、こいつ。
「手水もありがとう」
「あ、鬼山君、質問いい?」
「何?」
「千ヶ崎ちゃんのどこが好きなの?あと、意識し始めたきっかけとか!」
こいつ、また好奇心が暴走している。
鬼山もまんざらでもない様子で答える。
「なんだろう、はっきりしたきっかけとかはないんだけど、中二ぐらいの時には、気づいたら好きだったと思う。優しいし、かわいいし」
「おー、二年かぁ!思ったより長いね!いいよいいよ!そういう話もっと聞かせて!」
「でもこれ以上は恥ずかしいし……」
と言っている鬼山だが、少し押せば簡単に口を割りそうな反応だ。
既視感を感じる。いつかこんな感じのやり取りを見ていた気がする。
雰囲気も今と似ていたような……。いつだっただろうか。
──ああ、思い出した。修学旅行の日の夜だ。
好きな人は誰だとか、なぜか妙にそんな話をしたくなって、盛り上がる。懐かしい思い出だ。桜幕高校での修学旅行はいつの予定だったか。
「本題が終わったんなら、俺はもう帰る」
「えー、もう帰っちゃうの?そうだ、せっかくカラオケに来たんだからなにか歌おうよ。時間もまだあるしさ。猪口君、歌いたい曲ある?」
「歌いたい曲と言われても……」
どういう曲を選んだらいいんだ?
皆が知ってる曲がいいよな。なおかつあまり難しくなく、俺でも歌える曲。
「なに歌えばいいんだか見当がつかない」
「猪口はカラオケ初めて?」
「そうだな。カラオケにはここ十五年程行ってない」
「猪口君、好きな曲は?」
「好きな曲……。特にない」
「えー。なんでカラオケに来たのさ」
「密談しに来たんだよ」
「あ、そうだったね」
二人に色々教えられ、人生初カラオケを経験した俺だが、まさか自分の歌唱力をこうも正確な数値でまざまざと見せつけられるとは思わなかった。
絶望的なまでではない。手水も鬼山もそう言っていた。慰めではないと思いたいが、とりあえず、今後カラオケに行くことは──仮に行ったとしても歌うことは控えようと思った。
時間の延長もしたし、結局かなり長い時間過ごしてしまった。
外に出ると、もう東の空が暗くなり始めていて、少し欠けたほとんど満月のような月が顔を出していた。
4月23日(火) 鬼山芹菜
私は現在十三歳ですから、この春で肩書としては中学二年生になりました。
不登校になってから長いので、近年は学年というものに対して関心も実感も湧いてこなくなってしまいました。
中学は留年がないので、あと二年生きているだけで勝手に卒業になります。
高校には行かないつもりです。もし行こうとしたら、入学できるんでしょうか。自慢じゃありませんが、私はとんでもない欠席日数を誇っていますから。
おじいちゃんとおばあちゃんは、高校にも行かせてくれると言ってくれてはいますが、どうせ入学したとしても不登校になるのは変わらないでしょうし、高校の場合は中学と違い欠席日数が多いと進級できません。私は卒業できないでしょうね。
無駄にお金を使うことになってしまいますし、行く意味がないです。
それでも勉強をしているのは、一般教養くらいは身につけなければという思いがあるからです。それに、ずっと家に居るのは、何もすることがなくて案外退屈なのです。暇だなと感じたりすると、とりあえず勉強をしています。
今は数学のドリルをやっています。勉強する科目はその時その時の気分で決めていますが、頻度が多いのは一番の得意科目である数学です。数学なら同学年の学校に通っている人と同じくらいの学力はあると自負しています。
ちなみに苦手教科は体育です。そもそも自力で立てないですから。
「ただいま」
お兄ちゃんが部屋に入ってきました。
玄関の開閉音がすれば気づくとは思うのですが、いつの間に帰ったのでしょうか。気づきませんでした。ですが、それだけ集中していたということは、良いことだと言えます。
「おかえりなさい」
キリも良いので、勉強を終わりにして片付けをしながらそう返した時、お兄ちゃんがの表情がニヤニヤと綻んでいることに気づきました。なかなか見ない表情です。一体どうしたのでしょうか。いいことがあったのでしょうが、全く見当がつきません。
「なにかあったの?」
「え?」
なんでそんなことを訊くのかといった風に、きょとんとした目で見つめてきます。無意識のうちに喜びが溢れてしまっていたということなのでしょう。
「すごくニヤニヤしてるよ」
そう言うと、お兄ちゃんは照れくさそうに頭を掻きました。
「そうだ芹菜、聞いてくれよ」
「うん」
「千ヶ崎さんと付き合うことになったんだ!」
……えーっと、唐突すぎて、そして気になることも多すぎて、何から言えばいいのか整理がつきません。
ですが、この場合まずはお祝いの言葉からですよね。
「おめでとう、お兄ちゃん」
「ありがとう」
より一層、お兄ちゃんのニヤニヤが露骨になりました。
──虚しい。
お兄ちゃんの眩しい笑顔を見て、喜びの中にそんな感情が一瞬湧きました。
なにに対してそう思ったのでしょうか?わかりません。
なぜそんな暗い感情が混じったのでしょうか?わかりません。嫉妬とかであれば、まだ理解できるのですが。……気にしないでおきましょう。考えないでおきましょう。今はただ、お兄ちゃんの幸せを喜びましょう。
さて、訊きたいことはいろいろあるのですが……。
千ヶ崎さんのことは、お兄ちゃんが度々話していたので、性格だったりどんな趣味を持っているのかくらいは知っていますが、お兄ちゃんが千ヶ崎さんのことを好きだという風には思いませんでしたし、比較的仲の良いただの友達だという認識でした。
それでも、よく思い返せば、お兄ちゃんが千ヶ崎さんのことを意識しているような素振りは何度かあったようにも思えます。それはあくまで『見方によってはそう見えなくもない』程度ではあるのですが。
そういえば、千ヶ崎さんの容姿はどんな姿なのでしょうか。
私が覚えている限りでは、お兄ちゃんが千ヶ崎さんの容姿について言及することはありませんでした。なので、私は今までぼやーっとした千ヶ崎さん像を勝手に作り上げて脳内補完していましたが、この際です。どんなお姿なのかこの目で確認しましょう。
「千ヶ崎さんの写真ある?どんな人なのかちょっと気になる」
「ああ、うん。あるよ」
と、スマホをポケットから取り出して、操作し始めました。
「はい。右に写ってる人」
差し出されたスマホを受け取ります。
中学の卒業式で撮られた自撮り写真のようです。
画面の端に卒業式と行書で大きく書かれた看板が門に立てかけられています。そして、その横に笑顔のお兄ちゃんとツーショットで写っている女生徒が千ヶ崎さんでしょう。大人しそうな人といったような印象を受けました。
「へー、お兄ちゃんってこういう人がタイプなんだ」
からかうように言うと、お兄ちゃんは耳を赤くして私からスマホを奪い取り、ポケットにしまいました。
「夕飯作ってくるから」
とだけ言い残して、お兄ちゃんはそそくさと部屋を出て行きました。いつもなら、夕飯は何がいいかとか訊いてくるんですが。
恥ずかしくて、早く立ち去りたかったのでしょうね。
……お兄ちゃんがどこか遠くに行ってしまったような気分になりました。それは多分、お兄ちゃんは周りと同じように未来へと歩みを進めているだけで、私がこの部屋の中でずっと止まったままでいるだけなのでしょう。
──きっと、目を背けていたのでしょう。認めたくなかったのでしょう。自分の無価値さに向き合うことが怖くて、ずっと考えないようにしていたのでしょう。自分の将来のこと──お兄ちゃんの将来のこと──自分の生きている意味。
お兄ちゃんも恋人との時間を優先したいはずです。
……嫌でも浮き彫りになってきてしまいます。私がお兄ちゃんの枷になって、お兄ちゃんの自由を奪っていることが。歩くことができず、ほとんど寝たきりで何も生み出せない私は、お兄ちゃんにとって不要で、邪魔な存在なのです。
脚が治ることはないですし、この先もずっと、それは変らないのでしょう。
ただベッドの上で働くこともできず、家事もできず。そのまま歳を重ねて、一生を終えるのでしょう。
おじいちゃんもおばあちゃんもいなくなってしまったら、もっとお兄ちゃんに迷惑がかかるでしょう。
お兄ちゃんが将来就職して、結婚して、子供が生まれても、私という邪魔者の世話をしながら生きていくのでしょう。
お兄ちゃんには、幸せになってほしいのに。
ああ、そうだ。
──だったら、いっそ死んでしまえば。
私が死ねば、もうお兄ちゃんに迷惑がかからないで済むのではないでしょうか。
考えれば考えるほど、それが唯一で一番の正解だと思えてきます。
……できることなら、幸せに生きたかったです。
普通に歩いて、普通に学校に行って、皆と同じ教室で勉強をして、部活で汗を流して、友達と流行りのスイーツを食べたり、恋をしたり──。
ですが、それはもう叶わないのです。
本当は生きていたい。でも、そんなわがままはもう言えません。これまで、散々私が生きるために、皆に迷惑を掛けてきたのですから。だから、せめて迷惑をこれ以上かけないように。お兄ちゃんのためであれば、喜んで死ねます。
そういえば、ハサミがあったなと、私は棚の中にしまってあったハサミを取り出しました。
最近ハサミを使う機会はめっきりなくなっていたので、刃が錆びていたりしないかと思いましたが、どうやら錆びていないようです。
それでもやはり死は怖いもので、手が小刻みに震えだしてしまいます。その震えが全身に伝播するように、私の身体を包みました。
震える手で刃先を手首に当てると、どんどん呼吸が荒くなっていきて、熱くもないのに汗が出ます。
一思いに手首を切ってしまおうとハサミに力を込めたその時でした。
「何やってんだ!」
そう聞こえたのと同時に、手に持っていたハサミがはたかれ、床に落ちました。
「怪我は!?」
ものすごい剣幕で怒鳴られました。思わず身が竦み、何が起こったか状況が理解できないまま反射的に答えます。
「ない……」
お兄ちゃんの顔に安堵が浮かびましたが、すぐにまた険しい顔つきに戻りました。
「危ないだろ!どうしてあんなことしたんだ!」
「死のうと思って……」
「死ぬって、なんで……」
「だって、私が生きてたらお兄ちゃんに迷惑がかかるから……。一人じゃ何もできないし、お兄ちゃんにも、何も返せないから……」
「ふざけるな!」
強く、両肩を掴まれました。
お兄ちゃんと目が合いました。お兄ちゃんの目は、真っすぐ刺すように私を見つめていました。
「迷惑なわけなわけあるか!確かに大変だけど、迷惑だなんて思ったことは一度もない!」
「でも、お兄ちゃんの負担になってることは変わらないし……」
「いいんだよ、それで。芹菜は俺の大切な家族なんだ。迷惑でも、負担になっても構わない」
お兄ちゃんは、私を強く抱きしめて言いました。
「だから、死ぬなんて考えないでくれ。もう、これ以上家族を失いたくないんだ」
どうして思い至らなかったのでしょうか。家族を失うことの悲しみを、私も知っているというのに。あまりにも軽率でした。
「ごめんなさい……。ごめんなさい、お兄ちゃん……」
涙と言葉が溢れ出しました。
お兄ちゃんの胸の中で泣いて、泣いて、泣いて。
いつのまにか、私は眠りについていました。
4月24日(水) 鬼山芹菜
あれから、私には何ができるかを私なりにいろいろ考えてみました。ですが、考えても考えても、できないことばかりが見つかるだけでした。
いなくなってしまえたら、消えてしまえたなら、どれだけ楽なのでしょうか。ですが、私にはそれが許されていません。
しかし、このままお兄ちゃんやおじいちゃんおばあちゃんに甘えたまま生きていけるほど、図太くはありません。私に生きていてほしいと言ったお兄ちゃんのあの言葉が、呪いのように、私を縛り付けます。
お兄ちゃんのためにできることはなにか。結局、分かりませんでした。ですが、きっとあるはずです。今は見つけられなくても、今はできなくとも──きっと。
そして、たとえ一つもなくたって、私はあると信じてそれを探さなければならないのです。私の為ではなく、私を生かしてくれている人達に何かを返せるように。
というわけで、手当たり次第にいろいろ試してみようと思うのです。もしかしたら、隠れた意外な才能が発掘されるかもしれません。
花嫁修業ではなく、妹修業といったところでしょうか。少なくとも、だらだらとスマホをいじっているよりかは建設的です。
生きる目的が決まり、私は以前より前向きに、今日を生きていこうと思うのでした。
4月23日(火) 手水瞳
猪口君のことが好きだ。猪口君のことが好きだ。猪口君のことが大好きだ。
きっかけとかは、特にない。入学式の日に初めて猪口君のことを知ったけど、その時はまだ特に意識して……たかもしれない。
うん。なんかちょっとかっこいいなとか、タイプかもとか思ってた。けどそれは、ここまで熱烈に好きだというほどの気持ちじゃなかった。
そのころは入学してほんとにすぐだったし、知らない人が多くて、人間関係とかも一からスタートするみたいだった。
この三年間こそは青春するぞって思って、友達をつくることに精一杯だったから、同じクラスのちょっと気になった男の子と仲良くなろうとする余裕なんてなかった。
だから、猪口君と同じ部活だって知ったときは嬉しくて、態度に出さないようにするのが大変だった。
猪口君と帰りにどこかへ寄って仲良くなりたいなって思ったまでは良かったんだけど、はしゃぎすぎちゃって猪口君を怒らせてしまったときは、どうしていいのか分からなくって泣きそうになった。猪口君目的で次の日も灯先輩の家に行ったけど、猪口君に嫌われてたらどうしようとか、顔を合わせづらいなとか、いろいろ不安だった。
──とにかく!
