第15話






見知らぬ天井だ。



思考が纏まらず、暫くの間天井の木面を見上げていた。



締め切られているカーテンの隙間から、月明かりが差し込み、私の手を握ったまま眠っているルツの寝顔を照らしていた。






「‥‥ん。おはよう、ジャンヌ」




眠そうに目を擦りながら、下がってくる瞼を一生懸命開けようとしている。





「寝てていいよ」


「眠くない」




寝癖を直そうと髪を撫でると、気持ち良さそうに目を細める。



もっとと頭を差し出して喉でも鳴らしそうな勢いで、握った手の指を動かす姿は猫のようだった。





「眠れた?結構狭いけど、あの趣味の悪い地下室よりはマシだよね」


「ここは?」




敷布団に折り畳み式のテーブル。



見たところ民家の一室のようだ。






「おれの下宿先。下が定食屋なんだ。強盗に入られたところに偶然居合せて成り行きで助けたら、そのお礼にって2階の空き部屋貸してもらっている」


「‥‥そう」





今までどこで寝泊まりしていたのかすら知らなかった。



これではヨルに興味がないと言われても仕方がない。





 



「お粥作って貰ったから良かったら食べて」




いつも通りの味のしない食事。



それでも、少しだけ体が温まった気がした。




食器を下げに降りていったルツの様子を階段の上から眺める。



外に出る時はいつもカラーコンタクトを付けてオッドアイを隠しているが、素顔のまま無表情ながらも人の良さそうな顔をした女将さんと気軽に話していた。



良かった。



私に依存しすぎて他の人との関わり避けているのかと思っていたが杞憂だったらしい。



これなら安心だろう。



安心して、ルツの前から去ることが出来る。




気分転換になればと少しだけ開けてくれていた窓の外に出る。



ネモフィラのイヤーカフを装着すると、端にあるスイッチを押す。






『そろそろ掛けてくる頃だろうと思ったよ。どうかな、少しは頭が冷えたかい?』


「取引は?」


『無事に終わったよ。襲撃犯は拷問の最中に自害したってことになってるよ。ああ、勿論君のことね』


「ヨル。私と、取引をしてほしい」


『取引っていうのは、お互いに利害が一致しないと成立しないものだよ』


「全てあなたの思い通りにする。これまで通り、いいえ、これ以上に依頼を受ける。報酬はいらない、情報も全てあなたに渡す。今までと違って依頼の選抜も一切しない。あなたの個人的な仕事にも協力する。だからーー」


『〝主〟の情報を渡せって?また闇雲に潰して回るから?』


「‥‥」 


『殺し屋やら賞金目当ての一般人が君を血眼になって探し回っているような状況で、依頼なんて来ると思う?』 


「‥‥」


『はっきり言わせてもらうけど、今の君は足手纏いの厄介者でしかない。地雷原のような君には匿うほどの価値なんてない』


「‥‥」


『本来なら君の情報でも売り飛ばして一儲けしてから関係を断ち切るところだけど、残念ながら契約があるからね』


「‥‥なら、依頼は受けないから〝主〟の情報を渡して。アジトを潰せば、あなたにとって意味のある情報の1つや2つくらい手に入る筈」


『それは潰せたらの話でしょ』


「追っ手がどれだけいようがアジトくらい潰せる」


『たった一人の、それも非能力者に負けた君が何を言ってるのさ』


「それは、相手が悪かっただけで」


『いい加減認めなよ、君は無力だって』


「‥‥っ」


『幾ら能力者とはいえ、君一人に出来ることなんてたかが知れている』


「‥‥どうしたら、いいの。どうしたら、私が使い物になると判断する?」


『一つ、僕と賭けをしようか。君にとっても、そう悪い話じゃないはずだよ』


「‥‥」


「ジャンヌ」


「‥‥」


「ジャンヌ?」

 



