第2話




夜を駆ける何者かの影が、月光に照らされて映し出される。



意識を取り戻すと、自分を抱える見慣れた男をぼうっと見上げた。






「‥‥ヨル?」



譫言のように呟けば、紫がかった黒髪から感情の見えない黄色の瞳が妖しく光る。






「駄目だよ、ジャンヌちゃん」



どこかわざとらしい声に、作りものじみた軽薄な笑み。






「僕の言いつけは、ちゃんと守ってくれないと。もう仕事を振り分けてあげないよ」



猫のような目を三日月型に細め、冷え切った光を宿す。






「‥‥ごめんなさい」


「謝るくらいなら最初からしないことだね。次同じことをしたら、分かるかな?」




誰よりも冷酷で、甘さなんて持ち合わせていない男だ。



少しでも利用価値がないとみなされれば、あっさりと捨てられるだろう。







「それにしても、君はつくづく悪運が強いよね。僕に拾われたのもそうだけど、よりによって〝彼〟と出会ってしまうなんてさ」


「‥‥」


「反動で僕の言葉すら理解できているのか怪しいね。まあいいよ。君の安全は雇い主である僕が保障する。少し休んでいるといい」


「‥‥ごめん、なさい」





最後の力でそう答えると、少しだけ体の力を抜いた。



そっと目蓋を閉じるが、寝ることはしない。




ーー否、出来ないんだ。



血で染まった情景が、黒で塗りつぶされた記憶が、己を蝕み犯そうとする。



それはまるで、安穏に浸ることは許さないと言わんばかりに。





薄暗い路地裏に降り立つと、その一角にひっそりと建っている建物に入った。



暗闇に包まれる室内を、男は電気も付けずにスタスタと進んでいる。



足を止めると、慣れた様子で地下室へと続く扉の施錠を外した。



そこには小さな部屋があり、無機質なベットが一つだけ置いてある。





「はい、いつもの」




ベットに寝かせると、男はいつものように錠剤を渡した。







「治療は‥‥まあ、君には必要ないか。もう傷口は塞がってるみたいだし」


「‥‥」


「一応着替えは置いておくよ。君の好きにするといい。それじゃあ、おやすみジャンヌちゃん」




返答を聞くことなく男は部屋を出て行った。



その際に、ガチャリと施錠を掛ける音がするが気に留めたりはしない。



わざわざ用意してくれたからと、血で濡れた服を着替えようとするが、薬を飲んだ直後に強烈にやってくる睡魔に抗えなかった。



うつらうつらとしながら、首から下げた十字架のネックレスを握りしめた。



こうして休息を取るのはいつ以来だろう。



ただただ無我夢中に奴らを相手に剣を振るってーー。



血の匂いが今も鼻に残っている。



肉を切る感触が消えない。



命乞いする声、劈くような悲鳴が耳から離れない。





『魔法をかけてあげるよ。〝夢を見ない〟魔法を』




‥‥今だけは。



この瞬間だけは、何もかもを忘れてひと時の休息を。











来客を告げる鈴が鳴る。



音も気配も無く入って来た人物に、目を三日月型にして笑う。






「やあ、久しぶりだね」


「‥‥」


「呼んでくれたら、僕の方から会いに行ったのに」



いつの間にか雨が降り出したようで、夜闇の中から現れた長身の男がフードを脱ぎ、濡れた金色の髪を鬱陶しそうにはらった。






「雨宿りのついでだ」




素っ気なく呟いた男の態度は相変わらずだった。






「名も無き集団ーー、いや〝DEMISE〟の幹部である君の頼みとあれば、例え雨の中風の中、地球の裏側だろうとすぐに駆けつけるのに」


「‥‥」


「それなりに長い付き合いだっていうのに、相変わらずだね、君は」




やれやれとおちゃらけたように首を左右に振るが、腕を組んで扉に背を預けた男は全くの無反応だった。



どことなく獅子を想起させるような端正な風貌に、影のある雰囲気。



少し目にかかり気味な前髪から覗いた空色の瞳は、透き通ったガラス玉のような美しさを持ちその全貌が見えないことを惜しむ者も少なくはない。



気品と才能を兼ね備えた佇まいは、貴公子然としている。






「御託はいい。お前と無駄話をする気ない」



冷たく突き放すような物言いに自然と口角が上がる。



容姿だけならどこの貴族のような男ではあるが、口を開けば悪態しか付かないのがいただけない。



親の仇の如く嫌われているせいでもあるだろうが、こうも会話をぶった切られては話にならないというのに。



来客者は一体どちらなのかと問いただしたいところではあるが、相手が相手だけに大人しく引き下がるしかないのだ。



それに、邪険に扱われるようなったのには自分に非があると認めていた。



