〈西風の街〉リプタ/2
「オリヴィアは大聖女様が大好きでね〜」
「やっぱりそうだったんですかっ」
「ええ、大聖女様の絵本を何度も読んで読んでって」
「………………………」
「リプタの街に来るたびに図書館に行きたがって大変だったのよ〜」
レニアが街に出た時にはいつも使っているという宿は、一階が食堂兼酒場になっている形式だ。賑わう食堂の片隅で、まつりとレニアは大いに盛り上がっていた。オリヴィアは『私の話はしないで』と四回言った辺りで諦め、今は果実水のグラスを握りしめてあらぬ方向を眺めている。
「魔法を学び始めたのも大聖女様の影響なのよねぇ」
「ちびヴィアめっちゃ愛いやつ〜♡」
「……なんですか、その呼び方は。全く……母さん、私の話はもういいでしょう」
「えー、いいじゃんいいじゃん。もっと聴きたーい」
「ふふ、怒られちゃったわ。まつりちゃんはどんな絵本が好きだったのかしら」
「こっちのせかい゛だっ!?」
机の下で足を蹴られて、まつりがじとっとオリヴィアを睨む。世界、と言いかけた自覚はあるので小声で抗議。
「蹴んなし」
「注意しただけです。果実水で酔ったんですか」
むむむむ、と睨み合う二人を見て、レニアがくすくす笑う。そのままジョッキの半分ほど残った麦酒を飲み干し、おかわりを頼む。小一時間で既に四杯目だった。
「うふふふ。オリヴィア、いい友達ができたわね」
「友達ではないと言っています」
「照れんなよー♡」
「照れてません!」
「編纂局に入るためにすごく頑張っていたでしょう? 頑張りすぎていないか心配だったの」
その言い方が本当に安心したような調子で、オリヴィアの否定は続かなかった。とりとめのない話がその後も少し続いて、お開きとなったところでまつりが立ち上がる。
「撮ろ! このくらいはいいっしょ、オリヴィア?」
「……撮る意味はわかりませんが、いいでしょう」
「あら、なぁに?」
「写真です! 笑ってー」
教えられるままにダブルピースのポーズを取るレニアを挟み、まつりの笑顔と、オリヴィアの少し距離を離して見切れた不機嫌な表情がコンパクトの鏡に映る。
まつりの指先がボタンを押し、オリヴィアの指から魔力が流れ込む。
騒がしい食堂を背景に、三人の顔が描かれた。
▼
夢を見た。
【お母さん】という存在に逢ったからだろうか。
夢の中で、まつりは泣いていた。近所の小さな公園の隅でベンチに丸まり、何もついていないストラップの紐をいじりながら、ひぐ、ひぐとしゃくり上げていた。
「どうしたの?」
そこに声をかけてくれた少女がいた。同い年くらいの女の子。子供同士でも……あるいは、だからこそ……本当に心配してくれていることが伝わって、まつりの瞳から涙が溢れた。
「おかあ、さんが、もう、おねえ、ちゃんなん、だから、人形は、そつぎょうって。かわいい、靴も、だめって」
七緒と名乗った少女はまつりの隣に座り、手元に視線を向けた。ストラップには無理やり取ったような跡がある。泣きながらで聞き取りづらく要領を得ないまつりの事情を、いちいち頷いて聞く。
元々厳しかった母親が、最近は特に否定的だという。アイドルのストラップも、着せ替え人形も、お気に入りの靴も、全て捨てられてしまったのだと。
「やだね」
「う゛ん」
七緒はそれだけ言って、ストラップの紐を弄り続けるまつりの手に手を重ねた。ぽろぽろと泣くまつりと、泣きそうな表情の七緒は陽が沈む寸前までそうしていた。
決して忘れない体温の想い出ができた日だった。
▼
「あ゛ー」
寝起きでがらがらの声を出し、まつりは顔に手を当てた。化粧もしていない顔は、多分、目が真っ赤だ。
「おはようございます。顔を洗ってきてください、朝食にしましょう」
オリヴィアは既に身支度を整えていて、いつもの黒い編纂局の制服を隙なく着込んでいる。数秒の間、まつりは呆然とその顔を見つめる。
「……どうしました? まだ寝ぼけているのですか? しっかり自制をして規則正しい生活を――」
「オリヴィア」
小言を静かに遮って、まつりがゆっくりベッドから立ち上がる。オリヴィアの眼鏡越しの瞳を真っ直ぐ見つめて言った。
「遠回りでいこ」
「……? 何の話を……あ、ああ。アテニアへのルートのことですか」
「うん」
「……いいのですか? あれだけ、最短でと言っていたのに」
「うん」
まつりが言葉を探す時間を、オリヴィアは待つ。急かす必要はないことを旅の間に知っていた。
「オリヴィアがちゃんと考えてくれたなら、そっちの方が絶対いいってことでしょ。あたしが危ないのはいいけど、オリヴィアも一緒に危ないのはやだ」
「……貴女の危険こそ避けたいのですが」
「ん。さんきゅ。あとさ。短い道もあるけど、ってちゃんと教えてくれたの、気ぃ遣ってくれたんだよね?」
「それは……騙すようなことをしたくなかっただけです」
異世界の地理について、まつりは何も知らない。地図を見て判断するような能力がないことも、オリヴィアは理解していただろう。『道は一本しかない』と言えば選択の余地はなかった。
そうしなかった判断がとてもオリヴィアらしいと、まつりは笑う。
「とにかく、そーゆーことだから。でもできるだけ急いで行こうぜ」
「……了解です。準備を急いで、三日後には出立しましょう。貴女にも協力してもらいますよ」
「任せろ」
「わがままを言って準備を邪魔しなければそれで十分ではありますが」
「はぁー!? あたし邪魔とかしたことねーけど!」
二秒だけ睨み合ってから、二人は弾けるように笑い合った。
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