「ん……」

 宗介はひどく重たいまぶたをこじ開ける。

すぐには意識が覚醒かくせいしてはくれない。再び眠りそうになるのをこらえられたのは、障子の向こう側がやけに明るかったからだ。

「もう朝か……」

 宗介は無理やりにでも眠りたくなった。なにせ昨夜はあまり眠れなかった……と段々と意識がえてきて、彼はがばりと身を起こす。

 障子戸を開けてみれば、すでに陽は高いところまで昇っていた。

 しまった。寝過ごした。

 宗介はあわてて自室を飛び出した。

「お寧……」

 台所で鍋をかき回していたお寧は手を止めて、振り返る。

「先生、おはようございます」

「おはよう……すまん、寝過ごした」

 昨夜も一人で飯を作らせてしまったが、今朝も何という体たらくだ。

 隣の部屋にお寧が寝ていると思うと何となく眠れなくて、つい夜更かしをしたとは、当の彼女に言えるわけもなかった。

「ちょうど朝餉あさげができましたから、気になさらないでください」

「ああ……」

 顔を洗いに行こうとすれば、着崩れた寝間着でお寧の前に現れてしまったことを後悔する。お寧に、だらしのない人間だと思われただろうか……


 朝餉を食べ終えた二人は、手習いの準備を始めた。

 辰の刻になれば、子どもたちがやって来る。それまでに諸々の準備をするのだが、お寧も手伝っていた。

「先生!」

 一番乗りで来たのは、ほう太という子どもで、手には小松菜を持っている。

「ほう太、今日は早いじゃないか」

 いつもぎりぎりに来るか、遅刻をしているほう太がめずらしいと聞いてみた。

「これ先生に持ってけって、かあちゃんに急かされたんだよ」

 と言って、ほう太は小松菜を手渡した。

「あとそうだ。おめでとうございます」

 急に改まった態度をとられて、宗介は目をまたたかせる。

「めでたい時に遅刻なんかするなって、母ちゃんうるさかったんだ」

「めでたいって……」

 後から続々と、子どもたちが到着した。しかもそのほとんどが、ほう太のように何かをたずさえている。

「お前たち、一体どうしたんだ」

 己に関する祝い事など皆無だ。子どもたちは何かを勘違いしている。そして清六がおあむと千代吉を連れて来て、皆の勘違いを知ることとなった。

「清六まで……」

「先生、これはうちの旦那様からです。祝言の時はぜひ家を使ってくださいとも仰ってました」

 清六は背中に大量のたけのこを背負っていた。庄屋が所有している山から取ってきた物だろう。

「しゅ……祝言だと……!誰が……」

「何言ってるんですか。まさかもう済ませちゃったんじゃないでしょうね。でもおいら、先生にい人がいるなんて知りませんでしたよ。いえね、おいらだけじゃなく、狸穴まみあなの人間は誰も知らないときたもんだから、上手く隠してたんですね」

 なんということだ。清六たちはとんでもない誤解をしている。しかも子どもたちの様子からは、すでに狸穴中にその噂が広まっているようだ。

「客人が女人だからといって、そういうわけではない」

「え、そうんなですか?」

「まったく……勝手な噂を流されたら困る」

「おいらはただ、先生の家に若い女の人が泊ってるって、そう言っただけでして……」

 そこから祝言まで尾ひれがついたのだから、噂は恐ろしい。昨夜は近所に住むおとめが寧に会っているから、彼女もまた勘違いをして、噂を広めたのかもしれない。

 正直、若い娘との噂話を一つでもされれば、いい気がしないわけではない。だがお寧にしてみれば、迷惑この上ないだろう。ここはきちんと訂正するべきだと、宗介は子どもたちにも言い聞かせた。

 兎にも角にも子どもたちを手習いに急かして、宗介は教鞭きょうべんをとった。

「小さい子は私が見てます」

 中にはまだ赤ん坊の兄弟を連れてきた子どもがいて、お寧はその子を引き取った。いつもは宗介が背中におぶさりながら勉強を教えているのだが、彼はお寧に甘えることにした。

「先生、しげが墨こぼした」

「先生、おしっこもれる」

「先生、わかんない」

 手習いが始まれば始まったで、騒がしくなるのは常のことだ。落ち着いたと思えば、誰かが騒ぎたてるなんてことは、よくあることである。

 宗介はせわしなさに、眠気も忘れていた。

 やっと一段落ついて、お寧はどうしているだろうかとふいに外を見やれば、すぐに彼女の姿を見つけられた。

 よくよく耳をすませば、微かに子守歌が聞こえる。うとうとしている子どもは、お寧の背中で顔をふにゃりとさせて、今にも眠りにつきそうだ。

 美しい情景だ。お寧の心地よい声が、子どもに対するいつくしみも交じって魅了みりょうする。 長屋にいた頃は、近所の子どもでもあやしたことがあるのだろうか。お寧は子どもに慣れているようにも見える。