いろいろあったけど、嫌われてはないと思うし、距離も縮まってきたと思う。彼と話したりしているうちに、どんどん彼のことが好きになってきた。
でもどこが好きなのかっていうのは、正直なところよくわからない。
不愛想だし考えてることがよくわからないし。でもどういうところがっていうことじゃなくて、彼のどれもこれもを全部をひっくるめて『好き』なんだと思う。好きになったきっかけはドラマチックでもないしロマンチックなわけでもない。でも、猪口君が好きだというこの気持ちは、私の本心だ。
放課後になった。
今日告白すると意気込んでいた鬼山君が気になって、いつも以上に授業に身が入らなかった。鬼山君を朝からずっと観察してたけど、まだ雛ちゃんと接触した様子はない。鬼山君に覚悟を決めろと目で伝える。鬼山君と目が合った。
鬼山君は目を閉じて深く息を吸って、吐いた。
私は猪口君のところまで行って、鬼山君が雛ちゃんと一緒に教室を出ていくのを見守った。第一関門突破。とりあえず大丈夫そうかな。あとは告白して結果がどうなるか。
どうか上手くいきますように。
心の中で祈った。
と、その時ジャージを着た『ヤツ』が教室に襲来した。
「手水ー!手水はいるかー!」
「うわ、ついに教室にまで……」
大声で呼ばれる私の名前。まばらに残っている生徒の視線が私に吸い寄せられる。
咄嗟に机の陰に隠れて、体を丸める。
幸い『ヤツ』は後ろのドアから入ってきた。猪口君の席は前の方だし、気づかれていない。
何をしているんだと呆れたように私を見つめる猪口君に、言わないでと人差し指を口に当てて伝える。
「手水ならもう帰りましたよ」
「む。そうか、ありがとう」
そう言い残し、『ヤツ』は教室から去って行く。猪口君の一言で難を逃れた。
「ありがとう猪口君」
廊下を確認する。放課後すぐなので、廊下には多くの生徒がたむろしていた。その中にジャージを着た人物が背を向けて歩いていくのが見えた。安堵して、ため息を漏らす。
「なあ手水、あれって確か体育の……。えっと、なんだっけ」
「友利(ともり)陽太(ようた)先生。陸上部の顧問もしてる」
ちなみに、学生時代はそこそこ名の知れた長距離の選手だったらしい。
無尽蔵の疲れを知らない走りから『不死鳥の友利』とか、『フェニックス友利』なんて謳われていたとか。そういうかっこいい二つ名にはちょっと憧れる。
「で、なんでお前を呼んでるんだ?」
「……ちょっと込み入った事情がありまして」
「さてはお前、なにかやらかしたな?」
「なにもやらかしてない!」
「じゃあなんでお前を探してたんだ?」
「陸上部に入れって熱烈に誘われてる。保留するって言ったはずなんだけどね」
……反射的に答えてしまった。あまり話題にしたいことじゃないけど、今更この話を強引に切ることもためらわれた。
「保留した結論を今聞きに来たんじゃないか?というか、わざわざ勧誘しに来るってことは、お前もしかして足速いのか?」
「うん。まあそれなりに」
「そういえば──」
「どうしたの?」
「ああいや、確かにあの時、お前走るの速かったなと思ったっていうだけだ」
「あの時?」
「鬼山を尾行してたとき、駅まで走っただろ?」
「あー、あのときね」
灯先輩達と二手に分かれた時だ。鬼山君達が駅に着いてしまい、走って駅まで向かった。
先輩達が離脱したおかげで猪口君と二人きりになれたんだけど、多分、あれも灯先輩が気を回してくれたんだと思う。私が猪口君を好きだっていうことをあの人は分かってる。多分だけど。
あの時だけじゃなく、私と猪口君を二人きりにすることを狙っているような言動がしばしば見られる。ありがたやー。
「実は走るのはあんまり得意じゃなくて、砲丸投げが専門なんだよ。中学生の時全国一になったことがある」
「嘘だろ!?お前そんなにすごい奴だったのか!?」
あれ、一瞬でバレる冗談のつもりなんだけど、思いのほか信じてくれてるみたい。
ようし。面白いからこのまま嘘を吐き通してみよう
「陸上って一括りにしても、幅跳びとか高跳びとか、種目はいろいろあるからね」
「砲丸投げって、筋肉モリモリのマッチョマンがやってるイメージだが」
「うん。そうだね。砲丸投げは筋肉勝負と言っても過言じゃないからね」
「そういう風には見えなかったが、もしかしてお前、隠れマッチョだったりするのか?」
「触って確かめてみる?胸とかお尻のあたりの筋肉がオススメだよ」
ボディービルダーがやっているようなポーズをとってみる。
半分くらいは冗談のつもりで言ったけど、猪口君なら別に触ってくれてもいいんだぜ?ウェルカム!
「触らねえよ!」
恥ずかしそうに目を逸らす猪口君に、少し萌えた。
「まあ実を言うと専門は長距離なんだけどね。ちなみに全国一位も獲ったことない」
「嘘だったのか……」
「砲丸投げはねー。一回試しにチャレンジしてみたんだけど、重すぎて駄目だった。持つだけでも大変で、とても投げられたもんじゃなかったよ」
「でも長距離は速いんだろ?高校では陸上やらないのか?」
あー。一番訊かれてほしくないことを質問された。
どう答えたらいいんだろう。自分の中でもまだ整理できてない部分もあって、もし話すとしても、上手く答えられそうにもない。
「……そろそろ帰るか」
私が答えづらそうにしていたのに気づいてなのか、猪口君はリュックを背負い、近くのドアへ歩いていった。
後を追うようにして教室を出る。
廊下には、さっきよりやや人が減っていたけど、それでもまだ賑わいが残っていた。
私が口を開くでもなく、猪口君が突っ込んで訊いてくるでもなく、お互いに無言のまま階段を降りていった。気まずい沈黙だけど、好きな人の隣を歩いているせいで、だんだん沈黙が心地良く感じてきた。
それでもやっぱり気まずさは完全に消えることがなくて、心の中がそわそわしたりむずむずしたり、いろんな気持ちが私の内側で複雑に絡み合って──ああ、なんか私、青春してるなぁ。
嬉しいとか悲しいとか、そういったので一色に染まるんじゃなくて──。
一言どころか、言葉で表現するのも難しい複雑な気持ち。こういう気持ちを持てるのって、学生である今だけなんじゃないかなぁって思う。
下駄箱に着いたあたりで、猪口君が口を開く。
「二人とも、もう帰ったみたいだな」
見ると、雛ちゃんのとこにも鬼山君のとこにも上履きが置いてある。
「うん。きっと上手くいくよ」
そうだといいな、とぶっきらぼうに言う猪口君。
ふとグラウンドを見ると、既に部活の準備を始めている生徒が数人見えた。その中には、ジャージを着て準備運動をしている陸上部らしき生徒の姿もあった。
懐古なのか、嫉妬なのか、憧れなのか、後悔なのか、それともまた別の何かなのか。私はその姿に見入っていた。
「どうした?」
猪口君に声を掛けられて我に返る。
「あ、いや、何でもない」
慌てて靴を履き替えて猪口君を追いかけるように少し速度を上げて歩いた。
特に話すこともないまま歩き続ける。
何をするでもなく、ただ歩くだけ。
歩調を合わせて歩くだけで、肌が触れ合っているわけでもないのに、猪口君の温もりみたいなものを感じる気がする。
空はいつの間にかオレンジ色になってきていて、まだ夜の時間があるというのに、もう一日の終わりがすぐそこまで迫ってきているような気分になる。
不思議とこの時間がとても新鮮に感じた。
ああ、そうだ。中学のときは部活があったから、こんな早い時間に帰ることは稀だったし、誰かと一緒に帰るなんてこともなかった。
『走ることはやめたの?あんなに大好きだったじゃん』
心の中にいる中学の頃の私が囁いた。
「猪口君」
またな、と別方向に歩き出す彼を呼び止めた。
何かをしてもらおうと思ったわけでもなく。ただ、誰かに聞いて欲しかった。話したかった。それで、猪口君になら話してもいいかなって思った。
このことを自分から話すことになるとは思わなかった。
自分でもどう向き合ったらいいのか、どう割り切ったらいいのか、どう整理をつけたらいいのかもわからない。
そんな状態だけど──もしかしたらそんな状態だからこそ、誰かに聞いてもらいたかった。
「ん、どうした?」
猪口君と視線が合う。咄嗟に私は目を逸らした。
呼び止めはしたけど、まだそれを言う覚悟ができていなかった。
「……なにも用がないんだったら帰るぞ」
「待って!」
彼を呼び止めた。
「私さ、昔から運動とか、体を動かすのが好きなんだ。特に走るのが大好きで、だから中学は陸上部に入ったんだ。いい記録を出したら嬉しかったし、走ること自体楽しかったし。でも、私、周りよりやる気があったみたいで、そのせいで温度差みたいなのができて、孤立しちゃって。いじめられてるってわけじゃなかったんだけど、浮いてる感じになって。朝練はいつも私しか来なくって。でも、走るのは好きだから高校でも陸上部に入ろうって思ってたんだけど、中学みたいに周りと溝ができたら嫌だって思った。それで、なんとなく手芸部に入ってみたら、結構楽しくって。中学はあんまり友達ができなかったから、皆と仲良くなれて嬉しかったし、このままでいいかなって思ってたんだけど、やっぱり走ることは好きいみたいで……。でも、陸上部に入ってまた周りと上手くいかなかったらどうしようって不安で……」
言いたいことは、全部言えた気がする。けど、これだと突然自分語りしてる変なやつに見えてしまうと思って(実際その通りではある)、相談という体にしようと思い、一言付け足した。
「どうしたらいいと思う?」
「なんで俺なんだ?なんというか、お前にとってかなり重要なことだろ?それ」
「……なんとなく、かな?たまたま言いたくなっただけ」
「なんとなくで言うか?そういうの」
「本当だって」
「じゃあそういうことでいい。……で、お前がどうしたらいいかっていうのは、俺には分からない。そういうのはお前が考えることだと思うし、どうするのかもお前の勝手だと思う」
猪口君の返答に期待していたわけじゃないけど、手芸部に引き留めてほしかったと感じている自分がいる。
「……そうだね。自分で考えてみる」
「俺は──」
じゃあね、と言って立ち去ろうとしたのを、猪口君が遮った。彼は口を少し動かした後、目を逸らしながら言った。
「俺個人の意見としては、手芸部を選んでほしい。お前がいないと、寂しくなる。俺、結構気に入ってるんだ。手芸部のこと」
よく見ると猪口君の耳が赤くなっている。それを見て、より一層、猪口君のことが好きになった。
ちょろいなあ、私。
「ふーん。猪口君がそこまで言うなら、考えてあげなくもないよ」
「どうも」
「じゃあ、また明日ね!」
「ん。また明日」
まだなにも解決してはいないし、なにも進展してはいないけれども、少しスッキリした。
──妙に清々しい。
スキップをしたくなるような良い気分。
近道になるこの路地は人目もないし、本当に鼻歌を歌いながら軽やかにスキップをしてもいいかもしれない。
そう考えながら歩いていると、前方からこちらに向かうようにして歩いてくる一人の女の子が目に入った。
見た感じ中学生くらい。この辺でよく見かける制服だ。かわいい。
ちらちらとこっちを伺って、私のことを怖がって警戒しているように見える。
私と目が合うとその子は慌てて目を伏せた。
私、何かおかしな格好してるかな?そうじゃなければ、ひょっとして知り合いかな?……でもこんな子と知り合った覚えはないしなぁ。
二人の距離が縮まってきたところで、ちょっと声をかけてみた。
「ねえ」
話しかけると、女の子は驚いたように俯いていた顔を上げた。
「な、なんですか!?」
私から二、三歩距離をとって、露骨に警戒心丸出しの表情をする。
私はそこまで警戒されるような強面ではないと思うんだけど……。
まずは怪しい者じゃないということをアピールしないと。
「大丈夫、安心して。怪しい者じゃないよ」
「十分怪しいです。それ以上近づいたら大声出しますよ」
「えぇ……。別に取って食おうってわけじゃないよ?」
「……それならそのまま手を頭の後ろに組んで回れ右をして十歩進んでください。そうしたら怪しくないと判断します」
なんの意味があってそんな回りくどいことをするんだろう。まあ、いっか。それで信用が得られるんだったら。
「うん。わかった」
私は言われた通りに手を頭の後ろに組んで回れ右をして十歩進んだ。
「はい。これで信用してくれる?……あ」
振り返ると、少女の姿はそこにはなく、少女は私に背を向けて走って逃げていた。
少女が立っていた場所には、薄い桃色のハンカチが落ちていた。
「待って!ハンカチ落としてるよ!」
逃げるのに夢中で聞こえていないのか、私が嘘を言っていると思ったのか、少女は止まる気配がない。
仕方ない。追いかけよう。
花の刺繍がついた白いハンカチを拾い上げて、手で軽くはたいてから走り出す。
よーいドン!
