第17話
また、知らない天井だ。
木面状の天井に、白のシーリングファン。
月形のテーブルランプが部屋を暖かに照らしている。
少しだけ開いた窓から、潮の匂いが入ってくる。
どうやら、眠っている間に目的地に着いたようだ。
ベットの横の椅子に腰掛け、私の心臓の辺りに顔を伏せて眠っているルツを起こさないように起き上がると、窓の前に立った。
オーシャンビューで豪華な内装から無人島というよりも、リゾート地に近い。
澄んだ穏やかな海が、静かに波の音を立てている。
『自家発電で電気とか水道もあるんだ。元々リゾート地で擬人無人島みたいな感じで使われてたみたい。まあ、多くの人が奴らの支配下に置かれて貧困に陥ったことで、ぴたりと客足が途絶えて売り出されたところを、じいさんが買ったんだって』
船の上で、ルツが事前に教えてくれていたことを思い出す。
ーー海、島、船。
それらはあの悪魔のような記憶を呼び起こさせるが、不思議と重なりそうで重ならない。
全く別の場所だと、感覚的にも理解している。
「‥‥ルナ?」
寝起き特有の掠れた声を出すと、甘えるように後ろから腕を回して私の肩に頭を乗せる。
「何、見てるの?」
意識がまだ覚醒し切っていないのだろう。
「船を」
「船?」
「岸に、船があるのかどうか気になって」
「どうして?」
「‥‥分からない。分からないけど、気になって」
「小舟ならあるよ。それに連絡を入れれば、すぐにおじさんが迎えに来てくれる」
「‥‥そう。なら、良かった」
「‥‥ん」
「眠いの?」
「‥‥うん」
「寝ないの?」
「‥‥うん」
「ルツ」
「‥‥うん」
このまま眠ってしまいそうなルツをベットに誘導すると、手を引かれて腕の中に閉じ込められてしまった。
「‥‥ルナって、体温低いよね」
「‥‥」
「でも、こうしていると胸の辺りがポカポカする」
ーーそういえば。
ルツを連れ帰った日から、物心付くまでこうして一緒に寝ていたんだ。
あの薬を飲むと完全に意識が無くなってしまうから、度々起きては私がいることを確認する癖のあったルツの為に一晩中寝ずに過ごしていた。
「‥‥ルナの匂い、落ち着く」
擦り寄りながら微笑むルツは、昔のままだった。
「ーー大好きだよ、〝ジャンヌ〟」
それはきっと、無自覚な本心。
幾ら人の名で呼んだところで、私に対する信仰心は簡単には覆らない。
ルツの中での私は、ジャンヌダルクのまま。
一度救われたという恩義だけで、眩惑に崇拝せずにはいられない、雛鳥への刷り込みと何ら変わらない謂わば洗脳のようなものだ。
枕元のサイドテーブルに置いていた絵本を手に取ると、シュリンクを外して中を開いた。
「‥‥夢の叶う世界へ」
無意識に題名を口にすると、ページを捲った。
中のイラストも、表紙と変わらない美しい水彩画で描かれている。
【少女と獣】
〝言葉を知らぬ獣は〟
一生消えないほどの深い傷を全身に負い、薄汚れ毛むくじゃらな黒い獣だ。
〝悪意に満ち溢れた世界で、地を這うように生きてきた〟
〝感情も、自我も、自分の名前すら持たずに虐げられ続けた〟
〝ある日獣は、自分よりも大きな生き物達によって再起不能なまでに痛め付けられた状態で攫われる〟
〝狭く暗い檻の中の中で目を覚ますが、起き上がることも出来ないほどに衰弱していた〟
〝家畜に餌をやるように、地面に投げ捨てられ
たものを食べる気力すらなかった〟
〝薄れゆく意識の中でも、死への恐怖も、生への執着も皆無だった〟
〝獣は知らない。生も死も、苦痛以外の感覚も〟
〝失いかけた視界に、何かが映る。小さくて細い、獣を檻に閉じ込めた生き物と同じ姿の何かが〟
黒い髪に、黒い瞳で、何故か黒く塗り潰された少女の顔。
獣には、少女が人間であることすら分からなかったのだろう。
『‥‥大丈夫、だよ』
〝顔の見えない小さな生き物が、何かを言う〟
〝だが、言葉を知らない獣には、意味を理解することは出来なかった〟