「あ……」

 ついうっとりしていると、お寧が手にしたものに目を見張る。

 お寧はいつの間にか済ませた洗濯物を干していた。そして彼女が干しているのは、宗介のふんどしである。

(後でまとめて洗おうと思って、ため込んでいた……)

 お寧に自分の褌など、洗わせるつもりはなかった。一体、何枚の褌を洗ってくれたのか……さらに驚くべきは、褌を干し終えたお寧が手にしたのは、自分の湯文字ゆもじだ。とうことは、一緒に洗ったのだろう。宗介はたたまれない気持ちになった。

「先生!」

 大きい声で呼ばれて、宗介ははっとした。

「ちゃんとおいらの話を聞いてよ」

「すまん、どれ……」 

 宗介は再び、子どもたちに目を向ける。とても平静ではいられなくなっている自分がいた。


 宗介の手習い所は、昼餉ひるげ前の時刻になれば、その日は終わりであった。

 昼餉になればいったん家に帰り、また昼も再開するという手習い所が一般的である。しかし宗介の手習い所に通う子どもたちは商家の子が多いので、店の手伝いをするために午前中で手習いが終わるのであった。

「おあむ、おねえちゃんと遊ぶ。千代吉も遊びたいって」

 店の手伝いがないおあむや何人かの子どもたちは、初めて見る寧をめずらしそうにせがんだ。

「お寧さんがよければ遊んであげてくれ」

 子どもたちと遊べば気晴らしになるだろうと、宗介は言ってみた。お寧も嫌ではないようで、昼餉の後に遊ぶことを約束する。

 お寧の笑顔はまだどこか、ぎこちなかった。

 昼餉を食べ終えた後で、お寧は宗介に言った。

「先生……私、ここにいたらご迷惑をかけるので、今日から宿に泊まります」

 突然そのようなことを言われて、宗介は戸惑った。

「迷惑だなんて思っていない……」

 何か気に障るようなことを言ったり、してしまったりしたのだろうか。宗介なりに気を遣っていたつもりであった。

 思い当たるとすれば……

「俺の褌を洗わせてしまったことなら謝る。他にも不都合なことがあれば言ってくれ」

 宗介に言われて、お寧はきょとんとする。

「褌……」

 つぶやいて恥ずかしくなったのか、お寧はほおを赤らめた。

「あ、あの……勝手に洗ってすみません」

「謝るのは俺の方だ。女子にあんな汚いものを洗わせるなんて……」

 お寧の小さい口元が、微かに笑んだ。ただそれだけの動作が、可愛いと思ってしまう。宗介は思考をかき消した。

「洗い物なんて苦じゃないんです。私がここにいると、先生が誤解されてしまうから……」

「なんだ……」

 宗介は内心、ほっとした。もしかしたらお寧に嫌がられているのではないかと、不安になっていたからである。

「皆、面白がって言っているだけだ。それに俺は、いくら誤解されたって構わない」

 噂を否定したのだって、誤解されたらお寧の方が困ると思ったからだ。

「でも……先生に好い人がいたら……」

 もし宗介に想い人がいれば、その人のことも傷つけるのではないかと、お寧は案じてくれたようだ。

「いや、残念ながら俺にはそんな人、いないんだ……」

 はははと苦笑する。江戸に来てからは色恋に無縁だと言えば哀しくなるだけなので誤魔化す。

「先生、優しいのに……」

 お寧に殺し文句を言われた気がする。いま己はどんな顔をしているのだろうと、宗介は思った。


 あおむたちに導かれたのは、森の手前の開けた場所であった。子どもたちのたまり場で、いつも鬼ごっこやかごめかごめをして遊んでいる。

 今日は何で遊ぼうかと子どもたちが言い合っていると、お寧は森の中にある小高い丘のようなものを見つけた。およそ二間くらいの幅の丘には、入口のようなものがある。

「ねえ、あれは何?」

「昔のごうぞくのお墓なんだって。中に入っちゃだめだって、おじいちゃんが言ってた」

 はるか昔、豪族と呼ばれた古代人のお墓、つまり古墳である。お寧が生まれた時代の墓とは形式がまるで違うので珍しいが、お寧はそれ以上、気に留めなかった。子どもたちと遊べば、古墳のことなど忘れてしまった。

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