異端

第8話




「話があるの」




ルツと別れて黒猫に戻ると、バーカウンターでグラスを磨いていたヨルと対峙する。






「やあ、おかえり。そろそろ来る頃だろうと思っていたよ」




椅子へ座るよう促しながら手早く烏龍茶を差し出したヨルは、話の内容を大方予想しているようだった。







「僕に話があるとすれば、依頼のことか、〝主〟のことか、ルツくんのことくらいだよね」


「‥‥」


「まあ、考えるまでもなく後者なんだろうけど。ーー今夜のこと、怒っているの?」


「怒っているわけじゃない」


「へぇ。まあそうか。君は怒るなんて感情を持ち合わせていないんだったね」


「どうしてルツをあの場に来させたの」


「単純に僕の興が乗ったからさ」


「興?」




三日月型に歪む瞳は、怪しい光を帯びていた。







「ーー彼が崇拝する君が、悪魔のような行いを平然とやってのける姿を見て、どんな反応をするのか気になったんだ」



この人は、初めて会った時からそうだった。




「それに、いい加減親離れさせたい僕としては、手っ取り早い手段だった。君の本性を知り、幻滅するのか、裏切られたと嘆くのか、或いは受け入れるのかを確かめられるしね」





常識など通用しない。



彼の行動原理は、情報としての価値があるか、興が乗るかどうか、ただそれだけだ。






「憧れが失望に変わる瞬間、愛情が憎しみに変わる瞬間、それは実に滑稽で興味深いものさ」





彼は時より、会話中に親しみやすそうな態度をとることもあるが。







「人間ってさ、本当に面白いよね。生きている限り誰かを愛して、同じくらいに誰かを憎まずにはいられない」




その実、本質は常人のそれとは異なる。






「どれだけの財産を持っていても、破産するのは一瞬。幸福で何不自由なく生きていても、たった一度の過ちで地の底まで落ちぶれる。元がどれだけの善人でも、きっかけさえあれば簡単に悪人になり得る」





狂っている。



否、彼の実態はそんな単純なものではない。






「可笑しくて愚かで滑稽。そんな無数の人間を傍観して記憶してきた僕だからこそ。君に対してずっと感じていたことがあるんだ」





全てを見透かすようなヨルの瞳。



初めて対峙した時から、その瞳が得意では無かった。











「ーーねえ、君ってさ」



静かに距離を詰めながら、猫のように笑う。





「ルツ君のこと、本当は心底興味ないでしょ」






問うでもなく、確認するわけでもなく、初めから決定づけた物言いだった。





「‥‥どうして、そんなことを」


「いや、自覚が無いみたいだからさ」


「‥‥」


「例えば、そうだな。最近身長が伸びたことは?」


「‥‥」


「なら、髪を切ったことは?」


「‥‥」


「じゃあ、最近バイクに乗るようになったことは?」


「‥‥それは、知る機会がなかっただけで」


「やっぱり、自覚ないんだ」


「‥‥」


「機会がなかったとかそういう問題じゃないと思うんだよ。2年以上の付き合いにもなるんだし、君に少しでも関心があれば知り得たことだ」


「知る必要が、あるの?」


「へぇ。仕事ぶりについては頻繁に聞いてくるのに、ルツ君自身のことは知る必要がないと?薄情だねぇ」


「‥‥」


「危ない目に合ってないか、失態を犯したりしていないか、他者を殺めたりしてないかってさ。一見は過保護な母親のようだけど、本質は全く異なる」


「‥‥」


「今だって、君を心配するルツ君を置き去りにして、真っ先に僕の元に来た」


「‥‥何が言いたいの」





作り物じみた表情がすうっと消える。



細められた黄色の瞳は、少しも笑ってなどいなかった。





 

「要するに君は、ルツ君を人間として見ていないんだよ」


「何を」


「君はルツ君を介して、全く別のものを見ている。だからルツ君の外面には触れるのに、その実内面には目を向けることもしない」


「‥‥」


「〝個〟がなければ人は人とは呼べない。〝人間〟というただの概念でしかない」


「‥‥意味が」


「分からないはずがないよ。だってこれは、君自身の話なんだから」


「‥‥」


「初めこそは違ったかもしれないけれど、今の君にとってのルツ君はただの概念だ」


「‥‥」


「君が〝人であることを捨てきれなかった事実〟というね」


「‥‥」


「ルツ君を見る度に、思い知らされるんじゃないの?」


「‥‥」


「自分が化け物の皮を被った人間であることを」


「‥‥」


「君は自分を化け物だと暗示をかけているんだ。そうすれば、余計なことを考えずに済むからね」


「‥‥」


「ーーねぇ。あの日、どうしてルツ君を助けたの?」


「‥‥私は」


「助けたつもりはない?勝手に着いてきただけ?それとも、能力者であることを見込んで?」


「‥‥」


「違うでしょ。そもそも、ルツ君が能力者であることを知ったのは後日だったしね」


「‥‥」


「君があの親子に肩入れした理由も、あの恋人に無駄な助力をしたことも、意思疎通さえできなかったルツ君を僕の条件を呑んでまで保護したことも」


「‥‥」


「全部全部、君が人であることを捨てられず、感情を完全に消すことができず、無意識に、或いは本能的に、他ならぬ君自身が〝助けたい〟と思ったからだ。僕には理解できない感情だけど、〝同情〟とも呼ぶのだろうね」


