第18話






「寒くない?」


「大丈夫」


「やっぱり、戻ってブランケットも」


「ルツの貸してくれた上着があるから」


「でも、これ薄いし」




見せたいところがあるからと言われるままに目を閉じてルツに連れていってもらっている途中で、両腕に抱えた私の素足に掛けた自身の上着を確かめるように触りながら、「やっぱり薄いよと」と呟く。



私との貴重な時間を寝過ごしてしまったと酷く落ち込むルツを励ます為に、おばあさんからもらった白のワンピースを着せて見ると凄く喜んでくれた。



けれど、普段肌を出す服を着ないせいか、ルツの目には寒そうに映るらしい。



〝強化〟を使った時に現れる刻印や、傷が瞬時に治る様子を他人に見られないようにする為に肌を隠しているだけで寒がりというわけではないのだが、事情を説明するわけにはいかない。






「ルツ、体温高いから」


「うわっ、それあいつが聞いたら『子供の体温は高いからね』って嫌味ったらしく口を挟んでくるよ」




嫌い、大嫌い、と言う割には口を開けばヨルの悪態ばかり吐く自覚はルツにはないらしい。






「天気はいいけど、風が強いな」


「夜だから、仕方ないよ」


「一応毛布とかは向こうに用意しておいたから、もう少しの辛抱だよ」



海風が吹くと、草木の揺れる音がする。



瞼の中にまで、光が差し込んでくる。



それほどまでに、まばゆい光。



海から家までの道を照らす街灯よりも明るく、広い範囲が光で照らされている。







「いいよ、ルナ」




あまりに眩しくて、ゆっくりと瞳を開ければーー。



空には、言葉では言い表せないほどの煌びやかで美しい光景が、人一人の視界では見切れてしまうくらいに広がっていた。



空を覆い尽くすほどの、何千何億と多種多様に光を放つ星々。



色も、明るさも、輝きも、一つ一つが全て違う。



この空全体が、まるで宝石箱のように輝いてーー。






「‥‥これが、ルツが私に、見せたかったもの?」


「うん。だけど、これだけじゃないんだよ」

 



