苧環くりかえし

夏野

一章

 ふいに甘い香りが鼻をかすめた。何となく桜の匂いかと思ったが、春は終わりを迎えている今、どこもかしこも桜の花弁は散ってしまっている。

 桜といえば、故郷の山桜を思い出す。

 子どもの頃から見慣れた、だけど壮観で美しい景色だ。

 柳井やない宗介が故郷を去り、江戸に住み着いたのは、もう六年も前のことである。さる藩に仕えていた武士であったが、政争に巻き込まれ、お家取り潰しの憂き目にい江戸に流れ着いた。そして今では、手習い所で子どもたちに勉学を教える穏やかな日々を過ごしている。

 過去の記憶にひたっていると、ぐるると腹の虫が鳴った。気づけば通い慣れた一膳飯屋の前にいる。

 そうか、この香りは昼餉ひるげの匂いかと、やっと思い至る。桜の匂いと間違えていたことが、やけに恥ずかしく感じた。

 宗介は額をかきながら、一膳飯屋の暖簾のれんくぐった。

「あら先生、いらっしゃい」

 一膳飯屋の女将おかみが愛想よく出迎える。

 手習い師匠をしている宗介は、皆から先生と呼ばれ親しまれている。今日は手習い所が休みの日で、彼の稼ぎの元である写本を納めに、町にくり出していたのだった。

「適当に見繕みつくろってくれ。腹が減って仕方ない」

 腹の虫が鳴るくらいだとまでは、言わなかった。

「先生、ちょうどよいところに」

「あ、勘兵衛さん」

 すでに一膳飯屋にいた客の一人に声をかけられて見やれば、知った顔がいた。

 兼房町界隈の名主である勘兵衛とは、何度か写本を届けるうちに、知己ちきとなっていた。

 勘兵衛は若い娘を伴っている。娘は宗介に軽く会釈をした。宗介もそれに応えながら、もしや勘兵衛の娘かと思った。が、すぐに違うと思い直す。勘兵衛には二人の娘がいるが、二人とも他所よそにお嫁にいっていると本人から聞いていて、そのどちらでもないとわかったからだ。勘兵衛の隣に座る娘の髪型は、まだ嫁いでいない証をしている。

「写本のお願いですか」

「いや、それはまた今度お願いするよ。実はこの娘のことで……」

 宗介は勘兵衛の向かい側に座して、話を聞くことにした。

 宗介のお茶と同時に、勘兵衛たちが頼んでいた料理も運ばれてくる。お先にと言った勘兵衛は一口を食べ終えてから、話を始めた。

「この娘はおねいといいまして、兼房町にある長屋に住んでおりました」

 お寧はどことなく、沈んでいるように見える。箸の進み具合も遅かった。

「それが先日、母に先立たれまして……」

「なんと……不憫ふびんであるな」

 お寧の様子に合点がいって、うまくかける言葉も見当たらない。

「母一人、子一人でございましたので、お寧の住んでいた長屋の差配から、この子の先行きを相談されたのでございます」

 ここで宗介の料理が運ばれてきた。あんなに腹を空かしていたというのに、腹の虫は引っ込んでしまったようだ。

「他に身寄りは……」

「お寧が申すには、遠縁の親戚が一人いるようなのです。なのでその方を頼るとなった次第でして」

 幼く見えるが十四、五歳くらいだろうか。母を失った喪失感も相まって、一人でいるのは心もとないのだろう。遠縁とはいえ、お寧に優しくしてくれればよいが……

「実はお寧の親戚というのが、先生の住んでいらっしゃる飯倉狸穴まみあな町にいるというのです」

「さようで」

「先生はご存じですかね。苧環おだまき屋敷を」

 いつの間にか忘れかけていたその名と姿を、宗介は瞬時に思い出す。

「はい。屋敷の方と面識はありませんが……」

 狸穴に住んでいる人間ならば、苧環屋敷を知らぬ人間はいない。しかし宗介のように、忘れかけている者はいるだろう。なにせ、屋敷に住む人の出自や顔さえ、定かではない人がほとんどである。宗介も実際に、住人の顔を拝んだことさえない。近所づきあいも皆無で、家の中に引きこもっているのか、遠出をしているのか、姿を現すことはないのだ。庭には苧環が所狭しと咲いていて、人々が苧環屋敷と呼ぶようになったことだけが、誰でも知っていることだった。

