絶望の味

第19話




『賭けの内容は簡単だ。君はただ彼の〝願い〟を叶えてあげればいい』


『願い?』


『内容は今は気にしなくていいよ。聞かなくても勝手に教えてくれるだろうから』


『‥‥』


『もし、君がその場所に留まることを望むのなら、君とルツ君に関する情報の所有権を永劫的に放棄する』


『‥‥』


『それでも尚、戦い続けることを望むのなら、無期限で君の求める情報を無償で提示してあげるよ』


『そこまでする、あなたのメリットは?』


『僕としては、使い道のあるものを、使いもしないうちに自滅されるのが惜しいわけだ。今までの労働も割に合わないしね』


『‥‥』


『今の状態では共倒れになり兼ねないし、君にもその自覚があるでしょ?』


『‥‥』


『確信もあるから、僕はあくまできっかけを作るだけさ。どうだい?君には何の不利益もない、好条件な提案だと思うけど』










「思ったよりも遅かったね」


「期限は定時されていなかった」


「別にお小言を言いたいわけじゃないよ。それより、どうしたの?まさか、無くしたの?あんなに大切そうにしてたのに」




自分の首元を指差しながら、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。





「取引と関係が?」


「ないね。ただの疑問だ」


「なら、その疑問に答える義務はない」


「いつになく冷たいね〜」


「私はもう黒猫に雇われている立場ではなくなった。今はただの顧客。そう認識している」


「賭けは君の勝ちさ。その認識で問題ないよ。それで、君はこれからどうするの?」


「変わらない。主を壊滅させるまで、戦い続けるだけ」




狙ったようなタイミングで、ヨルが通信機の電源を入れた。



通信機越しに聞こえてくるのは、切羽詰まったような怒鳴り声。



声の主はすぐに分かったが、今更この程度で反応したりはしない。





「話の途中でごめんね」


「構わない。続きを」


「気にならないの?」


「‥‥」


「流石にこの距離だと君なら相手が分かるはずだよね」


「分かったところは意味はない」


「いいの?」


「何が?」


「あの子、壊れちゃうよ」


「あなたが、壊すの?」


「まさか、勝手に壊れるだけだよ」


「困るのは、あなた」


「壊れ方に、いやこの場合は〝壊し方〟によると言うべきだね」


「‥‥」


「一度原型が無くなるくらいに壊れてくれた方が僕にとっては都合が良い」


「‥‥好きにすればいい」


「え?」


「ルツの身に何が起ころうが、私にはもう関係がない。あなたの好きにすればいい。それとも、ここで干渉して振り出しに戻ることが望み?」


「はは、ここまで断言するくらいだ。あの子は完全に君に見放されたってわけだね。可哀想に」


「‥‥何が起きているか、聞かなくても分かる」


「おや、そういえば会ったんだっけ?」


「‥‥」


「まあ、確かに君には関係ないよね。ルツくんさえも、あくまでも他人なんだし」


「‥‥」


「それに君も、そちら側の人間だろ」


「‥‥」


「状況さえ違えば、君に君の望みを行動に移すだけの資格とやらがあれば或いはーー」


「否定は、しない」


「ルツくんも、それが分かっているはず。だからこそ、今から起こることは、ルツくんにとってはまさに〝絶望〟と言わざるを得ないだろうね」


「私には何も出来ない。仮に出来たとしても、何もしない」


「『死こそが、人間に与えられた究極なる救い』だったかな」


「‥‥」


「ーーああ、雨が降って来た」




黒猫のアジトに窓なんてものはない。



けれど、彼は見えるはずのない空を見上げるようにして、徐に呟いた。









体を叩きつけるような大粒の雨。



闇に染まって森林の中を、無我夢中で潜り抜けていく。



幾ら泥が飛び跳ねようが、草木の枝で傷を負っても足を止めることはない。



嘘だと思いたかった。



いや、今だに何かの間違いだと信じている。



それでも、この目で確認せずにはいられない。



ーーああ、同じだ。



彼女と、同じだ。



勝手に繋がりや絆のようなものがあると錯覚して、期待して、浮かれて、思い込んで。



そうやって、都合の良い幻想に囚われているうちに、ひずみが生じて、少しずつ壊れていくのを気付かずにーー。



崖の上に、見慣れた背中が見えた瞬間、安堵と同時に、裏切られたような衝撃が胸を締め付けた。



しかし、名前を呼ぼうと口を開いた瞬間、その姿が視界から消えた。



脳で理解するよりも早く、体が動いていた。



崖の下に手を伸ばし、渾身の力で受け止める。



掴んだ骨ばった腕が雨で濡れていて、滑りそうになるのを必死に耐えていた。








