宗介の住む家は、居間と自室、それに十畳の座敷が二部屋あり、二つの座敷は敷居を取り払って広くし、子どもたちの手習い場となっている。他に台所もかわやもあるので、一人で住むには充実した家である。元は商家の別荘だったのだが、今は所有者もおらず、宗介が狸穴に越してきたときに、地主から譲り受けていた。

「手狭ですまないが、居間を使ってくれ」

 お寧には居間で生活してもらうことにした。座敷は一番広いが子どもたちが来てしまうし、手習いの道具もたくさん置いているので、住める部屋ではない。宗介の自室は散らかっているので、お寧に見せることもできず、残ったのが居間である。

「いきなり他人の家に住むことになって困惑もするだろうが、自分の家だと思って、のびのびして構わないからな」

「そういうわけにはまいりません。掃除も洗濯も、ご飯も作ります」

「客人なのだから、気を遣わなくていい」

 と言ってみたものの、ただじっとしている方が、苦痛なのかもしれないとも思う。それに、人の作ってくれた飯を食べるのも、悪くないとも。

「そうだな、だが無理はしてくれるな」

 ふと宗介は、自分の亡き母のことを思い出した。

 幼い時分に亡くしているので、記憶の中の姿形は朧気おぼろげである。しかし、母の料理が美味であったことは、鮮明に覚えているのだ。

 母を亡くした痛みがわかるから、余計に同情してしまう。だからといって、母を亡くしたばかりの、しかも若い女子おなごの扱い方なんて、わからない。兎に角できる限り、なぐさめてあげなくてはと、宗介は努める。

(まずは飯か……)

 すでに日がかたむきかけている。今から準備をすれば、ちょうどよい頃合いに、夕餉ゆうげが食べられるだろうと意気込んだ。……が、宗介は台所にある食材を見て、愕然がくぜんとする。

 へろへろになった野菜やら、小ぶりなものなど、何ともみずぼらしい食材しかないのだ。出かけた帰りに買おうと思って忘れていた米は、ちょうど二人分はあったものの、とても客人をもてなすのには、貧しい食事となりそうだ。 というのも、宗介の普段の食事は、飢えないだけの粗末なものだった。寝泊りをする客人は来ないし、写本を作成して稼いでいるつましい生活をしている。野菜は売り物にならないものを、近在の百姓から安くもらったりしているのだ。

「先生、私も手伝います」

 呼ばれて、宗介はどきりとした。長屋暮らしであったお寧も裕福な生活はしていなかっただろうが、せめてここにいる間は、少しくらい贅沢をさせてあげたかった。

(俺の稼ぎじゃ、無理な話か……)

「ありがたい。……誠に面目ないが、今はこれしかなくてな……あ、そうだ。漬物ならたくさんあるんだ」

 壺を取り出して、ぬかにつけてあった野菜を取り出してみせる。

「これなら、いくら食べても大丈夫だ」

「私は少しで……」

「遠慮することはないぞ。味には結構自信がある」

「……お金、あまり持っていないんです」

「……?」

「先生に払えるお金も少ししかないので、ご飯もおこぼれだけで構いません」

 お寧はお金を払うつもりだったのかと驚くも、まだ戸惑いや遠慮がぬぐいきれていないのだろうとも切に感じる。

「お金なんかもらうつもりはない。そなたは客人だ……あっ!」

 宗介はあることに気づいて、思わず持っていた糠漬けをお寧に手渡した。

「すまん、飯を炊いておいてくれ。俺は行くところがある」

 そう言うなり宗介は、家を飛び出した。

(六右衛門さんの家なら、余りがあるだろう)

 お寧の分の蒲団ふとんがないと気づいて、宗介は日が暮れかけている中を駆けていた。自分の蒲団を使えと言えば、お寧が嫌がるかもしれないし、畳の上で構わないと遠慮すると踏んで、宗介は何も言わずに家を出たのである。

 六右衛門は狸穴の地主である。六右衛門の家には奉公人も雑居しているので、余りの蒲団があるだろうと見当したのだ。穏やかで人徳のある六右衛門は、宗介だけではなく、近在の者はみな頼りにしている。宗介のように困ったことがあると、六右衛門に相談する者が多かった。