「私は狸穴のことは存じませぬもので、ちょうどよいと申しましたのも、よろしければ先生にご案内してもらおうかと思った次第でございます」

「案内くらい、お安い御用です」

 宗介の答えに勘兵衛は安堵あんどして、お寧は小さい声でありがとうございますと口にした。

「私からもお礼申し上げます。場所がわかりまして、助かりました」

 勘兵衛が苧環屋敷の在所を尋ねてきたということは、お寧も在所を知らなかったということになる。何故、お寧は親戚の家だというのに在所を知らないのだろうか。在所も知らないようは希薄な縁を頼ろうとしているのは、やはり心細いといった理由なのか。だが宗介はあえて、何故とは問わなかった。追い詰めるようで、とても今のお寧には言えなかったのである。

 きちんと名乗りを上げていなかったと宗介が気づいたのは、食事を終えて一膳飯屋を出た後だった。 改めて名乗ればお寧も応えたが、顔は浮かないままである。

 道中、宗介と勘兵衛が他愛ないことを語りかけても、黙っているか、返す言葉に困るような様子なので、その中誰も話さなくなった。お寧もその方がよいのかもしれない。

 少し気まずいような雰囲気のまま、一行は苧環屋敷に着いた。

 屋敷と呼ぶのに相応ふさわしい、商人の別荘にしてもご立派な門は、固く閉ざされている。外からでは屋敷の全容はうかがえない。三人は圧倒されながら耳をませるも、物音すらしなかった。

「ここまでで大丈夫です」

 お寧が二人と別れようとするも、屋敷は無人かもしれないのに一人にさせられないとは、宗介と勘兵衛の思うところである。

 勘兵衛が門を叩こうとすれば、通りかかった老婆に声をかけられた。

「先生、この屋敷の人はいませんよ」

「かね婆さん、知っているんですか?」

 溌溂はつらつとした老婆は、狸穴に住んでいる宗介の知人である。どうやらかねは、苧環屋敷の家人の行方を知っているようだ。

「たまたまこの門から出てきたところに会ったんですよ。湯治に行くって言ってましたけど」

「いつから出かけているんですか?」

 意外にも尋ねたのは、先ほどまで大人しかったお寧である。

「つい二日前でしたよ。十日以上はゆっくりしたいと仰ってましたから、まだ帰ってきてないと思いますがね。私ね、ここの苧環屋敷の人を初めて見ましたよ。上品な奥様で、使用人の方もいましたような。でも、先生がお知り合いだったなんて知りませんでした」

「いえ、私ではなくてこの方の……」

 お寧の方だと訂正するのと同時に、おかしいともいぶかしむ。

 苧環屋敷に住む奥様は、かねによれば二日前には屋敷にいなかったことになる。二日前は時期的に考えれば、お寧の母の葬儀があったか、もしくは葬儀を終えて間もないときではないだろうか。苧環屋敷の家人は、葬儀には来なかったのか。親戚に不幸があったばかりなのに、湯治に出かけるだろうか。そのようなことを考えている中に、かねは帰っていった。

 これからどうしようかという宗介と勘兵衛は顔を見合わせ、やがて勘兵衛が思いついたように言った。

「そうだ!家人が帰ってくるまで、先生のところにいなさい」

 それはお寧に向けられた言葉だった。

「ちょっと、勘兵衛さん……!」

「これも何かの縁と思って、しばらく厄介になるといい。この屋敷に方は、すぐには帰ってこないという話じゃないか」

「勝手に決められては困ります。だいたい、嫁入り前の娘なのに……」

 宗介は齢二十八にして、わびしい一人暮らしである。嫁入り前のお寧と一緒に生活をして、あらぬ噂を立てられたりすれば、お寧に障りができると心配しているのだ。

「あの……」

 お寧が遠慮がちにさえぎった。

「しばらく他のお宿に泊まりますから」

 結局、お寧が可哀そうになって、宗介は彼女を家に案内した。

 宿に泊まれば金がかかるし、いつ帰ってくるのかもわからない苧環屋敷の家人を一人で待ち続けさせるなど、とてもできなかった。

(まったく、勘兵衛さんにも困ったものだ)

 なんやかんやとお寧を連れてきてしまったが、本人は嫌がっているのではないだろうか。嫌とは言えない性格かもしれないし、後になって自分の判断は間違っていたのではと、後悔やら悩むようになっていた。

「先生」

「…………」

「ごめんなさい。皆さん先生って呼んでたから……」

 あれこれと考え反応が遅れてしまったのを、お寧に気を遣わせてしまったらしい。宗介はあわてて言った。

「先生で構わない。すまん、考え事をしていた」

 笑ってみせれば、少しだけお寧の顔が柔らかくなった。

「まあ、その……むさくるしいところだが、のんびりするといい。嫌なら他の者に頼むから言ってくれ」

 お寧は首を振って、嫌ではないという意思を示した。

「よろしくお願いします」

 何だか、妙なことになってしまった。

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