出会った当初、興味本位でいつもの如く色々とけしかけたのが全ての元凶なのだから。



それが情報屋故の性分だから仕方がないと言えばそれまでだが、後に男が大出世することを見抜けなかったのは己の未熟さだろう。



「単刀直入に言う。ジャンヌダルクについて知っている情報を全て吐け」


「ジャンヌダルク?あの、神の啓示を受け、百年戦争において劣勢だった軍を勝利に導いたっていう聖女?」


「誰が歴史の話をしろと言った」


「前から思っていたけど君って結構教養があるよね。実はいいところのお坊ちゃんだったりするの?」


「‥‥」


「無視っと。ーー近頃、彼らのアジトを襲い悪行を妨害して回っている大剣使いのことでしょう?」


「そうだ」


「残念ながらどれも信憑性のない噂にしかすぎず、裏付けできるようなものはなかったよ」


「1つもか?」


「うん、売れる情報は何も」


「‥‥」


「今、情報屋の癖に使えないって思ったでしょ」




否定もしなければ肯定もしない男に少し笑うと、カマをかけてみるかと思考を巡らせる。






「どうして急にそんなことを?上から何か言われた?」


「いや、上はまだ処遇を決めかねているようだ」


「敵でもなければ味方でもない。例え標的が同じでも、得体が知れなければ障害にもなりうる可能性が高いからね」


「どちらにせよ時間の問題だ。いずれは排除することになるだろう」


「まあ、そうだろうね。仲間内でもあんな殺伐としてるのに、他者にくれてやる慈悲なんて持ち合わせてはいないだろ」



見せつけるように耳朶に触れるが、男は何の反応も起こさなかった。





「ーーそれよりも、だ。何事にも無関心で無頓着な君が、大嫌いな僕の元にまで来た理由が気になるね〜」


「‥‥」


「障害となる前に排除するため、は考え難いかな。君なら、ある程度は根拠を見つけてから動く。雲を切るような状況で率先して動くとは、あまりに君らしかぬ行動だ」


「お前が俺の何を知ってる」


「後継者を決める決闘ーーいや死闘にて、唯一〝彼〟に対抗できた強者。それに、彼は殺陣兵器としての機能以外が極端に欠落しているから、結局のところ君が組織の将来を担っていると言っても過言ではないくらいの重要人物さ」


「‥‥」


「まあ、この程度はあくまで表面上の情報に過ぎないか。組織の重鎮なら誰でも知っている。いざ挙げてみると、少ないね。というか、内面的な意味ではデータが皆無だ。強いて言うなら、僕のことが大嫌いでなことくらいかな」


「‥‥上役を詮索する暇があるなら仕事をしろ。ジャンヌダルクの情報の一つくらい仕入れてみろ、この役立たずが」


「ははっ、相変わらず辛辣だな」




用無しだとでも言いたげに立ち去ろうとする男に、口角を上げ声を掛ける。









「ーー探し人は、見つかった?」




その瞬間、男の纏う空気が変貌した。






「今でも覚えているよ。君との初見を。〝人を探す方法を教えろ〟だなんて、この仕事に携わって初の依頼だったからね」


「‥‥」


「対象を知られたくないのか、教えられない理由があるのか知らないけれど、実に興味深いものだったよ」




張り詰めた空気が、外部から遮断された空間に漂う。



空気さえ震わすほどの威圧感を醸し出す男だ。常人であれば安易に臆すだろう。



戦闘中ですら一切の気配や殺気を感知させないことで有名な男が、確かな〝怒り〟を露わにしている。



そんな危機的状況であるというのに、楽しげに笑う男はもはや狂人としか言いようがないだろう。







「あれ、もしかして怒っちゃった?ごめんごめん、つい気になっちゃってさ〜」




この男が感情を露わにすることは極めて珍しい。



珍しいからこそ、価値がある。



隙を見せない男の唯一の〝地雷〟とでもいうべきか。








「ーー人としての器さえも捨てたいのならそう言え。ただの記憶媒体の代用品でしかないその脳さえ無事なら幾ら他の箇所が破損しても問題ないだろう?」


「‥‥」


「近場に一人、居場所までは探れないがもう一人いるな。今更人員を増やして何を企んでいるのか知らないが、まさか同じ過ちをもう一度繰り返すつもりじゃないだろうな」


「‥‥」


「身の程を弁えろ、黒猫風情が」



要するに、これ以上詮索するなら脳以外の部分を破壊するという脅しだ。



敢えて回りくどい言い方をするのは、本気で実行するつもりがないことをこちらが理解している上で釘を刺すためだろう。





「君の言い分は尤もだけど、まあ許してくれよ。これが情報屋としての僕の性分なんだ。めぼしい情報があるのにそれを易々と見過ごしては、僕にはこの〝器〟を繋ぎ止めるだけの価値もなくなるよ?」