「それでも。私は、能力者だから」


「能力者だから人間じゃない?人間じゃなくて、化け物だって?君さ、それルツ君を前にしても同じことが言える?」


「‥‥」


「能力を言い訳にしているだけだろう。ジャンヌダルクなんて呼ばれ慣れて忘れているかもしれないけれど、君は所詮能力を持っているだけの17そこらの少女に過ぎない」


「‥‥」


「君は今、焦っているんだろう?僕と出会う前にも行き詰まって、僕と出会ってからも大した成果もなく、目的ーーいや、使命に一歩たりとも近付けていないから」


「‥‥」


「そこで君は、個人の依頼を受けることで自分の力量を測った。〝確かめたいこと〟って言っていたけれど、あれって、自分では主を相手にするどころか、主に虐げられている人々さえも、誰一人として救えないのかもしれないと危機感を覚えたからじゃないの?」


「‥‥」


「まどろこしいからはっきり言わせてもらうけれど、今の君では使命とやらは永遠に果たせやしないよ。同情心からルツ君を助け、何の利益もないのに自分の感情に任せてルツ君を助けた事実から目を背ける為に、無意識にルツ君を遠ざけて傷付けるような君には」


「‥‥」


「ルツ君を突き放すことも受け入れることもできず、自分からの悪影響のせいで手を汚すことがないかだけに気を掛けるなんて、やっていることが子供染みている」


「‥‥」


「君はただ、ルツ君に綺麗なままでいてほしいだけなんだよ。気の迷いから手を差し出しておいて、その癖何もしてあげられない現状に罪悪感を抱いているから、それがせめての償いなのだろう?」


「‥‥」


「だから〝概念〟でしかないと言ったんだ。上部だけの罪悪感と償いの対象でしかなく、ルツ君の本質なんて微塵も理解していない。あの子がどうして無人島を買いたいなんて言い出したのか、知りもしないし知ろうともしない」


「‥‥」


「ほら、またいつもの癖が出ているよ。無意識なんだろうけど、追い詰められると決まって君はそうやって〝それ〟を握り締めている」






不意に伸びてきた手に、首から下げていた十字架のネックレスが奪われる。



自分でも意識していない中で、縋るように握り締めていた十字架が。



まるで、体の一部を奪われたような喪失感に反射的に手を伸ばしていた手を引く。




「不思議だったんだよね。出会った時から肌身離さず首から下げていた、このネックレス。高価なものではありそうだけど、能具でもない物に執着するなんて」




全てを見透かしたように薄らと笑いながら、煽るように十字架を揺らす。






「取り返しなよ。君のものだろう」


「‥‥」


「何も難しいことはないよ。手を伸ばして、掴めばいいだけだ」


「‥‥」


「安心して、ちゃんと返してあげるから」


「‥‥」


「‥‥あれ、要らないの?」


「‥‥」


「面白いね。要らないなら、どうして肌身離さず持っていたんだい?」


「‥‥」


「聞こえないの?僕は質問しているんだけど」


「‥‥それ、は。想いが、込められたもの、だから」


「想い?」


「‥‥私が、受け取ることの、できない、想いがーー」




拒絶することも、受け入れることもできない、あの人から託された想い。



この手から零れ落ちてしまえば最後、自我を持って掬い上げることのできない、罪の結晶。







「それなら、どうして手放さなかったの?」


「‥‥」


「どうして?」


「‥‥」


「取り返しなよ」


「‥‥」


「取り返すんだ」


「‥‥」


「君が罪人だろうが化け物だろうが関係ない。取られたものを取り返すだけさ。誰がどう見てもこの場面での加害者は僕だからね。幾ら君を恨んでいる相手でも、その程度の挙動で腹を立てはしないと思うけど?」


「‥‥」


「それとも、例え理に適った些細な動作であれ、自我を持って行動することが一瞬たりとも許されないとでも?」


「‥‥」


「誰かの為になら、自分の身も惜しまない自己犠牲。目的の為なら手段を選ばない狡猾さ。そして、壊滅的に欠落した自尊心」


「‥‥」


「君は一貫しているようで矛盾している。他人に深入りする様が、酷く限定的なんだよ」


「‥‥」


「そんな不確かで半端で未熟な君だからーー」




十字架が、揺れる。



縋るものの無くなった手持ち無沙汰な手は、無意識のうちに胸元の皮膚を引き裂いていた。








「誰一人として、満足に救うことが出来ないんだよ」

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