〈忘都〉アテニア/2


 その日は長旅の疲れもあるだろうというカーニャ(の侍女)の気遣いで、湯浴みをして休むことになった。

 久しぶりのたっぷり詰め物がされた柔らかいベッドに転がり、まつりは気の抜けた声をこぼす。


「んへぁ……」

「まつり、はしたないですよ」

「いやまじ腰がやべーんだって」


 隣のベッドに座るオリヴィアの注意もどこ吹く風だ。ゴロゴロと転がっては背を伸ばしたり脚を持ち上げたりして、流石のオリヴィアも苦笑で見守るしかない。

 現代人の腰と尻には、山羊車での移動はかなり堪えるものだった。多少は整備されているとはいえ山道ならなおさらで、転がる石を踏んで車が揺れるたびにまつりだけでなくオリヴィアも苦悶の声をあげたものだった。


「痛み止めの魔術を施しましょう。多少は楽になると思います」

「助かるぅ。……に、してもさ」

「はい」

「あの……カーニャって人、こう」

「おっしゃりたいことはわかります。…………あの。真面目な話をするので、その珍妙な姿勢をやめていただいていいですか?」

「女豹のポーズ」

「誰が豹ですか。せいぜい猫でしょう」


 この色気がわかんねーかなーと呟いて、まつりは起き上がってオリヴィアの隣へ。自撮りする時の距離感で座ると、オリヴィアは少し横にずれて隙間を空ける。


「カーニャ特別顧問の唯一にして最大の任務は、アテニアの記憶の保存。彼女はそのために、類まれなる記憶力と、記憶を保持するための特殊な魔術を使用しています」

「覚えておくための魔法があるんだ? テスト最強になれるやつ」

「はい。詳細を知るのは彼女と限られた術師だけですが……記憶力を増すのではなく、いわば刻みつけるものだと聞いています」

「……刻み、つける?」


 不穏な言葉選びに、まつりが首を傾げる。オリヴィアが眼鏡の位置を直す、わずかな間。


「特別顧問はアテニアの記憶を決して忘れない。大聖女と共にあった日々の全てを覚えている。それ以外の何物も、

「……それ、って」

「……誰もが担える役割ではありません。元々の記憶力、魔術師としての技量、森精種としての魔力……その全てを費やして、彼女は記憶を保っている。いつか来たる次代の聖女のために」


 オリヴィアが微笑んでいたから、まつりはそれ以上何も言えなかった。あの小さな少女が……実際は300歳を超えているすごい人が……文字通りの全力を尽くすだけの意味がアテニアという都市にはある。その重さを、まつりはなんとか飲み込んだ。


「そういうわけですので、まつり。貴女にはカーニャ特別顧問から話を聞いて、アテニアの霧を晴らしてもらいます」

「りょーかい。腕が鳴るわ。腰も鳴るけど」

「……まあ、今日はゆっくり休んでいただくとして」


 オリヴィアの指が二本立つ。


「一つ、アテニアの霧を払う。二つ、大聖女様が残した帰還の術式を発見する。どちらも一筋縄ではいかないでしょう」

「え、そうなん? 霧はどーにかするとして、帰る魔法の方も隠してあるとか?」

「場所はわかっています。大聖女の家の地下に、魔術で閉ざされた扉があり、そこに封じたと記録されています」

「閉ざされた」

「はい。そこには大聖女様からの謎かけがあり、それを解かなければ扉が開かないようなのです。実際には霧が晴れたら見てもらうことになりますが……」

「え待ってめっちゃ気になる。あたしクイズとか超得意だし。どんなん?」

「『竜の宝玉を手にした英雄の名は?』……そういう意味合いの問いかけのようです。異界の者にのみ解ける謎かけなのではないか、と」


 隠し切れない期待が滲むオリヴィアに、まつりは重々しく頷いた。


「全然わからん」




 カーニャ特別顧問が話すアテニアの街の情景は、まるで昨日の思い出を話すように鮮明で、克明で、しかし思い出というには微に入り細を穿つほど正確な記憶だった。

 まつりはメモを取らない。ただ、カーニャの語りに耳を傾けている。時折瞼を閉じて、歌うように説明される情景を脳裏に描く。


 カーニャが語る記憶の中心には常に大聖女がいた。

 少女ではない。アテニアに居を構えた頃には妙齢で、その後も各地とアテニアを行き来しながら年を重ねた。優しく、穏やかで、楽しいことも好きで、住人たちとは仲良く、尊敬と敬愛を勝ち取り、そして――


「大聖女は」


 カーニャは淡々とその思い出を語る。映画を実況しているような感情のなさ。


「よく〈白峰〉を眺めていた。アテニアの町外れの丘に出かけては、日が暮れるまで山を見ていた。街の者が協力して四阿あずまやを立て、それが棺を安置する廟の元となった」


 まつりにはわからない。

 カーニャはきっと、大聖女の友達だった。親友だったかもしれない。だが彼女が語るのはただひたすらに事実と情景だけ。まつりの思考には大聖女が朗らかに笑いかける姿すら思い浮かんでいるほどに克明な記憶なのに、その笑みを向けられたカーニャの感情はひとつも語られない。


 どうしたらそんなことが可能なのか、どれほどの決意と覚悟があればできるのか、まつりにはわからない。


 わかることはひとつだけ。

 カーニャは大聖女を大切に思っている――過去形ではなく。

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