〝ゆっくりと近づいて来る生き物を、最後の力を振り絞って突き飛ばす。だが、壁に打ち付けられ赤い液体を流しながらも、生き物は足を止めない〟
『‥‥大丈夫。大丈夫、だから』
〝ゆっくりと、震える手を伸ばしてくる〟
〝少女が目の前にしゃがみ込むと、獣は咄嗟に目を閉じた。しかし、想像とは相反する感覚に獣は動揺する。背中に何かが触れて、全身が何かに包まれていた〟
〝知らない感覚だった。冷たいコンクリートでも、痛みを伴うものでもない〟
〝その小さくて細い手は、優しく背を撫でてくる〟
『ーー大丈夫』
〝繰り返し続けられる言葉に、言葉を知らない獣は次第に胸の辺りが痛み、言葉にならない声が喉から溢れた〟
〝やがて、獣は生まれて初めて涙を流したのであった〟
◇
「‥‥ルナ、何してるの?」
眠そうに目を擦りながら台所を覗き込んだルツが、驚いたように瞬きを繰り返す。
「え、料理?‥‥作れたの?」
「一応」
「めちゃくちゃ美味しそう」
「冷蔵庫に入ってあるものを使わせてもらったけど、問題はなかった?」
「大丈夫、それじいさんが気を遣って用意してくれてたやつだから。寧ろ使わないと拗ねちゃうかもね」
何の変哲もないごく一般的な朝食だけど、子供のように目を輝かせながら美味しいと何度も言ってくれた。
「あいつの作る料理って、味が単調過ぎるから飽きるんだよね。なんか毒盛られそうだし、これからはルナが作ってくれたらいいのに」
「‥‥幾らヨルでも、毒は盛らないと思う」
「毒じゃなくても自白剤とか痺れ薬とか、少なくとも身体に害があるものは少なからず入ってると思うよ」
散々な言われようだが、彼を庇うほどの根拠も信用もないのも確かだ。
「ヨルが嫌い?」
「うん、死ぬほど」
「‥‥」
「あいつもおれのこと嫌いだろうしね。ルナがいない時とか嫌味しか言われないし。まあ、あんな陰湿根暗野郎に何と思われようが心底どうでもいいけど」
「‥‥」
「おれはルナさえいればいいから」
「‥‥」
「‥‥ルナは、おれの」
うとうととし始めると、箸を持つ手の力が弱まり、テーブルの下に音を立てて落ちた。
「ルツ」
椅子から落ちそうな勢いだ。近寄って体を支えると、その手をぎゅっと掴まれる。
「いか‥‥ないで」
「‥‥」
「どこにも、いかないでよ」
「‥‥」
「‥‥おれの、側にいて」
ーーいっそ。
いっそのこと。
この化けの皮を剥がして、全てを見せればいいのだろうか。
私の本当の姿を見れば、この能力の正体を知れば、少なくとも今までと全く同じような目で私を見ることは出来なくなるだろう。
だけどそれは、私とルツの関係の収束には必要ないことだ。
この能力を、ルツを遠ざける口実に利用してはならない。
ルツが能力者である前提もあるが、所詮は言い訳でしかないからだ。
例えどんな複雑な心境であれ、ルツはきっと受け入れてくれるだろうから。
私が、人の姿を真似ているだけの、醜い怪物だと知っても。
恐れこそしても拒絶はしない。
ルツはそういう子だ。
だから、だからこそ、私はーー。
『やあ、そろそろだと思っていたよ』
ルツは一度熟睡すると、側を離れない限りは目を覚さない。
ジャンヌの側だと安心するからと、どうか嬉しそうに言っていたが、実際のところは分からない。
『答えは、決まった?』
「最初から」
『‥‥ルツくんにとっての君は、まさに〝魔女〟と言えるだろうね」
「‥‥」
『不満かい?』
「いいえ。そう呼ばれて当然だから」
『なら、僕は?』
「猫」
通信機越しに、クツクツとヨルが笑う。
『例の報酬については、僕の方で手配を進めておくよ。それじゃあ、隣で寝ているであろうルツくんを起こして突っ掛かられるのも面倒くさいから、この辺りで御暇させてもらうよ。いい夢をーー〝ルナ〟ちゃん』
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