通話を終えた後、ベランダで立ち尽くす私は、肩を掴まれるまでルツの存在に気が付かなかった。



敵襲かと思い反射的に手を振り解くと、ルツの抱えていた救急箱から消毒液が飛び出した。



その拍子に中身が溢れて、勢いよく私目掛けて飛び散る。





「ご、ごめんなさい」


「おれは大丈夫だよ。ごめんね、急に声を掛けて。びっくりしたよね。今拭くものを」




いつもなら、平気だった。



今更、この程度で動揺なんてしなかった。



その、噎せ返るような薬品特有の刺激臭に鼻を通して脳が支配される。






「‥‥ジャンヌっ!」




急にふらついた私を、ルツが慌てて支える。



反射的に縋るように、その腕を掴みながら何とか冷静さを保とうとする。






「‥‥‥い」


「どうしたの!?」


「消し‥‥て」


「何を」


「‥‥匂い‥を」


「匂い?消毒液のこと?」


「お願‥‥い。早くーー」





ーー視界が、歪む。



酷い船酔いをしたように急激に気分が悪くなり、気付けばその場で嘔吐していた。
























ゆらゆらと揺れている。




そこは一面、ガラス張りで。




絶対に逃げ出せない、強靭な檻。








誰かが、見ている。



水流に身を任せることしか出来ない、無抵抗な体を。







誰かがーー。










胃液だけを吐き続けるジャンヌの様子は明らかに異常だった。



焦点の合っていない虚ろな瞳に、痙攣する体。



まるで、体と心が切り離されるようだ。



泣くことも、苦しむことも、悲しむこともなく、機械的に吐き続けるジャンヌを前に掛けるべき言葉は見つからなかった。






「体、動かすよ」



慎重に抱えると足早に風呂場へと向かう。



どうやら、アルコールの匂いに原因があるらしい。



シャワーで洗い流す最中も、爪が食い込むほどに握り締められた手はあまりに痛々しかった。



気を失ったジャンヌの体をただ抱き締めることしかできない自分に吐き気がして、血が出るほどに唇を噛み締めた。






「ごめん。‥‥ごめんね」




ジャンヌに謝られる資格はない。



責められるべきなのも、謝るべきなのもおれの方だった。



おれは、ジャンヌのことを〝ジャンヌダルク〟という概念でしか見ていなかった。



おれにとってのジャンヌは、神様そのものだった。



孤独な闇の中から救い出してくれた、誰よりも強くて綺麗で優しい聖女そのものだった。







ーー知っていたくせに。



ジャンヌの望みを、ジャンヌの苦痛を。



きっと、ジャンヌ自身も知らずのうちに漏らした本心を、聞いていたくせに。






黒猫に来た当初、闇を怖がるおれを抱き締めて眠ってくれていたジャンヌ。



あの男の〝睡眠薬〟がないと安眠できないジャンヌは、無理をしておれの側にいてくれたんだ。



いつ目を覚ますか分からないおれのために、薬を飲まずにいたジャンヌは度々魘されるように寝言を言っていた。



喉から搾り出すような声は、言葉を知らないおれには理解できなかった。



けれど、今なら分かる。



今になってようやく、理解出来た。



いや、理解しようとしなかったというべきだろうか。







『羨ましい』




許しを乞う男を、無惨に殺したジャンヌ。





『罪人でありながらも、死を迎えられる貴方が、とても』



息の根を止めるその瞬間、口にした言葉。









そして、度々漏らしていた夢うつつの呻き声。










『‥こ‥ろ‥‥して‥っ』






ジャンヌは、死を願っている。



死ぬことを、望んでいる。








おれは、知らない。



何も、知らない。






自分の本当の名前さえも忘れてしまった少女のことを。





助けを求めることも、救いを求めることもせずに、ただ死だけを望む彼女のことを。








圧倒的な力。神秘的な美貌。



人間離れした、一切の欠点の無い完璧な人間だと信じて疑わなかった。



馬鹿みたいに崇拝して、彼女から垣間見れる影を見落としていた。






彼女は、神でも聖女でも、ましてや〝ジャンヌダルク〟でもない。



彼女は人間だ。



ただの人間だった。







心を、感情を、扉の中に固く閉ざして、鎖を何重にも巻き付けて、一番深いところに沈めていなければ生きていけないような、おれには到底理解できないものを背負っている。






彼女はそんな状態でも、道具でしかなかったおれに人間である自覚を持たせるほどの、優しさを持っている。






それなら、心を閉ざす前の彼女は、一体どれだけ温かい人だったんだろう。








作り物のように変わらない表情が、花のように綻ぶこともあったのだろうかーー。










「一緒に行こう」



絞り出すような頼りなくてか細い声だった。




膝の上で、私を包み込むようにして抱き締めているルツの表情は、亜麻色の髪に隠れてよく見えない。





「どこに、行くの?」


「‥‥」


「‥‥ルツ」




目に掛かる前髪に触れると、顔を見られない為か少しだけ体を私から離した。



きっと、泣いたばかりの顔を見られたくないのだろう。



夢現に、啜り泣く声が聞こえたから。






「1日だけでいい」


「‥‥」


「連れて行きたい場所があるんだ。言葉では、言い表すことのできない場所なんだ」


「‥‥」


「恩を返し、だと思ってさ。恩さえ返せれば、おれも心の整理がほんの少しだけ出来る気がするんだ」


「‥‥」


「こんなことで、返せるような恩じゃないけど。‥‥おれが、恩を返せば返そうとするほど、色々と迷惑を掛けることになると、分かったから」


「‥‥」


「お願い。側を離れて、独り立ちするだけのきっかけが欲しいんだ。それがないと、とてもじゃないけど、離れられないーー」 


「‥‥」  


「これ以上、重荷になりたくない。‥‥気を、煩わせたくない」




ルツは聞いていたんだ。



あの日の、私とヨルの会話を。



聞いて、しまったんだ。



やがて諦めたように項垂れたルツの頭を引き寄せると、優しく抱き締めた。






「連れて、行って」


「‥‥本当に、いいの?」


「うん」


「ーーあり、がとう。ありがとうっ‥‥」






 

お礼を言われる資格なんてない。



これは全て、目的のため。



ヨルとの、取引のため。








ーーああ、こうやって、私は。



知らずのうちに、ルツのことを私利私欲の為に利用していたのか。











『賭けの内容は簡単だ。君はただ彼の〝願い〟を叶えてあげればいい』





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