〈忘都〉アテニア/1
アテニアという街は、特徴のない、岩がちな地形の中にぽつんと立った小さな町だった。採掘人や石工たちの小さいが頑丈な家が身を寄せ合うように並んでいたという。
大聖女が三百年前に、何故その土地を選んだかは語られていない。
確実なことは一つだけ。大聖女はどんなに長い旅の後でも必ずアテニアに帰ってきて、北に聳える山、〈白峰〉の威容を眺めていた。
大聖女は没するまでアテニアを愛し、街の住人たちに愛された。穏やかな眠りについて神の下へ召されたのも、アテニアの小さな自宅だった。
棺は〈白峰〉を望む小高い丘の廟に安置され、廟は数年かけて神殿へと建て替えられた。神殿には大聖女に救われた多くの人々が訪れて、感謝の祈りを捧げた。
――そのことを覚えているのは、今やたった一人だけ。
忘却の霧に呑まれて、かろうじて名前だけが人々の記憶に残る、大聖女の街。
〈忘都〉アテニア。
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まつりは山羊車から降りて思い切り伸びをした。こわばった腰と揺れに苛まれていた尻が解放される心地に声をこぼす。
大角山羊も台車の重さからひととき解放され、その辺の草を食みにいく。
〈西風の街〉リプタを出て、ひと月ほど。険しい山々を迂回して、最後は多少整備された山道〈聖女の道〉をたどり、まつりたちはついに目的地に到着した。
「んーっ……!」
まつりの視線の先には、白く雪化粧をした大きな山、〈白峰〉。その山裾は深い森と忘却の霧に包まれている。
「すっげ……でっか……富士山みたーい」
「あの山が〈白峰〉、この地域では一番大きい山です。ここからだと、やや東寄り……あの辺りに〈忘都〉アテニアが沈んでいます」
オリヴィアが解説し、指を伸ばす。示す先には濃く揺蕩って影すら見えない霧。
霧に沈んだ、という表現がふさわしく思えて、まつりはこくりと息を呑む。
「とりま撮っとく?」
「そんな軽い感じで……でも試してはみましょう」
「もっと寄って寄って、入んないし」
「こ、これ以上は」
山と霧を背景に、コンパクトを開くまつり。寄せ合った二人の顔を鏡に映して、まつりは渾身のキメ顔、オリヴィアは照れたように少し目を伏せる。
まつりの指がコンパクトの側面を撫で、同時にオリヴィアが魔力を込める。
「……うーん。めっちゃエモい写真撮れたけど、霧の方はだめかー」
「この距離では流石に、でしょうか。……行きましょう。まずはこちらへ。編纂局の写本聖堂があります」
「しゃほんせーどー?」
「神に仕えるものたちの拠点です」
▼
その少女は、まつりより数歳年下に見えた。
「カーニャ・ディート。地誌編纂局の特別顧問である」
ちんまりした少女が偉そうに名乗るのを聞いて、まつりはキョトンと首を傾げた。
「特別顧問。偉いってこと?」
「うむ。まあまあ偉いぞ」
「そんなちっこくて可愛いのに?」
「ま、まつり! 特別顧問は
カーニャの濃い緑色の瞳が、まつりの姿を上から下まで見つめる。睨むではないけれど強い視線が、遠慮なく全てを見抜くようだった。
「うむ。報告は受けている。聖女どの、どうか霧を晴らしていただきたい」
「聖女の自覚はねーんだけどー……ま、やってはみるし。あたし絶対帰んないとだからさ!」
「うむうむ。帰還の術式、確かに大聖女は開発したと言っていた。覚えているぞ」
「……覚えて?」
大聖女が生きたのは三百年も前の話。そう聞いていたまつりが覚えた疑問に、カーニャが答える。
「私が特別顧問の地位にあるのは、アテニアの全てを覚えておくためだ」
「全てを……?」
「三百年前の記憶を保ち、霧による忘却に対抗する。一人でも覚えている者がいる限り、消失はしないと信じて。ただそれだけが、大聖女が没してからの、私の仕事だ」
「…………やば」
穏やかに語られる内容がどれほどの偉業なのか、まつりにはわからない。長生きする分多く覚えておけるものなのだろうか? まつりに伝わったのは、ただその決意の並々ならぬ深さだけだった。
カーニャは重々しく頷くと、厳かに告げた。
「ところで、昼食はまだか?」
「カーニャ様。昼食は二時間前に召し上がられました」
侍女が同じくらい厳かに答え、丁寧に頭を下げた。
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