「‥‥何で、だよ」


「‥‥」


「何で、こんなことっ」


「‥‥」


「ーーじいさんっ!」




片手では限度がある。



捨て身ではあるが、足だけを命綱に両手で離さないよう握り直した。





「じいさんっ、おれの手を掴んで」


「‥‥」


「滑りそうなんだよ、早くっ!」


「‥‥離してくれ」


「嫌だ」


「離さないと、道連れになるぞ」


「絶対に嫌だ」


「‥‥頼む」




視界を遮るものが、雨なのか涙なのかもわからない。





「‥‥言ったのに。無人島を買っても、一緒に釣りをしようって」


「‥‥」


「じいさんも、おれを‥‥置いてくの?」


「‥‥すまない」




駄々をこねる子供のようだ。



自分の言葉には、死への道へと進む人を止める力はない。

 






「坊主に、気付かれないように逝くつもりだった」




そんなことの為に、よりにもよって、森林の奥底にある、自殺の名所と呼ばれる崖から、飛び降りようと。



断崖絶壁で、潮の流れが早すぎて、飛び込めば最後、遺体が絶対に見つからないから。






「楽に、させてくれ」


「‥‥」


「この老いぼれには罪が、重すぎて、背負いきれないんだ」


「‥‥」


「感覚が、麻痺していた。人を傷つける事も、利用する事も、騙す事も。全部全部、悪いことだと、絶対に許されないことだとーー気付くのが、あまりにも遅すぎた」


「‥‥」


「引退して、隠居して、この町に来て、坊主に出会って。争いのない、穏やかな日常の中で、俺は俺の醜さを思い知った」


「‥‥」


「出会った時期が少しでも違えば、坊主を普通の人間として見て、会話することもなかった」


「‥‥」


「同じなんだ。俺は、お前を苦しめてきた奴らと、同類なんだよ」


「じいさんが今までどんな人間だったか、どんな人生を歩んできたか、どれだけの人を虐げてきたかなんて、おれには関係ないんだよ!」


「‥‥」


「同類だろうが何だろうが、あんたはおれには何もしなかっただろ!」


「‥‥そうじゃない。そうじゃ、ないんだ」


「‥‥」


「確かに、お前には何もしなかった。だけどな、お前みたいなやつを散々虐げてきたのは事実だ」


「‥‥」


「気付かなければーーとは思わない、寧ろ気付けて良かったと心の底から思う」


「‥‥」


「気付かないことが、何よりの罪だ。だから俺は、この身を持って償うことができる」


「そんな、ことっ‥‥」


「悪いな、坊主」




力なく下げられていた手が、何かを掴む。



そして、向けられた銃口の意味が分からずに身を固めた。






「俺は、お前と一緒にいてやらない」


「何をっーー」


「どうか、幸せに」




それまで鉛のように重かった体が、嘘のように軽くなる。



掴んでいた片腕だけを残し、遥か下へと落ちていく体。



言葉にならない声が、断末魔のように鳴り響く。



自身の腕を撃ち落とし、黒い渦に飲み込まれていったその人に必死に手を伸ばした。



それでも、届かない。



自分の体が、思うように動かない。



発狂して、錯乱して、その拍子に掴んでいた片腕まで黒い渦に奪われてしまった。







何も分からない。



何も理解出来ない。






崖から今にも落ちそうで、反射的に海へと飛び込もうとした体はいつの間にか崖の上で、何かに押さえ付けられていた。







「ようやく思い知ったかい。

君が知る由もなかった〝絶望の味〟を」


「お前が、仕組んだのか」


「‥‥」


「満足かよ。おれから、全てを奪えて」




衝動的に身を投げ出そうとしたのを引き留めたのは、この世で最も憎い男だった。



心底不快なことに、こんな男の手によって命を繋ぎ止めたらしい。



怒るだけの気力もない、強い脱力感に奴の胸ぐらを掴んだ体勢のまま地面に膝を付いた。






「否定はしないけれど、彼を救えなかったのは他でもない君自身の無力さだよ」


「‥‥」


「まるで世界で一番不幸だ、と言わんばかりの顔をしているね」


「違う」


「‥‥」


「お前の言うとおり、思い知ったんだよ」


「‥‥」


「〝これ〟が今のジャンヌを作り出した元凶なんだろ」


「‥‥」


「これ以上の絶望を、ジャンヌは何度も何度も味わって心を封じ込めたんだ」




いつだったか、大切な人の命を自分の手で奪ってしまったと言っていた。



それが直接的な意味なのか間接的な意味なのかは聞かなかったけれど、そう断言するだけの理由があるはずだ。




「おれには、無理だ。耐えられない。こんな、目の前で死なれて、助けられなくてーー。その事実だけで、気が狂いそうなのに。お前が来なかったら、迷いもなく川に飛び込んで死んでたのに」