曲がり角のない直線。距離は着実に縮まっていく。足音を聞いて、彼女が後ろを振り返った。
「噓!?」
それは私が追いかけてきたことに対してなのか、迫ってくるスピードが速かったことに対してなのか。とにかく私は後ろを見ている彼女にハンカチの存在を知らせるためにハンカチを掲げ、再び声をかける。
「ハンカチ落としたよー!」
「えっ?」
ようやく私の声が届いたようで、ハンカチを見た彼女は立ち止まる。けれど、車ほどじゃないにしろ、手水も急には止まれない。
私は速度を落として止まり切れることができずに彼女と衝突してしまった。
私が彼女に抱きつくような形になり、数歩よろめいて私達は地面に倒れこんだ。
押し倒したみたいになってる。いや、実際そうか。
こういうのって男女で起こるのが常だと思うんだけど。
「痛てて。ごめん、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です」
「ならよかった。はい、ハンカチ」
体を起こして手に持っているハンカチを渡す。
「ありがとうございます……」
少女にはまだ警戒の色がありありと浮かんでいる。
「私、そんなに警戒されるようなことした?」
怪訝そうな目で少女は答える。
「ニヤニヤした顔の人が向かいから歩いてきたら、誰でも警戒すると思いますけど」
ニヤニヤしてた?自分では全く気づかなかった……。
私も前からニヤニヤした人が歩いてきたらびっくりするし、少なからず警戒心を抱くことになると思うけど。
「その上逃げたらものすごい速さで追いかけられますし……」
愚痴をこぼすように少女が言う。
「それは落としたハンカチを届けるためで……」
「それは……。届けてくださったことには感謝しますけど……」
それでも原因は私の方にあると言いたげにこっちを見る。
「えっと、それじゃあ何かお詫びというか、何かしてほしいこととかある?なんでもっていうわけにはいかないけど。確かに元はと言えば私が悪いわけだし」
「それならパフェを要求します」
「え……。私そんな大層なものを作れるような料理スキルは持ち合わせてないよ?」
「違います。別に作ってほしいということではありません。喫茶店のパフェを食べたいということです」
「それはいいけど……。お幾ら?」
「八百円くらいですね」
パフェで八百円って、なかなか高めじゃないかな?どうなんだろう。相場がよく分からない。
中学時代は部活が終わるときには毎回くたくたで早く帰って休んでいたから、パフェとかを食べに行くことはなかったし、実はこう見えて休日はインドア派だからパフェを食べに行くために外出するとかもなかった。部活漬けだった中学時代の弊害だ。
「それくらいなら奢るよ」
現在私の懐に入ってるお金で賄える範囲だし、大丈夫。
彼女の行きつけだという喫茶店に入った。内装は私がイメージする『ザ・喫茶店』そのままだった。
オレンジがかった色の照明に、木で作ったように見える机や椅子。喫茶店に入るのは人生で初めてかもしれない。なんだかワクワクする。それと同時に、自分がいることが場違いな気がして落ち着かない。
彼女は案内された席に座るなりメニューも見ずにチョコレートパフェを注文し、私はせっかくだし普段飲まないものを頼もうと思って紅茶を注文してみた。
金銭的な理由から、私の分のパフェは注文したくない。
紅茶と一緒にテーブルに運ばれてきたチョコレートパフェは、値段相応にボリューミーだった。
「大丈夫?これ、ほんとに食べきれる?」
「はい。ご心配なく」
そう言いながら、彼女は異様に先が小さいスプーンでパフェを食べ始める。
紅茶を少しだけ飲んでみた。
うん。熱い。
「そういえば、名前はなんていうの?私は手水瞳」
「友(ゆう)です。友達の友と書いてユウと読みます。友と呼んでください」
「苗字は?」
「まだあなたのことは信用できないのでフルネームは教えられません。下の名前を教えてあげただけでもありがたいと思ってください」
「ここ、よく来るの?」
「はい」
「……友ちゃん、一つ相談いいかな?」
「なんですか?」
多分、猪口君に話したことで、言いたくないっていう気持ちが変わってきた、というか一回話しちゃったから、言いたくないっていう基準が今だけ緩くなってるんだと思う。
特に関わりのない友ちゃんになら、話してもいいかなと思った。それに、冷静になって他の人の意見とかを聞いてみたいなとも思った。
一から説明する関係上、少し時間が掛かった。
「……回りくどくて分かりづらいです。もっとわかりやすく話してください」
やっぱりこの子、思ったことをズバズバ言うタイプだ。
「つまり、手芸部と陸上部のどっちをとればいいのかなって」
「どっちもとればいいじゃないですか」
「どっちもって、それができないから相談してるんだよ……」
「まず、どっちもとれる方法をとことん探してみて、それでも無理だったら、自分がとりたい方をとればいいんですよ」
「どっちもとる方法……」
兼部は校則上できないらしいからなぁ。確か、一つの部活動に専念するためとか、そういう理由らしい。それに、そもそも入部届の提出期限が過ぎてるから陸上部には入れ……。
あれ?じゃあなんで大林先生は入部届の提出期限が過ぎてるのに、しかも私はもう既に手芸部に入部しているのに勧誘しにきたんだろう?
もしかしたら、期限が過ぎていても例外的に入部することや兼部も例外的にできるかもしれない。
ほら、私一応有望選手だし、特別待遇とか、そんな感じで兼部が許可されるみたいなことになるかもしれない。先生に相談してみるだけならタダだし、明日にでも言うだけ言ってみよう。
「ありがとう友ちゃん。なんか、いけそうな気がしてきた」
「お役に立てたのならばなによりです。……そうですね、追加の報酬を要求します。アドバイス料として」
「それなら今食べてるじゃん」
「これはさっき被害を受けた分の慰謝料ですから、アドバイス料とは別です」
友ちゃん、ちっちゃくて可愛らしい見た目してるけど、意外とがめついなぁ。
それにしても参ったな。これ以上の出費は避けたいとこなんだけど。
「あ、じゃあ私の連絡先が報酬ということで」
「いや、今のはただの冗談だったのですが」
よく分からない冗談だなぁ。
「まあせっかくですし、IDを教えてください」
自分のIDをペーパーナプキンに書いて渡す。
友ちゃんはパフェを食べる手を止めて、スマホを操作する。
パフェは、気づけばもうほんの少ししか残っていなかった。
カバンの中から通知音が鳴る。
スマホを取り出してアプリを開いてみると、某サッカーチームのストラップのアイコンをしたアカウントから、『よろしくおねがいします』とメッセージが来ていた。
「このストラップって、そのカバンについてるやつだよね?」
「はい。昔、兄に買ってもらったものです」
「へー、お兄ちゃんいるんだ。……昔に買ってもらったストラップをアイコンにするなんて、もしかして友ちゃんってブラコン?」
ちょっとからかってみる。
「……いえ、そういうわけではないです。適当に選んだアイコンですし」
淡白であんまり弄り甲斐がない反応だった。
「パフェも食べ終えましたし、そろそろ帰りましょう」
気づけば残り少なかったパフェは、綺麗さっぱりなくなっていた。
「そうだね」
私はぬるくなった紅茶を飲み干して、席を立つ。お会計を済ませ、店を出る。
空は明るさを失ってきていた。
「バイバイ。また会おうね」
「え、またですか?」
「うん、いつか」
「パフェをごちそうしてもらえるのであれば考えます」
「検討しておくよ」
「そうですか」
そんな感じで、友ちゃんと別れた。
中学の頃は、いつももっと遅い時間に帰っていた。
頑張って、頑張って、へとへとになりながら毎日帰っていたっけなと懐かしく思う。
──でも、どうしてだろう。
中学の頃には確かにあったもっと速く走ろうっていう燃え滾る熱意や情熱みたいなものが、今はすっかりなくなってしまっている。
自分の限界がなんとなく分かってしまったからだろうか。好きな人ができたからだろうか。周りと溝ができないように、無意識のうちに熱意を抑えてしまっているのだろうか。
どれも合ってるように思うけど、どこかしっくりこない。
中学の頃の私が、今の私とは全く別の人間みたいに思えてくる。
少ししか経っていないのに、どうして私はここまで変わってしまったんだろう。
知らない間に、自分が変わってしまっていることに、じわじわと這い寄ってくるような恐怖を感じる。一方で、変わってしまうのは自然なことなのだと受け入れてもいる。
なんだかおかしな感じだ。
だけど、やっぱり変わらないこともある。
走るのが好きだっていうこと。
それだけは、今も昔も変わっていないって確信できる。
私には、それだけで十分だ。
家に帰って、いつもみたいにお風呂に入って、夕食を食べて、ベッドでゴロゴロしたりして、寝た。
明日も良い一日になりますように。
4月24日(水)手水瞳
朝、職員室に行って早速大林先生に兼部のこと相談してみた。
結論から言うと、大成功だった。大林先生が校長先生に交渉して、特別に部活動届の期限の延長と、兼部の許可をもらってくれていた。だったらそうと話してくれればよかったのに……って、話そうとしなかったのは私か。……あと、なんというか、大林先生は私が陸上部に入部する気があると知ってかなり──失礼ながらドン引きしてしまうほど嬉しそうだった。
うちは部活が強くないから君が入って陸上部が強くなったら喜ばしいとか、最終的には全国へとか、そんなことを燃え盛る業火のように熱く語られた。
正直、大会とか賞とかにはそこまで興味ないし、楽しく走っていられれば満足なんだけど。
「そうか。よかったじゃないか」
教室に入るなり猪口君にそのことを伝えると、猪口君は嬉しそうな様子でもなく、興味なさげにそう言ったのだった。
昨日、耳を赤くして私に手芸部を選んでほしいと言った彼はどこへ行ってしまったのか。
「もー。嬉しくないの?」
「別に嬉しくないわけじゃない」
「じゃあもっと嬉しそうにしてくれてもいいんだよ?そうしたら私も『猪口君のために手芸部に残って良かったな』って思えるし」
「考えとく」
担任の先生が教室に入ってきたのを見て、そっけなく答える猪口君に対して頬を膨らませながら、席に着いた。
その日の放課後、友ちゃんにメッセージで何かお礼がしたいと伝えたら、パフェを奢ってほしいというので、ギリギリお金も余っていたこともあって、昨日と同じ喫茶店で待ち合わせた。
二日連続でパフェっていうのはさすがに重すぎると思うんだけど、友ちゃんがこれでいいと言っているから、これでいいんだろう。財布の中身もそろそろ本当にまずい一線を越えてしまいそうだけど、特に今後使う予定はないし、なんとかなるでしょ。
「それで、このパフェは何に対してのお礼ですか?」
運ばれてきたパフェを早速頬張りながら、友ちゃんが尋ねてきた。
「昨日のアドバイスのお礼。ダメ元で先生に兼部の相談をしてみたら、なんかいけちゃった。それも友ちゃんがどっちもとる方法をとことん探せって言ってくれたおかげだし、なにかお礼したいなーと思って」
そう話すと、不思議そうに友ちゃんは首を傾げた。
「兼部は禁止なんですよね?それが昨日の今日でよく通りましたね」
「うん。私も驚いたよ。顧問の先生がものすごく頑張ってくれたらしくて。私なんにもしてないけど。正直なところ、話が急すぎて私自身あんまり実感が湧いてないんだよね」
今までうじうじ悩んでいた自分がバカみたいに思えてくるほど拍子抜けで、笑ってしまう。
「よほどその顧問の人が頑張ったんでしょうね」
「ほんと頭が上がらないよ」
さっき、大林先生と話し合ってスケジュールを決めてきた。
金、土、日曜日は手芸部。月、水、木曜日が陸上部で、火曜日がどちらの部活も休みということになった。
大林先生は、スケジュールを決める上でも、手芸部にはできるだけ参加したいという私の要望を最大限尊重してくれた。それもこれも私にかかっている期待の大きさからのものだと思うと、大林先生と違う方向を向いていることに申し訳なく思う。が、とにかく今は陸上部のメンバーと上手くやれるかどうかだ。
上手くやれるかどうかだとか言っておいて、早速今日はサボっちゃったんだけど。
結論が出るのは一週間くらい。短くても2、3日はかかるだろうし、私も偉い人を説得したりとかするんだろうなと思っていたのに、あまりにも早く決まってしまったので、心の準備が全くできていなかった。
だから、今日は体育の授業もなかったし、体育着を持ってきていなかったという口実を使って(実際持ってきていなかったけど)今日は帰らせてもらった。
「友ちゃんは何部なの?」
「吹奏楽部です」
「吹奏楽かぁ。うん。納得した」
「何にですか?」
「友ちゃんを追っかけてたとき、走るフォームがぎこちないっていうか、走り慣れてない感じしてたから運動部じゃなさそうだなって」
「確かに運動は滅多にしてませんね。体力は使いますが」
「そうなの?」
「はい。楽器にもよりますが、主に心肺ですね。陸上部ほどじゃないと思いますが、かなり疲れます」
「へー。案外大変なんだね。楽器は何やってるの?」
「クラリネットです」
「クラリネットって、笛みたいなやつ?」
「笛……。まあざっくり言ってしまえばそれで合ってます」
クラリネットってどういう見た目だっけ、とスマホを開くと、灯先輩からメッセージが来ていることに気が付いた。
ゴールデンウィークの予定と称して、手芸部のグループにメッセージが入っていた。
予定を見ていくと、土曜日は灯先輩の家じゃなく、9時に桜幕駅集合になっている。
「どうかしましたか?」
「次の土曜日、駅で何かやるのかな?」
「次の土曜日というと、あの謎解きスタンプラリーじゃないですか?」
「謎解きスタンプラリー?」
「謎を解いてスタンプを集めるっていうイベントですよ。そこら中に宣伝のポスターが貼ってあるじゃないですか」
「ああ、あれね!」
最近、駅や商店街で同じような広告が多いなと思ってはいたけど、イベントの宣伝だったんだ。じっくり見ることがなかったから知らなかった。
謎解きスタンプラリーか。確かに灯先輩が好きそうなイベントだ。
「友ちゃんも参加するの?」
「はい。友人と一緒に。その日は他の予定も入っていないですし」
「じゃあスタンプラリー中に会えるかもね」
「そうですね。手水さんは手芸部の皆さんとですか?」
「うん、頑張ってくるから応援してて」
「スタンプラリーにそこまで情熱を燃やしてる人、初めて見ました」
「違う違う。私の恋路の方」
「ああ、手芸部に好きな方がいるんでしたね」
十二の市を巡るというイベントの規模からして、多分丸一日はかかる。
その間ずっと猪口君といられるのは、猪口君との距離を縮めるまたとない機会だ。距離を縮めるチャンス!土曜日が楽しみになってきた!