 いざ訪ねてみると、案の定、余りの蒲団があり、六右衛門はこころよく貸してくれた。

「先生の家にお客様とはむずらしいですな」

 他国から移り住んだ宗介には、江戸の知り合いは少ない。家に泊まるような仲の友人もいないので、お寧が初めて泊る客人であった。

「いやぁ……」

「あ!先生だ!」

 玄関まで顔を出した幼女は、自分よりも幼い弟の手を引いて、うれしそうに宗介の元に駆け寄る。おあむと千代吉だ。

 二人は六右衛門の孫で姉弟仲が良く、いつも一緒に行動していた。二人は宗介の手習い所に通っていて、彼によくなついている。

「先生、ご飯食べてってよ」

「おあむ、先生の家には客人がおられるんだ。今度招待することにしよう。これ、清六。先生の家まで蒲団を運んであげなさい」

 六右衛門が奉公人の一人に声をかけた。

「いえ、そこまでしていただくわけには」

「もう外も暗うございます。月明りだけでは心許こころもとないでしょう」

 と言ってくれた六右衛門に甘え、提灯ちょうちんまで貸してもらい、宗介はすっかり暗くなった夜道を歩いた。

「世話をかけるね、清六さん」

「これくらい、米俵に比べりゃどうってことありませんよ」

 実際に清六は軽々と蒲団を持ち上げ、宗介が提灯で照らす夜道を歩いている。

 夕餉の準備はお寧に任せてしまった。来たばかりで申しわけないと思いつつ、宗介は年若い娘に対して、冷静に判断できない。

 二人が宗介の家に着くと、天窓から煙が立ち込めていた。中に入れば、焼いた魚の匂いにおかされる。

「先生、おかえりなさい」

「一人にさせてすまなかった。この家には客人など来ないものだから、蒲団の一つもなくて、地主さんから借りてきたんだ」

 と言って清六を紹介すれば、お寧は頭を下げた。清六もそれに応えたが、どこかぽかんとしている。やがて一人合点をして、清六は蒲団を部屋に運ぼうとした。

「清六、その蒲団は居間の隅にでも置いてくれ」

「え?先生の部屋じゃなくていいんですかい?」

 にやりとした顔で言うものだから、宗介は彼の思っていることを想像できた。

「ば……ばか!お寧さんがあんな部屋で眠れるわけないだろう」

「へい」

 居間に運んでくれたものの、清六はにやけたままだった。何度も否定すれば、お寧を拒否しているようで彼女に悪い気がして、宗介は何も言い返すこともできないまま、清六は帰っていった。

 そうこうしているうちに、お寧は手際よく夕餉を完成させていた。

「いただきます」

 米と申し訳程度の具材が入った味噌汁、漬物、目刺。いつもと差異のない食事なのに、宗介の心は踊っていた。

 飯屋を除いて、誰かに作ってもらう食事はいつぶりだろう。客人だからともてなされるわけではなく、個人として。

 でも、箸を動かす手が止まらないのは、うれしいからだけではない。気持ちの所為せいもあるのだろうが、お寧の作ってくれた料理が、誠に美味なのだ。

「美味しい、すごく」

 宗介は無理に元気づけようとしてくれているのではないか。というお寧の疑問は、宗介の様子にかき消された。

(先生は本当に、美味しそうに食べている)

「そういえば目刺はどこで……」

 家には目刺などなかったはずだと、宗介は後から気づいた。

「先生がいらっしゃらないときに、おとめさんという方がいらして、くださったんです」

「おとめさんか。ありがたいことに、いつも何かしらもらってるんだ」

 近所に住む初老のおとめは、独り身の宗介のことを気にかけて、何かと世話を焼いてくれていた。今日のようにおかずを分けてくれたり、時には洗濯をしてくれたりと、宗介は助かっている。宗介は代わりに、畑を手伝ってやったりしていた。

 お寧の表情が柔らかくなったのを見て、宗介は幾分か安堵あんどした。

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