「‥‥」


「でも、生まれてしまったからには死に際くらいは選びたいからね。君への詮索はこのくらいにしておくよ」


「‥‥お前。自分がまともな死に方ができるとでも思っているのか」


「まさか、だから敢えて〝死に方〟と言ったんだよ。出来ることなら、死に方くらいは自分で決めたいかな〜って。とはいっても、特別執着があるわけでもないから安心してね」


「‥‥」


「欲を言えば、可愛い女の子に膝枕されながら安らかな眠りにつくっていうのが理想だったりするんだけど。君はどう思う?」


「‥‥心底どうでもいい話だ」



話が脱線すると同時に、用済みだと言わんばかりに踵を返す男。






「ーー無駄足にさせたお詫びも込めて、一つだけ伝えておくよ。尤も、ただの噂にしかすぎないけどね」






だが、男に足を止める様子はない。










「〝ジャンヌダルクの正体は、年端もいかない少女である〟」





わざわざこんな所まで足を踏み入れた割には、特に反応らしい反応は見せなかった。



それはそうだろう。



なにせこの男は、ジャンヌダルクの正体を知っているのだから。









「僕が情報を売らなかった理由が分かったかい?」


「‥‥馬鹿げた話だ」


「僕もそう思うよ」








「いやー、怖かったな。あの様子だと、存在を勘づかれたのはルツくんだけじゃないね。意識のない人間の気配すら察知するなんて相変わらず化け物じみてる」


「怖いなんて人間らしい感情持ち合わせていないくせに、何言ってんだよ」



仏頂面の、翠と紫のオットアイの紅顔の美少年が、わざと音を立てて重いドアを開け放つと、開口一番に悪態を吐いた。



首に掛けたヘッドフォンを外しながら、うざったそうに僅かに乱れた亜麻色の髪をはらう。






「やあ、ルツくん。外の空気は美味しかったかい?」


「おれを追い出した張本人がそれを言うか」


「これでも気を遣ってあげたんだよ?まあ、この場合は君じゃなくてあの子にだけど」


「また訳わかんないことをゴチャゴチャと。それよりジャンヌは?帰ってきてるんでしょ」


「地下室で寝ているよ」


「‥‥アレ、飲ませたわけ?」


「あの子はあの薬がないと眠れないから」


「丸三日夢も見ずに眠り続けるなんて、人体に無害なんだろうな」


「まさか、でもジャンヌちゃんになら問題の内にも入らないよ。ーーあの子は、〝特別〟だからね」


「‥‥」


「あ、待ってよルツくん」


「‥‥何」



用事が済めばすぐに去ろうとするところがどこかの誰かに似ているとほくそ笑む。




「仕事だよ、仕事」


「今片付けてきたばかりなんだけど」


「安心しなよ、君の能力を使えばすぐに終わる」


「‥‥」


「ジャンヌちゃんの目が覚める前には戻ってこれると思うよ。尤も、君が上手くやれればの話だけど」


「‥‥」


「どうするの?ーーお金、欲しいんでしょ?」





言語を覚えた当初は事あることにキャンキャンと子犬のように噛み付いてきた少年は、少しは我慢というものを身に付けたらしい。



それでも、不機嫌丸出しの顔で目一杯睨み付けてくるところは年相応と言うかなんというか。






「お前さ、毎度のことながら普通に喋れないわけ?なんで一々腹立つ物言いすんの?趣味?だとしたら性格が悪すぎるんだけど。まあ、お前の性格の悪さは今に始まったことじゃないけどさ」




普段は決して口数が多いわけでもないのに、挑発すれば負けじと口が達者になるのはいつまで経っても変わらないようだ。



弱い犬はなんとやら、小物ゆえに扱いやすくて助かると肩をすくめる。






「君こそ、もっと立場も弁えるべきだよ。言葉すら理解していなかった君を保護するに当たりあの子と僕の間に何かしらの契約が交わされたことには流石に気付いてるんでしょ?」


「‥‥」


「雇い主には順応であるべきだよ。これ以上ジャンヌちゃんの手を煩わせたくないならね」


「‥‥っ」


「ほらほら、分かったなら早く行きなよ。君の大好きなジャンヌちゃんとの時間が無くなっちゃうよ?」


「‥‥くたばれ、クソ猫」



「口が悪いな。まあでも、四六時中聞きたくもない声を聞いてたらそうなるかな」




寧ろ、少女の前では一貫して〝いい子〟のままでいるのが痛々しく見える。



まるで、飼い主に愛想つかされ捨てられることを恐れている子犬のよう。



いや、この表現は些か的を得すぎている。



少年の境遇を思えば、そんな卑屈な思考回路になるのも致し方ないが。



問題は、個を殺すほどのその努力は実際は何の意味を成さないことだ。



少年が思っているほど、少女は少年に対して関心がない。



関心がない、それはすなわち少女にとってその程度の価値しかないということ。



年相応と言えばそれまでだが、今の少年の不完全さは危うく、いつ身を滅ぼすことになってもおかしくはない。



隙あらば悪態を吐き、存在レベルで嫌いな男にガラ空きの背中を見せるのも如何なものか。






「ーーああ、いっそ修復不可能なまでに壊れて、僕だけの傀儡になってくれればいいのに」




対峙した者を例外なく不快にさせる軽薄な笑みを浮かべる男の目は、無機質な光を放っていた。




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