4月27日(土) 手水 瞳
そしてとうとう待ちに待ったこの日がやってきた。!休日が二分割された今年のゴールデンウィークの最初の日。イベント当日!
本日の手水、やや寝不気味。今日着ていく服を選んでいるうちに寝るのが遅くなってしまった。それに、こういう楽しみにしている日の前日って、どうしてこうもなかなか寝ることができないのだろうか。
「どう?猪口君」
Vネックのニットと黒のショートパンツを、私はこれ見よがしに見せつける。
「どうって、なにが?」
「私の服、かわいいでしょ」
「ファッションはよく分からん」
猪口君はそっけなく答える。
もー。せっかく頑張って悩みに悩みぬいて考えてきたのに『似合ってるよ』とか一言も褒めてくれない。
私とお母さんのセンスが悪いのかな?そんなはずはないと思うけど。
「猪口君はもう少しファッションに興味持った方がいいよ」
彼は毎日同じような味気ない服を着てくる。おしゃれしたらもっとカッコよくなるんだけどなぁ。
「さて、この前通達したように、今日は謎解きスタンプラリーイベント『電車で巡ろう!謎解きツアー』……みたいな正式名称だったっけ?そんな感じのイベントに参加します!ルールは簡単。謎を解いて謎が示す場所にあるスタンプを集める。ただそれだけ。スタンプがある場所はどれも駅の近くにあって、一つの市につき一個。計十二個集める。そして十二個のスタンプが押されているシートを駅員さんに見せれば福引ができる。本来は三日後までがイベント期間なんだけど、そんなに悠長にやってられないから期限は今日までにする。ちなみに福引の一等は温泉旅行らしいから、頑張って。それじゃあチーム分け発表―!」
「灯先輩、チームで分けるんですか?」
「うん。さすがにこの人数で一緒に行動するとなると多すぎるかなって。あと……」
と、灯先輩は私に意味深なウインクを飛ばしてきた。
あー、これはあれだ。やっぱり、灯先輩は私が猪口君のことが好きなのを分かっている。で、灯先輩は私と猪口君をペアにしようとしてるんだろう。
できるだけ周りには気づかれないようにしてるけど、やっぱりそういうのって周りの人からだと分かっちゃうのかな。鬼山君も雛ちゃんを好きなことがバレてるって思ってなかったみたいだし、気づかれないようにって難しいな。今回に限ってはそれが逆に功を奏したから良かったけど、灯先輩が毎回こんなに上手く気を遣ってくれるとも思えない。灯先輩は私みたいに他人のことに首を突っ込みたがる性格だから、変に首を突っ込まれてかき回されても困る。サポートはほどほどにしておいてほしい。
……猪口君は、私が彼のことを好きだってことに気づいてるのかな?私に脈はあるのかな?少なくとも、手芸部の初日よりかは嫌われてないと思うんだけど、彼はそういうのがなかなか表情に出ないから全く分からない。
だからこそ、表情に出た時のギャップに萌えるんだけど。
私が当事者だから見えなくなってるのかもしれない。この場合の灯先輩みたいに、私の恋を第三者から見たら、鬼山君のときみたいに簡単に分かるのかも。
「一チーム目は私と憂莉。二チーム目は猪口と手水」
予想通り、私と猪口君がペアだ。赤堤先輩には感謝してもしきれない。ありがとうございます!
私は心の中で拳を高々と突き上げた。猪口君と二人きり!これはもうデートだ!スタンプラリーデートだ!いやっほう!
「最後は鬼山兄妹ペア。スタンプを全部集めたら、ここに集合してね。私達よりも戻ってきたペアには、私からご褒美があるから」
「赤堤さん、ご褒美ってなんでしょうか?」
「それは私達に勝ってからのお楽しみ。ま、用意したご褒美が日の目を見ることは無いだろうけどね」
灯先輩、すごい自信だ。
「あまり遅くなっても困るから、スタンプがコンプリートできてなくても、七時にはここに戻ってくるように。それじゃあ、問題用紙兼スタンプを押すシートと一日乗車券を配るから、受け取ったら順次スタートしてね」
「あれ?赤堤先輩、シートは駅にいるイベントスタッフに貰うんじゃないんですか?」
と、鬼山君が質問した。
「実は私の両親がこのイベントの運営に携わっていてね。わざわざ列に並んでこれを貰うのが面倒だから、コネで何枚か用意してもらったのさ。一日乗車券もセットで。ただ、コネを使ったのはあくまでこれの入手だけで、それ以外はちゃんと公平だよ。私は謎の答えも知らないし、問題もまだ見てないから安心したまえ」
そう言って灯先輩はシートを一人一枚ずつ渡していく。
「手水」
赤堤先輩がシートを渡す時に小声で話しかけてきた。
「はい」
「私がこうして場を整えてやってるうちに進めとけよ?」
私達が卒業したらこういう機会も減るからな、という忠告も含んでいるように聞こえた。
もちろんですとも。
私は親指を立てて返した。
……三年の二人は、いつまで手芸部にいるんだろう。受験勉強もあるし、大体の運動部は夏あたりに引退するけど、二人はどうなんだろう。夏が来たら手芸部からいなくなってしまうのかな?それとも三月の卒業までいるのかな?二人が手芸部からいなくなったら、私達の関係はどうなってしまうんだろう。今より会う機会が減ってしまう気がする。灯先輩と憂莉先輩もだけど、鬼山君や芹菜ちゃん、そして、猪口君とも。もしかすると、クラス以外で接点がなくなるかもしれない。そのクラスも来年にはクラス替えがあって、猪口君と一緒のクラスになれるかどうか分からない。
残りの時間の少なさに、焦りを覚えた。
──早く告白しろ。
鬼山君相手に、猪口君はそんなことを言っていたけど、多分、今の私にも当てはまることだ。
ちょうど猪口君と一日中二人っきりになることだし、今日の内に告白する……?
でも、鬼山君の場合と違って私と猪口君は知り合ってそんなに時間が経ってないわけで……。
……そういうのも、猪口君は『逃げるな』とバッサリ切っていたんだっけ。
「おい、手水」
「え?あ、ごめん。何?」
猪口君は呆れたように小さくため息を吐いた。
「まずは桜幕市の謎から解くぞ」
「そうだね」
シートに書かれている桜幕市のスタンプの場所を示す謎を見る。
HKMG?PEZY
「HKMG……なんじゃこりゃ。猪口君は分かる?」
「……いや、全く」
「ちょっと難し過ぎない?」
「スマホとかでいろいろ調べることができるって考えると、多少難しくするのが妥当なのかもしれない」
それから数分、問題とにらめっこしていたけど、一向に答えにたどり着ける気配がしない。
「猪口君、諦めよう。私達の脳みそでは到底解ける謎じゃなかったんだよ」
「諦めるのが早過ぎるだろ。もっと頑張れよ」
「うーん。……閃いた、お寺だ!」
「どうせしょうもない答えが返ってくると思うけど一応聞くぞ。根拠はなんだ?」
「特にないかな」
「まあ、そんなところだろうと思った。もっとまじめに考えろよ」
「でも、それっぽくない?近くにお寺あるでしょ?」
「まあそうだが……。さすがに駅から近いってだけじゃ根拠が薄いな」
「だよねぇ……」
「いや待て、寺……。寺か……。行くぞ手水」
「ちょっと、猪口君まで適当にならないでよ。ボケは私一人で十分だって」
「適当でもボケでもない。本気で言ってる」
「お寺で合ってるってこと?」
「そうだ。歩きながら話す」
そう言って、猪口君はスタスタと歩き始める。この辺りならある程度は土地勘もあるし、スマホで地図を見るまでもない。
「この文字列は多分あれのことだと思うんだよ」
「あれって?」
「あれだよ。左から順にヘクト、キロ、メガ、ギガ」
「あ!スマホとかでよく見るやつ!」
「スマホ?……まあ、そうだな。データの容量とかでよく見るな。手水、ギガの次はテラで合ってるよな?」
「うん。テラバイトまで大きくなるのはなかなか見ないけど……。あ、そっか。だからお寺なんだ」
「そういうことだ」
歩き始めてものの数分で目的地に着いた。遠目からだと住職さん以外誰も見当たらず、勝手に入って大丈夫だったのかと若干怖くなったけど、中に入るとすぐにスタンプが置かれている台とカラフルな目立つ色合いの法被を着たスタッフの人を見つけて安心した。
ちなみにスタンプは御朱印のようなデザインだった。
駅に戻ると、ちょっと見ない間に大混雑になっていた。大半がイベント参加者だと思う。
「皆、見当たらないな」
猪口君に言われて駅の構内を見渡してみる。人が多くて隅々まで見れないけど、他の手芸部メンバーは見当たらなかった。
「次に近いのは隣の梅(ばい)鶯(おう)市か藤(ふじ)時(とき)鳥(どり)市だけど、どっちから行く?」
「恋々線は環状線だから、一周しなきゃいけない以上、どっちから行っても特に変わりはないと思うけどな」
「じゃあ梅鶯市からにしよう」
ホームに行くと、ちょうど電車が到着した。グッドタイミング。
やはりというべきかなんというべきか、祝日の朝だというのに車内は通勤ラッシュを彷彿とさせるくらいに多くの人で混雑していた。ぎゅうぎゅうの電車に乗り込んだ私と猪口君は密着状態──ドキドキのシチュエーション!まさに天国!猪口君の顔が近い!ああ私の心臓が爆音で暴れ回ってしまいそう!
夢のような状況を堪能しつつ、手すりに掴まって猪口君と一緒に梅鶯市の問題を確認する。
保健所-10+円=?