「‥‥」


「‥‥おれのせいで、おれの手で、ジャンヌが死ぬようなことがあったら、絶対に生きていけない」




初めから、殺せるはずがなかった。



死を願いながらも、死を選べないジャンヌを知らずの間に侮辱していた。



幸せにするとか、罪を許すとか、一緒に背負うだとか、軽々と口にした自分の愚かさが許せない。



大切な人が苦しんでいるのに、子供のように縋ることしか出来ない無力な自分が大嫌いだ。








「どうでもいいけど、ツケは払ってもらうよ」


「‥‥」


「賭けは僕の勝ちだ」


「‥‥」


「安心しなよ、君は幸せになんてなれないから」



首から下げた十字架を掴まれたことにより、黄色の瞳が間近に迫る。






「君は僕の傀儡だ」


「‥‥」


「君が持て余している能力を僕が有効活用してあげるよ」


「‥‥」


「僕には到底理解出来ない人の〝心〟というものを、君が言葉に訳し情報として僕に提示する」


「‥‥」


「君にはその程度の価値しか無いんだから、精々役に立ってね。ーールツくん」




無人島にジャンヌを連れて行く際に交わして契約。



ジャンヌが無人島に留まることを選べば、ジャンヌに関する情報を抹消し、万が一にも追っ手が来ないよう情報を拡散する。



ーーそして、選ばれなかったら、この男の元で働き続ける。



恐らくこの男は、彼女とも似たような賭けをしていたのだろう。







全てを見透かして、利用して。



そうやってこの男は、物事を思い通りに操っている。




今となってはどうでもいいことだ。



自分が酷く、無価値な存在に思えてならない。



大切な人の足枷にしかならない、所詮はただの通過点だ。



その事実は、奴の思惑とは関係がない。



もう、嫌だ。



何も考えたくない。



考えれば考えるほど、目の前が真っ暗になって胸が苦しくなる。



少しでも気を抜けば、今にでも崖から身を投げ出したくなる。



苦しくて苦しくて、息が出来なくなる。






何でもいい、誰でもいい。



必要とされるのなら、どこでもいい。






この苦しみから解放されるのなら、少しでも楽になれるのなら。







「ーー好きにすればいい」




相手が誰であろうと、手を取るしか無かった。







「おれにはもう、生きる意味なんてない」









「おい」




異変にはすぐ気が付いた。



たった一度、それも数分程度の能力の使用で蹲ったまま動かない青髪の青年の側に寄れば、苦しそうに胸の辺りを抑えながら苦痛の声を漏らしている。





「‥‥すみ、ません」



地面に跡を残すほどの汗で、青年の髪が血の気の引いた顔に張り付いている。






「すぐに、治るので」




何かがおかしい。



オーバーヒートにしても、使用量と反動の大きさが釣り合っていない。




それにーー。







「‥‥いつからだ」




僅かに服の間から漏れる光の正体は、指先から心臓の辺りまでに伸びた鎖の刻印だった。




「い、いや。嫌です、嫌ですっ」




急に声を荒げたと思えば、異常な力で腕にしがみ付いてくる。






「捨て、捨てないでくださいっ!」


「‥‥」


「お、俺はまだ戦えますっ」


「‥‥」


「捨てるくらいなら、今ここで、カナセさんの手でっーー」


「落ち着け」




両肩に手をのせ、焦点の合っていない怯えたように揺れる紫の瞳を見つめる。






「いずれ壊れるのは想定内だった」


「で、でも、俺はまだっ!」


「俺の言っている〝壊れる〟というのは、使えなくなった時の話だ」


「‥‥」


「今のお前は〝壊れかけ〟に過ぎない。生きているうちは使い潰すまで使ってやる。そういう契約だろ」




青年の生まれ育ってきた環境を考慮すれば、そういう思考回路になっても仕方がない。






「ほら、もう治った」




いつの間にか刻印は消えていた。



それに安堵したのか、途端に気を失った青年を受け止めると、次第にやつれていく頬を撫でる。








「壊れるのも、時間の問題か」




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