「ほら」と笑うルツと私との周りには、蕾の付けた銀色の小さな花が広がっていた。







「おれが本当に見せたかったものは、これからなんだ」




月光を浴びた花が、次々と蕾をひかせていく。



やがて、一斉に金色の綿毛を飛ばし、まるで蛍のような暖かくて柔らかな光を放ったまま辺りを漂うその様は、幻想的なまでに煌びやかなものだった。







「名前は知らないんだ。勝手に、〝月の花〟と呼んでいるけれど。言葉の通り、月の光を浴びて一斉に咲くから」


「‥‥」


「銀色の花びらに、金色の綿毛。こんな偶然、そうそうないよ」


「だから、ルナなの?」


「一目見た時に思った。この花は、この光景は、ルナに見せる為にあると。だから必ず、連れて来なければと思った」




今の世の中は以前は栄えていた街も、廃れて廃ビルばかりが無造作に並んでいる。



道を整備する機関もなく、街灯も次第に消耗しやがて街から灯りは消えた。



〝主〟は、貧困に追いやった人々に労働を強いて武器ばかりを作らせて、工場から汚染物質を垂れ流しにしている。



その際で、大気は汚染され空気は淀み、星なんて殆ど見られない。



今この瞬間にも、飢えや病、〝主〟の支配によって数え切れない人の命が理不尽に奪われている。






死体なんて見慣れている。



腐敗臭なんて嗅ぎ慣れている。



どんな残虐な光景も、耳を覆いたくなるような悲痛も嫌になるくらいに聞き慣れている。



喉を掻っ切りたくなるほどの苦痛も、生まれてきたことを呪いたくなるくらいの悪意にも、慣れている。



慣れなければ、生きていていられなかった。



耐えて耐えて、それが日常だと自分に言い聞かせなければとても生きようとは思えなかった。



そんな苦難に見舞われる内に皆、下を向いて息を殺して存在を隠して自我を殺して、命あるだけの亡霊に成り果ててしまっている。







こんな景色が、その人達の視界にも一瞬でも映ればいいのに。



光がなければ、希望など持てない。



希望がなければ、絶望には打ち勝てない。



陽が登らなければ、夜は明けない。






奴らが現れてからというもの人々は皆、闇の中に閉じ込められて虐げられ続けているのだ。



光を見るとも、希望を抱くことも許されず、恐怖と絶望だけに苛まれて。



まるで、この世界の光を全て集めたような場所だ。






「ここには、ルナを害するものはないよ」




手を引かれるままに身を起こすと、膝から落ちた毛布を肩に掛けられる。



花を集めて冠にすると、私の髪を優しく梳きながら頭にのせる。






「ここなら、ルナの〝帰る場所〟にもなれる」



両手を握ると、陽だまりのように微笑んだ。






「おれは、ルナの罪ごと受け入れるよ」




ルツは知らない。






「おれだけは、ルナの罪を命尽きるその時まで許し続けるよ」



何も、知らない。






「罪を償う時がきたら、地獄の底だろうと一緒に着いて行く。絶対に、ルナを一人にしない。だからーー」




私にとって、〝生きる〟ということが、何よりの贖罪であることを。












「おれと生きよう。この場所で、いつまでも」





祈るように、握り締めた私の両手を額に当てて目を閉じる。そして、何かを決意したように顔を上げると額にそっと唇を落とした。



それはまるで、何かの神聖な儀式のようにーー。










泣いてる。




少女が、泣いている。



15にも満たない小さな少女が。



喉を枯らすほど泣き叫びながら、赤黒く染め上げられた肉塊に縋るようにしがみ付いている。



その真後ろでは、誰かが狂ったように高笑いをしていた。



少女の震える手から落ちたのは、冷たく重い銃だった。




ーー知っている。



その感触も、この光景も。



目を閉じれば、すぐにでも思い出させる。



薄れることのない生々しい記憶。



一つ違うのは、その光景を俯瞰していることだけ。



それが何を意味するのかは、私には分かる。






「‥‥差し伸ばされたその手を、掴むべきではなかった」



具現化させた大剣を、少女のか細い首元に容赦なく突き付ける。



涙に濡れた黄金の瞳を向けられても、躊躇はしない。







「殺したのは、あなた。他でもない、私自身」




剣を握る手に力を込める。



〝切り捨てろ〟と言っているのだろう。






「最後の光を殺した私に、〝あなた〟の存在は許されない」




捨てきれなかったものを、今ここで。








「許せない、許さない」




呪ったのは、他ならぬ自分自身。









「消えろ」




幼き幻影を切り捨てれば、残ったのは呪いだけだった。





人間だった頃の私は、すでに死んでいる。




今の私は、呪いを受けて彷徨う亡霊に過ぎない。




だから。









「ーーさようなら、ルツ」


「‥‥どう‥‥してっ」


「戦うのは、救われたいからじゃない」


「‥‥」


「罪を背負うのは、許されたいからじゃない」


「‥‥」