「またしても難解な謎がきたな」
いままでよりずっと近い距離で、猪口君の声が聞こえる。体温が上昇して、思考がうまくまとまらなくなってくる。
「ほ、保健所が答えかな?」
「安直すぎるだろ」
「うわっ!?」
不意に電車が揺れ、よろけてしまったのを猪口君が支えてくれた。ああダメだもうかっこよすぎる。惚れちゃいそう。いやもう既に惚れちゃってるんだけど。
電車が梅鶯市に入って最初の停車駅である笹鳴(ささなき)駅に到着した。ぎゅうぎゅうの車内に耐えかねて、私達はドアが開いた瞬間にたまらずに降りた。幸いドアの近くだったから楽に降りることができたけど、後からどんどん人が降りてきて大変だった。
ほっとしたような、もっと乗っていたかったような……。
ひとまず私達はホームのベンチに腰掛けて、改めて問題を見る。
十円?お金……銀行……?逆から読む……っていうのでもなさそう。うーん。相も変わらず分からない。
そのままベンチで十数分格闘するも、全く解ける気配がなかった。
「もういっそ手当たり次第にこの辺を歩いてみるか」
「そうだね。気分転換にもなるし」
適応にぶらぶらと歩いてみるけど、答えは出ない。
でも、信号待ちをしている時だった。クイズ番組とか見てるとしょっちゅう思うけど、閃きっていうのはいつ訪れるか分からない。今回みたいに、突然何のきっかけもなしに閃くこともある。何のきっかけもないのに閃けるんだったら最初から閃けよって思うけど、それは時の運なんだと思う。
「あ、わかったかもしれない」
私はズボンのポケットからスマホを取り出して、推理に確証を得るために検索をかける。
「合ってそうか?」
「うん。多分合ってる」
「まさか手水が役に立つとは思わなかった」
「ひどいなー。私そんなに頭悪くないよ?」
「で、答えはなんだ?」
「あれー?もしかして猪口君まだ解けないの?」
「お前に言われると無性に腹が立ってくるな」
「そんなに褒めなくてもいいよ」
「褒めてない」
「謎を解けたことは褒めてくれてもいいんじゃない?」
「……そうだな。それに関しては素直にすごいと思う」
「猪口君、保健所の地図記号はわかる?」
「わからないな。小学校の頃に地図記号を一通り覚えたことはあったけど、もうすっかり忘れてる」
「ふっふーん。私は勤勉だから保健所の地図記号くらい余裕で知っているのです」
「嘘つけ。どうせそれを今スマホで調べたんだろ?」
「正解。とにかく、保健所の地図記号は丸の中に十字らしいよ」
「それで?」
「それでもなにも、そこまで来たら答えは出たも同然だよ」
「保健所の地図記号から十字を引く?」
「うん」
「そしたら丸になる」
「うんうん。そこから?」
「円──丸をもう一つ足すのか?」
「そう!」
「二重丸?」
「ご名答。つまり二重丸になるわけだね。そして二重丸が示す場所といえば?」
「確か市役所……だったか?」
「そういうこと。どう?この推理合ってそうじゃない?」
「合ってるだろうな。他にそれっぽい案も浮かばないし、市役所に行くか」
スマホの地図アプリを開いて、梅鶯市の市役所の場所を調べる。
市役所は駅に近いし、これで合ってそうだけど、私達は市役所とは反対の方向に歩いて来てしまったみたいだ。
目的地に向かって歩みを進めると、しばらくして行列が目に入った。その列は市役所の中まで続いている。スタンプを押すために並んでいるんだろう。
「かなり並んでるな」
「だね」
スタンプを押すという簡単な作業をするだけだからか、列は非常にスピーディーに進んでいった。スタンプを押して笹鳴駅に戻り、できるだけ人が少ない場所まで移動して、電車を待ちつつ次の鶴松市の問題に取り組む。
Panda
Alligator
Rabbit
Koala
「パンダと……。ア、アリ、アリガトー?」
「アリガトーじゃない。アリゲーター。ワニのことだ」
「つまりパンダと、ワニと、ウサギと、コアラがいる場所──動物園とか?」
私の脳みそがすぐに思いつく範囲だとこれが限界だ。
動物園──この前猪口君と行ったばかりだけど、また行くことになるんだろうか。
「そう思って調べてみたが、鶴松市の動物園はどの駅からも遠い。だから答えは動物園じゃないと思うぞ」
「そっかぁ」
話しているうちに電車が到着した。
改札から一番離れている先頭車両──人が比較的少ない場所なのにも関わらず、ものすごい混み具合。鉄道会社はかなり儲かっているんだろうな。
そして再びやってきました。猪口君との密着チャンス!
……と胸を躍らせていた私だったけど、不覚にも後から乗車する人の波に押され、互いに離れてしまった。人が多く猪口君を視認することもできないし、身動きがとれない。猪口君を大声で呼ぶっていうのも他の人の迷惑になるし……。これは参った。
電車が発進したのとほぼ同時に、猪口君からのメッセージが届いた。
『新鶴松駅で降りる』
新鶴松駅は、名前の通り新しく(といっても十数年前)に造られた鶴松の駅で、駅の地下に飲食店がずらりと並ぶ地下街がある大きな駅だ。近くにはショッピングモールや映画館などの娯楽スポットもある、つまるところナウいヤング向けのチョベリグな街。猪口君は、そんな新鶴松にスタンプがあると当たりをつけているようだ。
『OK』
と返信し、つり革を掴んで再度問題の答えを考える。
パンダとワニとウサギとコアラ。
何を意味しているのかさっぱりわからない。共通点があるとすれば、哺乳類っていうことかな。……あれ、ワニって哺乳類だっけ?トカゲっぽいし爬虫類な気がしてきた。でも、全部哺乳類だとして、その共通点がなんだというんだろう。この問題も今までの問題と同じように、答えがスタンプのある場所を示してるんだろうけど……。
結局、何の取っ掛かりも掴めないままに、とうとう電車は新鶴松駅に着いた。
「スタンプの場所が分かったから、行くぞ」
人ごみの中から猪口君を探し出すと、彼は開口一番にそう言って、エスカレーターの方へ歩いていく。
「え?解けたの?」
猪口君の背中を追いかける。
「なんというか、わかってしまえば単純な問題だった。必要なところだけが差別化されていたから解きやすくはあったな」
「どういうこと?」
「頭文字だけ読んでみろ」
「P・A・R・K……。公園!」
「そういうことだ。そして、鶴松市で駅に近い公園は新鶴松にしかない」
改札を出たところで、彼は立ち止まった。
「案外綺麗な街だな」
「うん。鶴松には来たことがなかったけど、もっと殺伐としてるみたいなイメージだった」
鶴松市といえば数十年前、日本中を騒がせた暴力団の本拠地があったとかで、治安がものすごく悪かったらしい。私が生まれるより前のことだからよくは知らないけど、今でも度々当時のことは耳に入ってくる。だから、私も鶴松市に少なからずそういうイメージを抱いていた。でも、道行く人の顔にそんな色は微塵もなく、ここの昔の姿が嘘のように街は活気にあふれていた。きっと、この場所に来る人達にとって今のこの場所はただの歓楽街なんだ。まあ、何十年も経てばそういうのも薄れていくんだろうな。
「ここだ」
改札から歩くこと約二十分、歓楽街を抜けて住宅街の中にぽつんと佇む小さな公園に着いた。ベンチが二脚。パンダとウサギとコアラの公園によくあるスプリング遊具。ワニの滑り台。公園の広さの割に人が多い。
端の方にスタンプが置かれた台があり、その横にカラフルな法被を着たスタッフの人が立っている。
「問題に出てきた動物って、ここにいる動物だったんだね」
「みたいだな」
スタンプを押して次の目的地、桐(きり)鳳(おおとり)市の設問に取り組む。
四季 強敵 倫 蛾 甥 荷 汽笛 課 芋 海苔
もう殆どお約束通りと言ってもいいような、ぱっとみただけで考えようとする熱意を削ぎ落とされるような暗号が目に入る。
ほんと、なにこれ。
共通点のなさそうな単語が羅列しているだけで、解く手掛かりになるような文も書かれていないし、穴埋め問題みたいな方法をとるということでもなさそう。
これをどうやって解けと仰るのですか。
「猪口君、この問題解ける?」
「いや、全然」
もはやお決まりになっているやり取りが行われる。
「この問題は大トリにもっていきたかったね。桐鳳市だけに」
「……」
「真面目に考えます」
自分では面白いと思うんだけどなあ。
「そういえば手水、腹減ってないか?」
「私を食べてもおいしくないよ」
「そういう意味じゃない」
「性的に食べるってこと?」
「違う。単純に昼飯はどうするかって話だ」
スマホを取り出して時間を見る。
「今、十一時過ぎ。ちょっと早くない?」
「そうか。朝食抜いてるから腹が減るんだろうな。気にしないでくれ。昼食はお前が腹減ったタイミングでいいから」
「ダイエットでもしてるの?」
「別にしてない」
「前にも言ったけど、じゃあ朝食は食べた方がいいよ。細かいことはわかんないけど、健康上良いらしいし」
「考えておく」
「まあ、私もちょっとお腹空いてきたし、そろそろご飯にする?」
「わかった。何食べる?」
「お寿司!」
「そんな金持ってない。足りない分はお前が出してくれるのか?」
「二人分も出せないよ」
というか、自分の分のお代も払えない。数皿食べただけで財布が尽きてしまう。友ちゃんにパフェを二回も奢ってしまったせいで、財布に余裕がなくなってきてる。ちなみにお寿司を食べようというのは冗談だから別に行く気はない。
「今の気分はラーメンかな」
「ラーメンって昼に食べるものじゃないだろ」
「そう?」
「別にいつ食べたって構わないと思うんだが、なんかこう、気分的にラーメンは夜に食べたくないか?」
「私は全然そういうのないなぁ。朝食がラーメンでも平気」
「すごいなお前。どんな腹してるんだ?」
「見る?」
「見ない」
「猪口君はラーメンとか脂っこいものは苦手なの?」
「いや、別にそういうわけじゃない。単に気分の話だ」
「実は私、桐鳳市のめちゃくちゃおいしいラーメン屋さん知ってるんだよね」
「桐鳳市っていうと、次の市か。ちょうどいいし、そこにしよう」
「豚骨スープがめちゃくちゃおいしいんだよね」
「豚骨か……」
「もしかして豚骨は嫌いだった?」
「嫌いではないけど、ラーメンは味噌だろ」
「私はこってりの豚骨派だね。……そうだ。じゃあきのこかたけのこだったらどっち?」
「きのこ」
「目玉焼きには醤油?」
「塩と胡椒」
「きつねかたぬきだったら?」
「たぬき」
「食の好みが恐ろしいほど真逆だね」
「そうか」
「女の子の髪型は長いのと短いのどっちが好き?」
「なんでそんなこと聞くんだよ」
「えー、いいじゃん教えてよぉー」
甘えるように腕を掴むと、猪口君は焦ったように下がって距離をとった。
おかしいなあ。異性からのボディタッチは好感度がアップするっていろんなとこで聞くけど、猪口君はそういうのを避けたがる節がある。
「言えば満足なのか?」
「大満足」
「……長い方が良い」
よし。髪はしばらく切らないでおこう。
「手水ちゃんはかわいいですよね?はいかもちろんのいずれかでお答えください」
「選択肢が実質一つしかないじゃないか!」
恋々線の岡部駅から徒歩十分。休日の昼時にしてはやたら閑散としている商店街の路地に入ったところにその店はある。陸上の大会の帰りに入ってみて以来、常連になった。
壁が所々破けていたり、傷がついていたりとボロボロのプレハブ小屋の壁に、赤いスプレーで大きくと『ラーメン』とだけかかれているその店こそ、この世で私が一番美味しいと思うラーメン屋だ。
外見の話をすると、こういう小汚いラーメン屋だと味にこだわっていそうで、おいしそうじゃないだろうか。ちなみに、いくらボロボロとはいえここは飲食店。店内は汚くない。その辺はちゃんとしている。
「本当にここ飲食店なのか?ボロボロじゃないか」
「うん。その反応は分かる。私も最初はそんな感じだった。でも本当においしいから」
快活に挨拶をして、ボロボロの戸を開ける。建付けが悪く、ちょっと力を入れないと開かない。
大将はのんきにカウンターに突っ伏して昼寝をしていた。
昼時なのに客が一人もいないのはいかがなものか。もっと宣伝とかに力を入れないと。味は確かなだけにもったいないと毎回思う。『宣伝しなくても建物がボロボロでも客が来るのが一流のラーメン屋だ』とかいう謎のプライドで頑なに宣伝行為をしないけど、やっぱりさすがに限度がある。この店には潰れてほしくない。
「ああ、手水ちゃんか。いらっしゃい」
目をこすっていた大将は、私の背後の猪口君をみるなり、目を大きく見開いた。
「ボーイフレンド……?」
「そう。ボーイフレンド」
「へぇ、手水ちゃんに彼氏ねぇ。まさかできるとは思わなかったよ」
「なんと失礼な。私にも彼氏の一人や二人くらいいるよ」
