第2話
「さて東海林くん、だっけ? 君の家に大根とかワサビはあるかな?」
気だるそうな声が電話越しに聞こえる。扉をガリガリ削る音で精神もガリガリと削られる。
「あります! ワサビならチューブのが! 冷蔵庫にっ!」
「オーケー、チュパカブラはワサビが苦手だ。ワサビをぶちまけながら神社まで走れ。臓物をぶちまけたくなかったらな」
僕はもうなにも考えられずにワサビチューブを冷蔵庫から取り出して、頭からワサビを被った。
そもそもなぜこんなことになったかを話すならば、それは彼女と別れてから話さなければならない。
………………
いくらノンサークルノンバイトとは言えども、買い物に付き合う友人のひとりふたりはいる。僕はそいつと少し離れたショッピングモールまで自転車で行った。問題はその帰り道だった。
「そんでさーその教授がさー」
視界の隅を黒い影が駆け抜けていった。午後六時、まだ太陽の端っこが未練がましく光を放っている時間帯。住宅街には薄い夕闇が覆い被さる時間だ。
「まさかパソコンの壁紙が深夜アニメのドギツイシーンだとは思わないよなー」
まただ。犬ほどの大きさをした影が車の下から電柱へと高速で移動した。しかし僕以外の通行人はその事に全く気づいていないのか、それともスマホに夢中になっているだけなのか、そちらの方を一瞥だにしなかった。
「なあ、電柱の傍になにか見えないか?」
「ん? あのゴミ袋か?」
「違う違う。その電柱の奥のやつ」
「んー俺にはなんにも見えねぇけどなぁ。目が疲れてきたんか?」
「そう、かなぁ……」
確かに影はそこに居る。どうやら彼には黒い影を見ることは出来ないらしい。不定形のなんとも形容しがたい影は、まるでこちらを伺うかのようにゆらゆらと揺れていた。
「この後どーするよ。飯でも行くか?」
僕はなぜか嫌な予感がした。
「ごめん、今日は用事があるわ。また別の日に行こう」
その予感は昼に起きた出来事から連想したものかもしれない。あのよくわからない女子と手のひらのかさぶたをどうにも、本能的な部分で無視出来なかった。僕は急いで家に駆け戻り、しっかりと扉を閉めた。
家というものはひとたび逃げ込めば安心できる場所だと勝手に思っている。さらにその家を守る扉は、外界からの侵入を拒み、安心を確約してくれるものだ。ただ家に辿り着くまでの道で、明らかに影が僕を追っかけるような動きをしているのを見てしまった。
走った余韻で心臓の鼓動が身体中を駆け巡るせいか、傷口がやけに痛痒いかった。
………………
深夜二時、俗に言う逢魔が時。魔の世界と人の世界が混じり合う時だ。僕は夕方の恐ろしい影のことであまり眠れず、布団の上でスマホを触っていた。
初めはコンコン、という音であった。扉になにかが規則的に当たる音がした。しかし音は次第に大きくなり、それと同時に爪で引っ掻くようなキーキーという音もし始めた。
ものの数分でもう音はドンドンと叩くような音量に達し、ガチャガチャとガリガリが絶え間なく続いていた。さすがにおかしい。深夜二時にこんな大きな音を出すのは、マトモなヒトなら絶対にしないだろうし、もし僕が僕の部屋の隣だったら絶対にキレているはずだ。嫌な汗が手のひらから背中からダラダラと垂れ流れるのを感じた。
ドアスコープから外を覗けば何が起きているのかはわかるのだろう。しかし恐怖がそれを許さない。怪物に立ち向かう主人公が賞賛されるのは並外れた勇気が、常人には持ちえない勇気が備わっているからだ。
「け、警察に電話を……」
しかし出来ない。それだけは出来ない。警察を「僕の家」に入れることは絶対にしてはならないことだ。いや、警察でなくとも誰であっても「家」に入れることなど金輪際許しはしない。
ではどうすべきか。ふと今日貰った謝礼のことを思い出した。あのよくわからない女子の、よくわからないゼミの招待状に書かれた十一桁の数字は電話番号となっている。電話をかけた。
「あの、すみません! 今、よくわからないモノに襲われてて!」
なぜその電話番号に電話したのか。なぜ深夜二時にその電話を取ってくれる人がいると思ったのか。そしてなぜその電話相手がこの状況を解決できると思ってしまったのか。
それはわからない。
「こちら一口……ヒトクチと書いてイモアライでお馴染みの一口なぎさ教授様だ。この時間に電話とはなんの用だ」
気だるそうな声で電話口の男は聞く。
「その、犬ぐらいの黒い物体が、僕の家の扉を破りそうなんです!」
「ン犬ゥ? あー、あぁ。君はもしかして昼間手伝った子か?」
「そうです! 手伝った後に黒い影のようなモノに付きまとわれて、それで今扉を破られそうなんです!」
「影……ねぇ。手伝っただけじゃそこまで縁は出来ないはずだけど……まあいい。一応聞くがその影とやらはどんな特徴だ」
「犬ぐらいの、僕にしか見えない真っ黒なモノです!」
普通こんなことを言ったら気狂い認定され、電話を切られてもおかしくはないだろう。しかし幸いなことに、一口教授は僕のような気狂いのスペシャリストだった。
……………………
「ニュースをお伝えします。昨夜未明、京都市左京区の吉見神社付近にて大声を上げながら走る不審者が目撃され、警察は防犯カメラを分析するなど……」
朝のニュース番組がおそらく僕のことを報道していた。まだ薄暗い神社の事務所内でワサビ臭い僕は床からのそのそと起き上がる。
「おはよう、ノンバリューワサビマシマシ君」
「なんだその二郎系のコールみたいなあだ名は!」
思わずまだ手に握っていたワサビチューブをさらに強く握りしめ、デロッとしたワサビが床に垂れる。
「朝から元気だな。徹夜で作業したんだからもう少し寝させてくれてもいいのに……」
無精髭を生やした三十代ぐらいの男がパイプ椅子のベッドから起き上がる。昨夜、ワサビを持って神社に逃げ込んできた僕を助けてくれた一口なぎさ教授様だ。
宿直用の事務所は3人も居ればさすがに手狭に感じる。彼女はさっさとカーテンを開けて出ていってしまった。
「さて、俺は二限の授業の準備がある。もう解決したんだからお前も帰った帰った」
一口教授様は僕に背を向けて書類を片付け始める。
「さすがになにか説明をお願いしてもいいですか!?」
そう。この男は解決したと言うが、昨日僕がされたことは顔に酒をぶっかけられただけなのだ。そして急に眠くなり、意識を失うように寝てしまったため、その後の事は一切不明だ。
「世の中には知らない方がいいこともあるさ」
そうとだけ言ってファイルを乱雑にカバンに詰め込んだ教授は、僕を置いて事務所から出ていってしまった。
結局僕はなにもわからないままワサビ臭い服を洗濯機に突っ込んでまた布団の上に寝転がった。家の扉には傷一つ付いていなかった。
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