「償いたいとも、償えるとも思っていない」


「‥‥」


「私は、待っているの」


「‥‥」


「その時が来ることを、待っているの」


「‥‥その時?」


「終焉」


「‥‥」


「私という存在の、終わりを」


「‥‥それならっ!」




私に覆い被さったルツが、涙を流しながらナイフを握り締める。







「おれに願ってよ!望んでよ!」


「‥‥」


「夢の中で何度も願うくらいなら、今ここでおれに望んでよ!」


「‥‥」


「ジャンヌが望めば、おれはっーー」


「‥‥」


「おれ‥‥はっ」






聞かれて、いたのか。



死を願う、奥底に沈めた本心を。







「ルツには、出来ない」


「出来るよ!ジャンヌが望むなら、おれはどんなことだってっーー」


「ううん、出来ない」




震えるルツの手からナイフを受け取ると、頭を撫でで胸元に引き寄せる。







「私が生き絶える前に、ルツの心が壊れてしまう」


「‥‥っ」


「それに、私には呪いがあるから」


「呪‥‥い?」


「いつか来るその時まで、戦い続ける呪い」


「‥‥」


「私はその呪いに動かされているだけの、ただの傀儡」


「‥‥」


「人の形を真似ているだけの、化け物の亡霊」


「‥‥」


「だから私は、人として生きることはできない」


「‥‥っ」


「これから先、何があっても、ルツに何かを望むことは決してない」


「ごめんなさい。期待させて、惑わせて。最後まで責任を持てないのなら、あの日、あの夜、あなたに関わるべきでは‥‥なかったのかもしれない」


「そんなこと、ない」


「‥‥」


「そんなこと、言わないでよっ」


「‥‥」


「誰でも良かったわけじゃない。檻の中から逃げ出して着いて行ったのは他の誰でもない、ジャンヌだったからだよっ」


「‥‥」



「ジャンヌはおれを檻の中から救い出してくれた。居場所を、生きる術を教えてくれた。暗闇に怯える夜は側にいて、抱きしめて、大丈夫だよって、安心させてくれた」


「‥‥」


「‥‥それなのに、おれはジャンヌに何もしてあげられなかった、ジャンヌの為だなんて綺麗事ばかり並べておいて、最後まで自分のことしか考えていなかった」


「‥‥」


「弱ってるジャンヌを見て、今ならもしかしたらーーなんて、一瞬でも魔が刺してしまった自分が許せない」


「‥‥」


「今までずっと、ジャンヌに大切に守られてきたのに、何でこんな最低な人間になっちゃったんだろう‥‥」


「‥‥もしかしたら、と思ってしまった」


「‥‥え?」


「私に、罪がなければ。少しでも、歩んできた道が違ったらーー。もしかしたら、この場所でルツと暮らす選択肢も、あったのかもしれないと」


「ーーっ」


「そう思ってしまうくらいに、この場所は綺麗なんだと思う」


「‥‥」


「それだけで、私には意味があることだった」


「‥‥」


「それに、ようやく分かったから」


「‥‥何が?」


「私が捨てきれなかった感情の正体は、人を救いたいという邪念だったことに」


「‥‥」


「それは、ルツと出会って、共に過ごすうちに、次第に大きくなっていった。そして、いつしかその邪念に囚われて身動きが取れなくなった」


「前にルツが、私には感情が無いんじゃなくて、表に出てこないように押し殺しているだけって言っていたけど、その通りなんだと思う」




深海に沈められた、何重にも鎖の巻きつけられた扉の中にそれはあると。





「今の私の心は、どんなふうに映る?」


「‥‥鎖が擦れ合っていたのが、止まった」


「そう」


「‥‥」


「ねぇ、ルツ」


「‥‥うん」


「終わりにしよう」


「‥‥」


「私は、もうあなたを助けたことに罪悪感も義務感も抱かない。だからルツも、私への恩返しの為に生きるのは、もうやめて」


「‥‥」


「自分の為にだけに生きて。それが、私からの最初で最後のお願い」


「‥‥分かってる。約束だから」


「‥‥」


「ジャンヌの前に現れるのは、これで最後。だからっ。ーーだから、もう少しだけ‥‥このままで」



いつまでそうしていただろう。




いつもと違う、弱々しい力で静かに抱きしめられていた。




「これを、ルツに」




首元から取り出した十字架のネックレスを、躊躇なくルツへと差し出す。





「でも、これ‥‥」


「これは、証」


「‥‥証?」


「ルツが私にしてくれたことが、無駄じゃなかったという証」


「‥‥」


「大切な人の幸せを願うためのお守り。大切だった人から貰った形見だった。私に付ける資格はないけれど、その人の最期の思いまで無下にするようで、ずっと手放せずにいた」


「おれが、持っていていいの?」


「ルツに持っていてほしい」


「‥‥」


「私に残っているのは、ルツにあげられるものは、もうこれだけだから」


「‥‥っ」


「この島での思い出も、捨てきれなかったものも。全て、この場所に置いていく」



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