「二人いたらダメだろ。あと嘘を吐くな。俺はお前の彼氏じゃない」
いや、将来的にそうなるから嘘は言ってない。
「なぁんだ。やっぱり違うのか」
「やっぱりってなにさ」
「いいじゃないかそんなことは。それで、ラーメン二つでいい?」
「うん」
「俺は味噌にしてください」
「ごめんね。うちは豚骨しかないんだわ」
「えっ、味噌ないんですか……」
「猪口君、ここの豚骨ラーメンは絶品だから一度食べてみてよ!」
「手水ちゃんの言う通り。俺のラーメン超うまいから!絶品だよ!」
「じゃあ俺も豚骨でお願いします」
「あとは宣伝と外装と内装さえよければね……」
「そんなのは味に関係ないんだよ。味さえよければいいの。実際に手水ちゃんは来てくれてるわけだしさ」
「そうだけど、経営の方は大丈夫なの?他のお客さん見たこと一度もないんだけど、潰れない?」
「だ、大丈夫だよ。まだガスとか水道とかが止まるほどじゃないし」
「でも赤字なんでしょ?」
「まあね……」
大将は苦笑してラーメンを作り始めた。
数分後、カウンターにラーメンが二つ置かれる。
熱気に乗って嗅ぐだけでお腹がいっぱいになりそうな、こってりとした豚骨の香りが鼻腔を刺激する。ああ、もう匂いだけで美味しいって分かる。
私は、じっと猪口君が麺をすするのを待った。
「いただきます」
麺を一気に吸い上げてから、猪口君はうまいと呟いた。
うんうん。美味しいよね。大将と二人で満足気に頷きながら、私は割り箸を割った。
「胃にきそうだなと思いながらも結局全部食べてしまった……」
「フゥーハハハ!どうだ、うまかっただろ!」
「はい。誇張抜きに人生で一番うまかったです」
もうお腹いっぱいだという風に、お腹をさする猪口君。
お会計を済ませ、店を出ようとすると、大将が思い出したように尋ねてきた。
「いっけね、すっかり忘れてた。二人とも例のスタンプラリーやってるの?」
「うん。そうだよ」
「じゃあ紙出して」
言われるがまま紙を出すと。大将はレジの下の棚からシャチハタのスタンプを取りだした。
「はい、おめでとー」
なにがなんだかわからないけど、とにかく私はスタンプを押そうとする大将を慌てて止めた。
「大将ストップ!それ勝手に押しちゃいけないやつだから!それに正解って何?」
「何って謎解きのだよ」
「え?」
「……もしかして解けてないのにたまたま来ちゃったのかい?」
「そうみたい。っていうか、こんなボロいラーメン屋が謎解きの答えなの?」
「この店っていうか商店街全域だよ。どうやら商店街で買い物をしろっていう答えらしいよ。一応この店も商店街の一部だから」
「謎が解けていないのに正解するってのはスッキリしないもんだな」
「そうだね」
「まあ、この先も頑張れよ。お二人さん」
「ありがとう大将。また来るねー」
1=H
88
53
7
39
87
118
84
60
腹ごしらえも済んだところで次の柳道(やなぎみち)市の問題にかかるわけだけれども、なかなかどうしてわからない。わからなすぎて見るのも嫌になってくる。
「うーん。アルファベット順でも、五十音順ってことでもないよね。どっちも118個とかないし」
「一番初めはHじゃないしな」
「猪口君はエッチな方がいい?」
「うるさい。真面目に考えろ」
「はーい」
とそこで、眉間にしわを寄せて難しい顔をしていた猪口君の顔が、なにか閃いたという表情に変わった。
「これさ。アルファベットをHが最初になるようにずらすんじゃないか?」
「どういうこと?」
「Hが1、次のIが2みたいに」
「おぉ、それありそう」
そう仮定して考えると、88番目が……。
「って、アルファベットはそんなに無いって話したばっかじゃん」
「Zまで行ったらAに戻る。そうすれば大丈夫なはずだ」
「なるほど。そうだね」
Hを1としたときの88だから……。うん。脳内だけだと限界がある。私の脳みそはそんなに高性能じゃない。
スマホのメモ帳を使おう。やっぱりスマホは便利。
88はQ
この調子で解いていくと……。
「QHNTPUMO……?」
うん、なんのことかさっぱり。
「……全然違うみたいだな」
「それっぽい解き方だと思ったんだけどね」
それを最後に、また沈黙モードになってしまった。
うーん。会話がないのは苦手。でも関係ない話をすると猪口君に怒られてしまいそうだし、さっさと解いちゃうのが近道なんだけど、なにも閃かないし解けそうにない。
Hが一番目のものはなーんだ?鉛筆の芯?それとも何かの頭文字とか?うーん分からない。
「あ、わかった」
「なになに?」
「元素じゃないか?これ、数字は原子番号を表してるってことだと思う」
「なるほど。ありそうだね」
「とか言ってさっきは全然違ってたんだけどな」
原子番号だとすると、88が……。わかんない。
こんなときこそインターネットの出番だ。
再びポケットからスマホを取り出し、検索していく。
88はRa、ラジウム。
53はI、ヨウ素。
7はN、窒素。
39はY、イットリウム。
87はFr、フランシウム。
118はOg、オガネソン。
84はPo、ポロリウム。
「ポロリウムだって!どことなくおっぱい見えちゃいそうな感じがするね!」
「黙って真面目にやれ」
「……はーい」
60はNd、ネオジム。
「この解き方だと、答えはrainy frog pondってことになるよな」
「そうだね」
直訳すると、雨蛙池……。
「あ、あそこだ」
雨蛙(あまがえる)池(いけ)──その場所を私は知っている。
私は受験前とか、テスト前とか、あとはテストが返された後とか、とにかくそういうストレスが溜まったとき、闇雲に目的地を決めず疲れ切るまでひたすら走るという方法でストレスを発散している。雨蛙池はその疲れ切った帰り道の休憩地点として何回かお世話になっているスポットだ。
「手水、知ってるのか?」
「うん。道も知ってる」
「頼もしいな」
「えっへへ。そりゃどうも。よければボーナスとしてジュースの一本くらい買ってくれてもいいよ」
「調子に乗るな」
「はーい」
満員電車のせいでまたもや車内ではぐれてしまったものの、私達は順調に目的地ならぬ目的池に着いた。
名前の通り、この池は雨蛙がたくさん生息している池だ。冬以外は基本的におびただしい数の蛙がそこら中を動き回っている上に、たまに踏み潰された蛙が居たりするので、蛙が苦手な人はおすすめしない。
「今日はやけに蛙の鳴き声が大きいね」
そこら中から蛙の鳴き声がするせいで、少し声を大きくして喋らないといけない。
「ちょうど今ぐらいが繁殖期だからな」
「スタンプ、どこだろうね」
雨蛙池は、五十メートルプール三つ分くらいの大きさで、道風(みちかぜ)公園というそれなりに大きな公園の中にある。問題の答えは雨蛙池を指していたけど、どこを探せばよいのやら……。
「まさか潜ってスタンプを探すってことでもないだろうし」
蛙と藻が蔓延っているこの池にダイブするのはごめんだ。
「とりあえず、池をぐるっと周っていけばいいんじゃないか?」
「だね。……あ」
「どうした?」
「ちょうど反対側にいるあの人さ、イベントスタッフの人が着てる法被と同じじゃない?」
「いや、俺は目が悪いからよく分からない。まあ、とりあえずあっちに行くか」
スタンプはあっさりと見つかった。がしかし、やっぱり蛙が多い。蛙は別に嫌いじゃないし、触れもするけど、踏んでしまうのは避けたい。うっかり踏んでしまわないように歩くことに神経をすり減らした。
「次は紅葉(もみじ)鹿(しか)市だな」
「あ、ちょっと待って。やり残したことがある」
「なんだ?」
「やり残したことっていうより食べ残したもの、かな?ここに寄ったらいつも食べてるのがあるんだよ。いいかな?」
「そういうことか。別に構わないぞ」
池から少し歩いたところに、広場がある。
そこにはいろいろ売店が並んでいて、どれも雨蛙何とかみたいなご当地商品的なものを売っている。
その中の一つ、『蛙印のお菓子屋さん』の、雨蛙どら焼き。それが、私がここに立ち寄ったときにいつも食べているものだ。真ん中に蛙の焼き印(デフォルメされたゆるキャラみたいな蛙ではなく、鳥獣戯画にでてくるようなリアル寄りの蛙)が押されている大きいどら焼き。小腹も十分に満たせて、なおかつお値段百円(税抜き)という圧倒的コストパフォーマンスの良さ!ちなみにこしあん。
財布のお金がそろそろ危ないけど、まあ大丈夫でしょ!
猪口君とその辺のベンチに腰掛けた。
「本当に良かったの?これおいしいよ」
「ラーメンでお腹いっぱいだ。よく食べれるな」
「うーん。あんまり大食いの自覚はないんだけどなあ」
猪口君は紅葉(もみじ)鹿(しか)市の問題を見ている。私もどら焼きを食べながら覗き込んだ。
とちすなもちすならみといみ(んちしらみららみといみんちちとにんなしもらのち)
なんの暗号だろう。文章かな?括弧があるのは何?
「せめてヒントとかあればいいのにね」
「そうだな」
好きな人と二人っきりで、こうして横顔を眺めながらほのぼのとした毎日を過ごしていく。幸せだなぁ。中学の頃の走ってばっかりだった私からは想像もつかないことだ。あの頃も十分幸せではあったけど、今はそれ以上だ。でも、私は欲深いからつい考えてしまう。もっと幸せなことを。もし、恋人として猪口君の側で過ごせたならと、思ってしまう。
──今、告っちゃおうかな。
だめだめ。やっぱり告白するにはムードってものがあるし、それに……。今のこの関係を壊したくない。
結局、答えが決めきれないままどら焼きを食べ終えてしまった。
「食い終わったら行くぞ」
仕方なくバックの中のごみ袋に包み紙を入れて立ち上がる。
「……うん」
どちらの答えも出せないまま駅に着いた。
私は告白するべきなのか、この暗号の答えは何なのか、猪口君は私のことをどう思っているのか、この奇怪な文字列をどう読み解けばいいのか。
──考えが上手くまとまらない。
猪口君はスマホと問題文を見比べて、懸命に謎を解くことに集中しているように見える。
「猪口君、何してるの?」
「漢字に変換したらどうかって試してる」
「あれ、猪口君ローマ字打ちじゃん」
「それがどうかしたか?」
「いや、ちょっと珍しいなって思っただけ」
「そこまで珍しくはないと思うが」
「あんまりいないと思うよ。一文字打つのにだいたい二回タップしなきゃいけなくて面倒くさいし」
「そういうもんか。俺の場合、スマホを買ってもらう前はパソコンしか使っていなかったから、ローマ字入力の方が慣れてたし、フリック入力にはしなかったな」
「猪口君パソコン持ってるの?」
「自分用のじゃなくて家族共用のだ。パソコンは中学に入った時にスマホを買ってもらって以降、使わなくなったけどな」
「私も中学の入学祝いでスマホ買ってもらったんだ」
「解けたぞ。猿丸温泉だ」
「漢字に変換するのであってたの?」
「いや、そのアプローチの仕方はじゃなかった。ローマ字打ち云々の会話でピンときたんだ。手水、キーボードって見たことあるか?」
「一応あるけど、細かい部分は知らないよ?」
「キーボードって、基本的に一つのキーにアルファベットとひらがなが一つずつ書かれてるだろ」
「うん。それくらいなら知ってる」
「例えば問題文の一文字目の『と』は『S』のキーに書かれてる。だから一文字目は『S』だ。その調子で解いていくとこうなる」
猪口君はスマホの画面を見せてきた。
「んー。暗くてよく見えない」
「あ、画面暗くしたままだったか」
「スマホの画面は明るくした方がいいよ」
「機種変してないから充電の減りが速いんだ。画面明るくするとその分減りが速くなるし」
「猪口君の視力が悪いわけがわかったよ。画面が暗いと自然と顔が画面に近くなっちゃうから」
「なるほど。気を付ける」
猪口君は再びスマホのメモ帳の画面を見せてきた。
今度は明るくて見やすい。
『SARUMARUONSEN』
「猿丸温泉」
「そうだ」
「括弧の中はなんて書いてあるの?」
「今から解読する」
「解読するって、どのキーにどのアルファベットとひらがなが書かれてるか全部覚えてるの?」
「そんなわけないだろ。キーボードの画像をネットで調べてる」
猪口君が残りの文を解読している間に電車が来たので乗り込んだ。まだまだ駅も電車の中も満員だ。
幸運なことに、猪口君とは分断されなかった。腕同士が密着してドキドキする。
「括弧の中は『宿の温泉や足湯でも可』だ。調べたところ、駅から近くて予約なしで入れる足湯があるみたいだから、そこにするぞ」
「混浴の温泉が良かったなー」
「足湯も混浴だ」
「そうじゃなくてさ、すっぽんぽんになるタイプの混浴だよ」
「……なんでそれに入りたいんだよ」
「別にいいじゃん」
付き合う前に裸の付き合いを……。みたいな?
