小康症候群
独り身
第1話
「ねえ、そこの君。大学生の本分は勉強にあるのかしら。それとも遊びにあるのかしら」
時計の針が二時を少し回った、五月にしてはやけに暑いクスノキの下で、僕はその変な質問を投げかけられた。
「そりゃぁ勉強だと思いますけど……」
「そう。ならこの時間は必修科目の授業が入っているはずよ。あなたはその大切な授業をサボってどこに行くつもり?」
男物のスーツを着た彼女はベンチから立ち上がり、ズボンについたホコリを叩き落とした。
「なんで僕の時間割を知っているんですか!?」
「同じ学部だからよ。なんなら入学式の時、隣に座ってたわ」
「じゃあ君もサボってるじゃないか! 僕のことをとやかく言う筋合いはないぞ!」
「筋合いってなにか卑猥な響きがするわよね。これ、セクハラで訴えていいかしら」
「なにを連想してるんだ! めちゃくちゃな事を言わないでくれ!」
彼女は慌てる僕を無視してカバンから封筒を取りだした。少しシワのついた封筒には「謝礼」の二文字が書かれていた。
「単発アルバイトしない? どうせあなたはノンサーノンバイトノーバリューなんだから、多少は生産性のある行動をしましょう」
ひらひらと封筒をはためかせる。そして彼女は僕の返事も聞かずにさっさと歩き出した。
「なんで疑問形なのにもう承諾する前提の行動を取るんだ! 本当に君はなんなんだ!」
「つべこべ言わずにノンバリューくんは早く来なさい。幸運の女神はツルッパゲなんだから」
「前髪も掴ませてくれないのかよ!」
僕は始めからこの女に関わるべきではなかった。そうすればただ布団の上でゴロゴロしてるだけの日々を一週間も過ごせたはずなのだから。
……………………
「さて、君にはこの資材を大学裏手の神社の境内まで運んでもらうわ」
構内の南にある建物の一室、本と書類が散乱する教授の部屋から、彼女はダンボールを一箱持って出てきた。かなり重たいようで、ドスンと床に置いて汗をふき取った。
「神社って、吉見神社?」
「そう。無駄にカメムシが大量に生息する吉見神社よ」
吉見神社は大学の東側に横たわる山の、その中腹あたりに位置する由緒ある神社だ。特段遠いわけでも道が険しい訳でもなく、さらに大学生にとってなにか面白いものがある神社でもない。そんなところになにをしにいくのか、などと思いつつも、ダンボールを持ち上げた。
「さ、早く行きましょ。日が暮れる前にやらなくちゃいけないことが山ほどあるの。積み上げたら吉見神社よりも標高が高いわ」
やれやれというように肩をすくめる彼女に、僕はなんだかバカバカしい気持ちになった。
……………………
「ぜぱーっ……げふげふっ……」
遠くない、道が険しくない神社とは言えども、重いダンボールを抱えて歩くのでは体力を相当消耗する。
「末期老人の真似なんてしてないで、さっさと動きなさい。アルバイト代減額するわよ」
僕よりも二段上で彼女は、僕よりも青い顔をしていた。
「そ、そっちこそ疲れてるんじゃないか? 荷物のひとつもないくせに」
「あら、こっちは生まれ持っての荷物が胸にふたつ付いてるのよ。今のはセクハラにカウントしておくわね。減額」
「横暴がすぎるぞ!」
彼女は自身の無い胸をさらりと撫でて、上へ上へと登って行った。
……………………
「ここでいいわ」
僕はおみくじ売り場の前にダンボールを置き、そのまま座り込んだ。なんだか最初の頃よりも重くなったようなダンボールは、衝撃でガチャンという音を鳴らした。
「ちょっと待ってなさい。私は報告してくるから……」
青を通り越して白くなった彼女はふらふらと事務所の方に入っていった。
「それにしてもやけに重いな。いったい何が入ってるんだ?」
ふと興味が湧いた。ダンボールは養生テープで二ヶ所を軽く止めてあるだけで、むしろ今まで開かなかった方がおかしいぐらいに簡単に開いた。
ダンボールには中の見えない黒い袋が何袋か、ハンマーと電動ドリルが入っていた。なんかの補修だろうと考え、興味も失せた。そして黒い袋を戻そうと掴んだ時、袋の中のネジが飛び出て手のひらを刺してしまった。
「いっ!」
そこそこの痛みと皮が剥けてしまった手のひら。次第に傷口から血が滲んできてしまう。しくったなぁ、なんて思いながらも中身を元に戻し養生テープでまた開かないように止めておいた。
「待たせたわ、お疲れ様」
汗が完全に蒸発し、血も流れなくなった頃に彼女は帰ってきた。
「随分と遅かったけどなにかあったのか?」
「なにもないわ。ただ教授が居眠りしてたからポッドのお茶を背中に垂らしてあげただけよ」
「次の授業からお前の前には座らないようにするわ」
「じゃ、約束のモノよ。ここで開けるのは私に対する無礼だと思って、とっとと家で人生初の女子からのプレゼントを堪能しなさい」
「言い方は気に食わないが貰えるもんはありがたく貰うよ」
僕は彼女から封筒を受けとり、流れ出た水分を補給すべくスーパーにお茶を買いに行った。
……………………
「なにこれ」
得た給与でお茶を買おうとして封筒を開けたが、そこには諭吉も英世も渋沢も夏目もいなかった。ただそこには十一ケタの数字と「一口古典ゼミ紹介状」という文字が書かれた紙だった。
「本当になんだよこれ。もうわけわかんねぇよ……」
だがこの時、僕は今夜にもこの数字列に電話するハメになるとは知る由もなかった。
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