「とにかく、足湯に行くからな」
「あ」
「どうした?」
「そろそろ財布の中身が尽きるの忘れてた」
「なおさら足湯の方がいいじゃないか」
「仕方ないなぁ。今回のところは諦めるよ」
電車が止まってドアが開いた。私達の他にも、ぞろぞろと人が下車していく。
紅葉鹿市は猿丸温泉という温泉が有名で、ここの温泉街には遠方からの旅行客も大勢来るし、たまにテレビで取り上げられていたりもする。
猪口君の推理は当たっていたようで、例のカラフルな法被を着た人に、受付でスタンプを押してもらった。
そして私の財布も空同然になった。一日乗車券がなかったらと思うとゾッとする。
浴場はとても広く、たくさんの人がいながらも二人並んで湯に浸かることができるスペースは十分にあった。
今日着てきたのはあまり丈が長くないから、裾が湯に浸かることを心配する必要はなかった。
景色を見ると、遠方に雄大な山々が広がっている。鳥の鳴き声や木々のざわめきを肌で感じるみたいだ。この風景が秋になると紅葉で一面のオレンジ色に変わるらしい。きっと綺麗なんだろうな。
「ここの温泉って美容にも効果あるらしいね」
「やっぱり、そういうのって気にするもんなのか?」
「人並みには気を遣ってるつもりだよ。猪口君はどうなの?」
「全く気にしてない」
「……話は変わるけどさ、故事成語で断腸ってあるじゃん。あの語源になった話って知ってる?」
「確か、子猿を捕まえてそのまま舟で移動していたら、母猿が子猿を追いかけて川沿いに長い距離を追ってきた。最終的に母猿は舟に飛び移って子猿の下に辿り着くと死んでしまった。母猿の腹の中を見てみると腸がずたずたに裂けていた。そこまでの思いをしてまで子猿を追ってきた母猿の執念は凄かった──っていうような話だよな。でも、どうして急にその話が出てきたんだ?」
「猿丸温泉だから」
「猿から連想してその話になったのか。それで、断腸の語源がどうしたんだ?」
「その話を聞いた時から疑問に思ってたんだけどさ、舟を追いかけてただけなのに腸が裂けるのっておかしいと思わない?」
「まあ、そうだな。舟を追いかけてるだけだったら腸は裂けないだろうな」
「でね、私これに対してしっくりくる回答を考えたんだよ」
「どういう回答だ?」
「これね、母猿のお腹を裂く時に腸を傷つけちゃったんじゃないかなって思うんだよ。これって昔の話だからさ、お腹を切るときに使った刃物も今と比べたらあんまり良い切れ味じゃなかったと思うんだよ。だから、そんな刃物でお腹を無理やり切ろうとしたから、腸まで傷つけちゃったんじゃないかって」
「なるほど。そう言われてみればしっくりくるな」
「でしょ?私はこれを大学の卒論にする」
「卒論って、お前もう大学まで決めてるのか?」
「ううん。全然決めてないよ。適当に言っただけ。大学はおろか文系か理系かすらも決めてない。だいたい、この時期からもう進路決めてる人ってかなり少数だと思うよ」
「そうだな。俺も進路なんてのはまだまだ決まってない」
進路かぁ……。いつかは決めなきゃいけないことなんだろうけど、三年になるまでの二年間は、そういうことは考えずに青春していたい。
ただ、そうだなぁ。できれば猪口君と一緒の進路がいいな。この先付き合えるかどうかはわからないけど。
付き合って同じ大学に行ってお互いに就職して──結婚はその後かな。就職したら同棲を始めたりして。あ、結婚式も挙げたいな。
──妄想がどんどん膨らんでいく。
脳内でいろんな妄想をしているうちに、彼にもう上がるぞと肩を叩かれて我に返った。
ある 牡丹(ぼたん)蝶(ちょう)市 菊(きく)杯(さかずき)市 紅葉鹿市
ない 鶴松市 梅鶯市 桜幕市 藤(ふじ)杜鵑(ほととぎす)市 菖蒲橋(あやめばし)市 萩(はぎ)猪(いのしし)市 芒(すすき)月(つき)市 柳道市 桐鳳市
「あるなし問題かぁ。この三つの市にだけある場所が答えっていうことだよね」
「そうだろうな。裏を返せば三つの市にしかないということでもあるから、コンビニみたいにそこかしこにあるような場所ではないってことだ」
「……思いつかないなぁ。どうしよう」
「スマホで検索してみたらどうだ?『牡丹蝶市 菊杯市 紅葉鹿市 場所』みたいに。検索ワードが曖昧すぎるからダメ元にはなるが、ただ悩んでるよりかはマシだろう」
「そうだね。調べてみるよ」
猪口君の言った通りに調べてみたけど、市のホームページや写真が出てくるばかりで、それらしい検索結果は出てこなかった。
キーワードを変えて調べてみよう。『建物』とか『店』とか。
「分かった!猪口君、青(あお)短(たん)モールだよ!牡丹蝶市と菊杯市と紅葉鹿市にしかないし、菊杯市の重陽(ちょうよう)駅から徒歩五分!」
「うん。そういうことなら、それで合ってるだろうな」
「えへへ。褒めて褒めてー」
「調子に乗るな」
青短モールはいわゆる大型ショッピングモールというやつで、雑貨や日用品に服やアクセサリーとかのファッション系、そして飲食店などのあらゆる店が存在する巨大施設だ。
私は買い物があれば近所で済ませてしまう人だからわざわざこういう場所に足を運ぶことはないけど、手軽にいろんな店を見ることができるのは魅力的だ。アパレルショップが複数あったりもするし、選ぶ楽しみが増えるという面でもすごく良い。今日はじっくり買い物する余裕はないけど、今度買い物するときにはちょっと遠出して、こういうところで買い物するのも悪くない。
青短モールの北口から入ってすぐ、いつものスタンプ台とカラフルな法被を着たスタッフの人がいた。
多分、他の入口にもスタンプがあるからなんだろうけど、ここのスタンプ台はがら空きだった。
「よし、次に行くぞ」
「……ちょっと待って!」
スタンプを押してさっさと外に出る彼を追いかけて、呼び止めた。
「なんだ?」
せっかく来たんだし、もう少しここでゆっくりしようよ。
そう言うつもりだった。
買いたいものも食べたいものも特にない。けど、このままだと猪口君との関係になにも進展がないまま、ただスタンプを集めただけで一日が終わってしまう気がした。
この旅を進めたくなかった。終わらせたくなかった。ここで日が暮れるまで過ごしても、いつかは帰らなくちゃいけなくて──どっちにしろずっと一緒にはいられない。そんなことはわかってる。
でも、スタンプをコンプリートすることじゃなくて、退屈しないこの場所で彼と二人で過ごすこと。それがゴールでいいって、そう思った。
でも、それでいいの?一緒にいられればそれで満足なの?
……違う。本当は、私は彼の恋人として──彼女として彼の側にいたい。
あー!もうぐだぐだ考えるのはやめた!
第一悩み続けるのなんて私の性に合ってないし、こうやって悩み続けていて、いいことがあった試しがない!
陸上部に入りたくないと思って、勢いに任せて他の部に入るって決めたから、猪口君と──手芸部の皆と仲良くなれた。
やっぱり陸上部に入りたいかもって悩んで、それを一人で引きずらないで猪口君や友ちゃんに話したから、ダメ元で兼部の相談をしてみようって思った。
──今回も、きっと同じだ。
「……なんだよ。早く言え」
「猪口君!」
そう、猪口君と付き合うのは早いもの勝ち。
ムードもない。告白が成功する根拠も自信もない。勢いに身を任せただけの特攻。勝算だとかリスクだとかそんなことは考えなかった。でも、それでいい。
バカだなと私の理性が呟いた気がした。関係ない。突き進む。それが──そういうのが一番私らしいと感じたから。
私は、彼の目を見て、感情を言葉にする。まっすぐに、真剣に、私の気持ちが少しでも伝わるように──。
「猪口君、好きです。私と付き合ってください」
言った。言ってやったぞ。もう後には引けない。彼はどう答えるのだろうか。
なんでだろう。今更になって手が震えてきた。震えを抑えるように手をぎゅっと握りしめる。それでも、震えは収まらないし、全身がガチガチに強張っている。
その間がいやに長く感じた。
彼は答えた。
「無理だ」
目を逸らし、俯いて、しかしきっぱりと言った。その言葉から拒絶の色がはっきりと伝わってきて、どうやっても無理なんだと悟った。
そう感じた瞬間、目が潤んでくるのがわかった。
あれ、おかしいな……。これが私らしいって思ったし、絶対に後悔しないって思ってたのに、なんで泣いてるんだろう。
「私、本気だから!本当に、猪口君のことが好きなの!だから……。だから……。そうだ、猪口君に好きな人とかいないんだったら、お試しみたいな感じで付き合わない?それでもダメだったら別れてもらってもいいからさ……」
無意識に、そう言っていた。きっと、答えは変わらない。わかってる。
──ああ、往生際が悪くて見苦しい。告白の際に言った文言よりも、自然に出てきたそんな言葉の方が、私の本性を如実に現わしている気がして、嫌になった。
自分が惨めに思えた。
「無理だ」
彼は、同じようにきっぱりと、でもどこか申し訳なさそうに答えた。
「……ごめん、ちょっと、トイレ」
涙を腕でぬぐって、私は自動ドアから中に入って、トイレへ向かった。彼の方は見なかった。多分、変わらずうつむいたままだったと思う。
鏡の前で堰が切れたように泣きじゃくった。
瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれた。何も考えられなかった。考えたくなかった。
「えっ、どうしたんですか?」
トイレの出入り口から、友ちゃんの声がした。
声のした方へ引き寄せられるようによろよろと歩いていった。涙で何も見えなかったから、手探りで。
友ちゃんは、細い腕で私を抱きしめて背中をさすってくれた。優しく、とても優しく──それはまるで赤子をあやす母親みたいだった。
次第に、年下の女の子にこうして慰めてもらっていることに情けなくなって、止まりかけていた涙が再びこぼれてきた──。
「起きてください」
その言葉で、私の意識は深く暗い海の底から浮上した。
知らぬ間に私の体重をすべて友ちゃんに預けてしまっていた。私は慌てて離れて、記憶の靄を取り除く。
さっきまでここで泣いてて、それで──。
「ごめんね。寝ちゃってた」
涙はもう乾いていた。
「泣き止んでもまだ離れないのでどうしたのかと思ったら、まさか立ったまま寝てるとは思いませんでしたよ……」
「どのくらい寝ちゃってた?」
「数分ですよ」
「そんなに時間たってないんだ。よかった。何時間も経ってたらどうしようかと思ったよ」
「全然よくないですよ。数分とはいえ、手水さんの身体を支えていたんですから。何時間も起きないようならこちらの体力が持たないので、その辺に転がしてましたよ」
「すみませんでした……」
「それで、なにがあったんですか?」
「……」
口に出してしまったら、認めたことになってしまうと思って、言葉に詰まった。受け入れたくなかった。受け止めたくなかった。
でも、言葉にしようとしなかろうと、私が認めようと認めなかろうと、現実は現実だ。
私は観念して、口を開いた。
「振られちゃった」
──そう。私は失恋したんだ。あっけなかったなぁ。
「それで泣いていたんですね」
友ちゃんは暗い顔をしていた。
きっと、私はもっと暗い顔になってるんだろうな。鏡はすぐ側にあるけど、見たくない。
私はトイレの出口へと歩を進めた。
「……もう、大丈夫なんですか?」
「大丈夫……なのかな?わかんないや」
ただ、踏ん切りがついたというかなんというか、号泣した後だからかな?清々しささえ覚える。
前を向いて、次に進めそうな気がする。
あれ?……次?……次ってなんだ?別の人を好きになること?陸上に打ち込むこと?
──違う。単純なことだ。
私はまだ猪口君が大好きだ。だから、やることは決まっている。これまでと何も変わらない。諦めるもんか。
「私、もう一回告白してみようと思う」
「……は?」
正気ですか?と友ちゃんは驚いて──いや、呆れている。まあそうなるか。自分でも普通じゃないと思う。
でも、諦めたくない。今日は駄目でも明日なら。明日が駄目でも明後日なら!
そんなメンタリティを持とう。
私は顔を洗ってトイレを出た。
猪口君はフードコートの椅子にぽつんと座って俯いていた。
待っていてくれたんだと、少し安堵した。
「猪口君」
呼びかけると、彼はゆっくりと顔をあげた。私が言葉に詰まっていると、彼の表情は急激な変化を見せた。幽霊でも見たような、恐怖と驚愕とが混じったような顔。その視線は、私の隣──友ちゃんへと向いていた。
「なんでお前らが……」
友ちゃんが何か言おうとして、彼に一歩近づいた瞬間、彼はその場から逃げるように走り去った。
私の足の速さだったら、彼に追いつくこともできた。だけど、追いついたとしても、何を言えばいいんだろう。
私は茫然とその場に立ち尽くすばかりだった。
「……あの人が、さっき手水さんが告白した人ですか?」
信じられないといった様子で、友ちゃんが訊いてくる。
「うん。友ちゃん知り合いだったの?」
「知り合いかどうかというと……知り合いともいえるのですが……」
なんだか煮え切らない返答だった。
友ちゃんはしばらく口ごもったあと、言った。
「私の名字は、猪口です」
「猪口!?ってことは……」
「はい。妹です。あの人の」
驚きと同時に、いくつか疑問が浮かんできた。
「猪口君、兄弟とか姉妹はいないって言ってたけど……」
鬼山兄妹を追いかけて動物園に行ったときに聞いた。そういえば、あの時返答に詰まっていた気がするけど……。
「そう……ですか……」
「それに『あの人』とか、やけに呼び方が他人行儀じゃない?」
「それは……」
これまでの無表情な友ちゃんからは想像がつかないくらいに、苦しそうな顔をしていた。
深い奈落へ足を突っ込んでしまったような感触──軽い気持ちで訊いてはいけなかったと直感する。でも──。
「……お願い。よければ聞かせてくれない?好きな人の──猪口君のこと、もっと知りたいから。知っておかなきゃいけないと思うから」
「そんなに知りたいですか?」
「うん」
わがままで自分勝手な願いだっていうのは重々わかっている。それでも、知っていなければならないと思った。これからも猪口君を好きでいるために。彼をずっと見つめているために。
「……わかりました。ちょっと待ってください」
友ちゃんはバックからスマホを取り出して操作し始めた。
「あ、ごめん。友達と来てるんだよね。大丈夫だった?」
「はい。皆には、あとで追いかけると伝えておきますから」
そう言うと、友ちゃんはスマホをバックにしまって、さっきまで猪口君が座っていた席を目で指した。
「とりあえず座りましょう。……他の人には、絶対に言わないでください」
「うん。わかった」
「あの人──兄の顔を見たのは二年半ぶりになります」
「二年半って……。同じ家に住んでるんでしょ?」
「……はい」
「仲悪いの?」
「どうなんでしょう。以前は普通だったと思うのですが……。二年半前くらいから、兄が私のことを避けるようになりました」
「心当たり……とかは?」
「……あります」
中学のとき、妹をレイプした。暑い夏休みの日だった。平日だったから、両親は仕事に行っていて、妹と二人きりだった。妹の部屋に行き、無理やりに押さえつけて、傷つけた。
理由は、クソみたいなくだらない好奇心。その頃、ネットで性知識を知って、性に興味と好奇心があった。妹が異性として好きだったわけじゃなく、ただ、セックスというものがどんなものなのかを体験してみたかった。それだけの、本当に馬鹿で愚かな理由。
その頃は、それがどんなに相手を辱め、傷つけてしまうことなのか知らなかった。わからなかった。それが、相手に一生消えない傷を残してしまう程に大きなことだとは思わなかった。
だからといって、俺のしてしまったことは知らなかったで赦されることではないし、絶対にしてはいけなかったことだ。もし、あの時に戻ってやり直せたら、あんな馬鹿なことをしていなかったら。幾度となくそんなことを考えた。
……どうやったら償えるのだろうか。負った傷の痛みも苦しみも、俺には想像することしかできない。
妹はこのことを誰にも話さなかったらしい。理由は分からない。大事にしたくなかったのか、俺を赦したのか。それとも話しはしたが両親が黙殺したのか。
とにかく、俺は誰からも咎められなかった。それでも、俺の罪も、妹が受けた傷も決して消えない。それが怖くて、耐えられなくて、俺は目を背けた。妹と過去の自分の過ちと向き合うこともせずに逃げ続けて、のうのうと生きている。そんな自分と、そんな自分を変えることができない自分が、とてつもなく憎い。いっそ誰かが裁いてくれたら──俺を糾弾して詰って惨たらしく殺してくれたら、どれだけ楽なのだろうか。
どういう接点があってあの二人は知り合ったのだろう。もういいか。そんなこと。俺がそういう奴だと知られてしまう以上、皆も俺と関わりたくはないだろう。もう俺は手芸部にいられない。どころか、クラスにすらも居場所がなくなるかもしれない。
楽しかったんだけどなあ。いい人達だったのに。いや、自業自得か。そもそも俺みたいな汚れた人間が周りと馴染んで楽しくやろうなんて思ったのが間違いで、都合のいい妄想だったんだ。
日が落ちてくるにつれて、車内の人も日中に比べて少なくなってきているが、それでもまだ混雑はしている。
ちょうど一つ席が空いたから座った。
何をする気にもなれず、どこかに行く気にもなれず、ただぼーっと景色を眺めていた。
歩き回っていたから、疲労が溜まっていたのだろう。電車に揺られているとすぐに瞼が重くなってきた。
どのくらい経っただろうか。自然と目が覚めた。
眠気はまだ残っていたから二度寝をしようかとも思ったが、既に空が暗くなっていたので、渋々そのまま目を覚ますことにした。スマホの時計は二十時を少し回ったところだと表示している。
起きるタイミングが良かったようで、電車はもう少しで最寄り駅の桜幕駅に着くところだった。
あれから俺はこの環状線を何周したのだろうか。
手水からメッセージが何件かきていたが、内容を確認する気分にはなれなかった。
駅とその周辺には、夏祭り後のような独特な活気があった。それが嫌になって、早足で家路についた。
駅から離れるにつれて、行きかう人々が少なくなっていき、やがて全く人の姿は見えなくなった。
月も厚い雲に隠れた暗闇の中、街灯の小さな明かりだけが周囲を照らし、木々の騒めきと風の心地よい音だけが耳へ届く。
そんな道を一人で通ると、少しの寂しさを覚えた。
家が近づき、そろそろポケットの中の財布から鍵を取り出そうというところで、俺の家の前──明かりのない暗闇の中に誰かがいることに気づく。
そいつが誰かはすぐに分かった。手水だ。見る限り、今は一人のようだ。手水を含め、手芸部の面々は俺の家の場所は知らないはずだ。妹が手水に教えたのだろう。
あいつは玄関のドアの横の壁にもたれて、曇った夜空を見つめていた。
なんでこいつはここに居るんだ。放っておけばそのうち帰るのか?こいつのことだから、朝までここに陣取っているなんてこともあるかもしれない。
「おい」
「うわああああああ!」
「うるさい。近所迷惑になるだろうが」
「ご、ごめん。ついびっくりしちゃって」
「どうして俺の家がわかったんだ?」
「友ちゃんに教えてもらったから……」
「……俺があいつに何をしたかは、聞いたのか?」
手水はこくんと小さく頷いた。
「あいつはなんて言ってた?」
「また元の兄妹に戻りたい、って」
嘘だ。あいつがそんなことを言うはずがない。そんな都合のいいことがあるはずがない。
「それで、何の用だ」
「わかんない。けど、なんか、このままだとあれっきり猪口君と会えないような気がして……」
「それでいいじゃないか。お前だって、俺みたいな奴とはもう関わりたくないだろ」
「そんなことない!」
手水の声が響いた。その声にかき消されるかのように、木々の騒めきも、風の音も、全ての音が消え去った。
──俺の目には、手水だけが映っていた。
「私は猪口君のことが好き!だから一緒に居たい!猪口君の傍に居たい!」
振り絞るように、叩きつけるように、そう叫んだ。
「一緒に登校して、一緒にお弁当食べたりして、一緒に喋って、一緒に帰ったり、二人で休日にお出かけしたりしたい!」
「……無理だ」
「また無理って……。もしかして私のこと、嫌いだった?」
「違う。……嫌いってわけじゃない」
「じゃあどうして?」
「……怖いんだよ」
「怖い……?」
「自分がまた、自覚がないままに誰かを傷つけてしまうんじゃないかって……。もし、自分を抑えられなくなって取り返しのつかないことをしてしまったらどうしようって……」
だから、妹と関わらないようになった。怖いから、女子に触れることを避け続けた。
「!?」
唐突に押し倒された。いや、押し倒されたというよりタックルをされて倒されたという表現の方が的確な気がする。
地面から両足が離れ、背中から地面に着く。幸い頭は地面にぶつからなかった。
混乱していたからだろう。背中が地面についてから痛みを感じるまで少しタイムラグがあった。
「痛っ──!?」
声が漏れたのとほぼ同時、何が起きたかまだ理解が追い付かないうちに口が塞がれた。
唇に当たる柔らかい感触と頬に落ちてくる水滴を感じて、ようやく、自分はキスをされているのだということを理解した。
二、三秒ほどして、手水の唇が離れた。それでも手水の顔はまだ近くにあった。手水の顔が涙でぐしゃぐしゃになっている
「私は!」
赤くなっているあいつの目に視線が吸い込まれていった。
「猪口君になら平気だから!猪口君にならなにされてもいい!猪口君にならめちゃくちゃにされてもいい!このキスでもまだ信用できないんなら、今この場でセックスしたって構わない!だから──!」
そこから先は、嗚咽がひどくて聞き取れなかった。手水は何度も言い直そうとするが、言葉にはならなかった。
それでも、何を言おうとしているかはわかった。
──俺はどうしようもないクズだ。
俺は、異性を好きにならないことをどこか自罰のようにも思っていた。あんなことをしてしまった俺が、恋愛するなんて思ってはいけないと。だが、こいつになびいてしまった。俺の過ちを知っても好きだと言ってくれて、例え傷つけてしまっても受け入れて許してくれる──そんな人がいたら、こんなにも好きになってしまうのだ。本当に妹に対して申し訳なく思っているのなら、断るべきだ。
だから結局、俺の本質は独善的で利己的なクズだったということだ。
「わかったよ。わかった……」
手水は、言葉にならない声を出しながら、より一層涙を流した。手水が抱きついてくる。その力が強くて、痛い。
ふと夜空を見上げると、東の空の右側が欠けた月が、逆さになって見えた。
──ああ、綺麗な月だ。
4月28日(日)猪口零人
急いで支度を終え、玄関で靴を履こうとしたところで、スマホの時間を確認する。二度寝していたことに気づいたときは焦ったが、急いで支度をしたから、時間にはまだ少し余裕がある。
少し早いけど行くか。
違う。本当に馬鹿だ。その前に絶対やらなければならないことがある。それをしないで前に進むことはできないし、そうなってしまったら、終わりだ。
リビングにはいなかったので、自室に向かう。今は早朝でもないし、起きているだろう。
一応ノックをする。『どうぞ』と返ってきたので、ドアを開けた。
友はベッドの上でスマホをいじっていた。入ってきたのが俺だったからだろう。明らかにに驚いていた。
久しぶりに話すものだから、どう話せばいいか一瞬戸惑った。
「友、ちょっといいか」
「うん」
「あのときの……ことなんだけど」
「うん」
「ごめん」
深々と、頭を下げた。
「許されることじゃないと思うし、どうやって償ったらいいのかわからないけど、もし、俺に何かできることがあったら言ってほしい。なんでもする」
「大袈裟です。私は全然気にしてないですから。だから……。また元の通りの兄妹になりましょう。それと、自分の部屋に引きこもってばかりいないで、夕食は皆で一緒に食べましょう」
意外な言葉だった。そうか、手水の言った通り、本当に──。
「ああ。わかった。……ありがとう」
「あと、もう一つ」
友は微笑んで、からかうように言った。
「手水さんとのデート、楽しんできてください」
「なんでそれを……」
友は俺の驚いた反応に満足したように笑った。
「昨日手水さんから聞きました。時間は大丈夫ですか?」
「そろそろ出た方がいいかもしれない」
「いってらっしゃい。気を付けて」
「うん。いってきます」
友と最後に話したのはいつだったか。
友の笑った顔を最後に見たのはいつだったか。
靴を履き、ドアの前で少し立ち止まった。これで元に戻れたのだろうか。これでいいのだろうか。……わからない。それでも、友が俺を赦して、元の関係を望むなら──望んでくれるなら、俺も俺を赦して、元の関係を望もう。
これまでになく晴れやかな気分で、家を出る。
sisters mythologies @snymsy-ioaao
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