〈波集い〉ケーフェイ/5

 翌日、まだ日が高いうちにベルの工房を訪れた。


「なんだ……ぼくはまだ……ねむ……」

「ベルさん! 灯台行こ!」

「帰れ、声も態度もでかい聖女」

「ひっど!」


 けらけらと楽しそうに笑うまつりの声が、ベルの二日酔いの頭に響く。オリヴィアがまつりの隣で頭を下げた。


「申し訳ありません、ベルさん。必要なことのようなので、お付き合いいただけると助かります」

「霧が払えたら……また来い」

「そのためにベルさんに来てほしいんだってばー! うっわ、酒くさ。ほら水飲んで! 着替えて! 行くよ!」


 顔を顰めて全身で『帰れ』と表現するベルだが、まつりは取り合わない。ぐいぐいと工房に押し込んで水を汲み着替えを強制する。ベルもトカゲの太い尻尾をくねらせて抵抗するが、まつりの思い切りの良さの前には無駄だった。オリヴィアも申し訳なさそうにしながら、テキパキと支度を手伝う。

 数十分後、不承不承で着替えたベルを伴って向かったのは、霧に包まれた南ではなく無事な方の北の灯台だった。


「おい、こっちじゃないだろう聖女」

「その呼び方やめてよー。石堂 まつり! 名前で呼んで?」

「断る。ぼくは他人と深く関わらない主義なんだ」

「ぶー」


 不満を表明するがベルは取り合わない。白い灯台を見上げ、南側の霧を睨む。


「それで。こんなところまで連れ出したんだ、あの霧を払う算段はついたんだろうな?」

「全然のぜん!」

「…………おい神官」

「私も同じ気持ちです」

「ちょま、聞いて聞いて。マジ真面目だから今回は」


 二人からのじとっとした視線を受けてまつりがぱたぱたと腕を振る。


「だってあたし、灯台のこと何も知らんもん」

「……知らない? なんだ、思い出話でもしてやればいいのか?」

「ですが、すでに忘却されているものについて知ろうと思っても……」


 んー、とまつりは言葉を選ぶ時間を少しとる。

 結局、二秒後ににぱっと笑った。


「ベルさん、絵を描いて!」

「…………はァ?」

「うわ渾身の『はァ?』が来た。ひっど。あのさ、この前オリヴィアに聞かれたじゃん。『なんで自撮りなの?』って」

「聞きましたね」

「なんだっけ、現実感覚? が必要なんでしょ、霧をどうにかするには。でもあたし一人じゃ無理なんだわ。いま自撮りできねーし。だから」


 まつりは楽しそうな笑みを浮かべて、波を背景に告げる。その指がケーフェイの街と、海と、岬を指差して、最後に自分を示した。


「だから、絵を描いて、ベルさん。あたしを描いて。あたしが街と灯台を見て何を想ってるか描いて」


 その笑みを挑発的と感じたのは、果たしてベルの錯覚だったか。

 ベルの喉が詰まる。細い吐息だけが数度こぼれる。自分の顔が恐れで歪んでいるのか、笑みを浮かべているのかわからなかった。

 やがて唇から溢れたのは、笑いだった。


「く、くく、は。何が聖女だ。わがままにも程がある。おい神官、お前も苦労してるな」

「はい」

「オリヴィア!? そこはさあ、なんかいい感じにフォローするところじゃない? ねえ???」

「苦労しているのは事実ですから。ですが、彼女が必要だというなら必要なのです。ベルさん」

「二人がかりで挑発か。上等だ。いいだろう、描いてやる。お前の感情を


 ベルが地面に腰を下ろす。胡座の姿勢で安定させ、提げていた鞄から鉛筆とスケッチ用の紙束を取り出した。


「まつり、その辺を適当に歩いていろ。ぼくの前にいなくても構わん。オリヴィア、酔いを覚ましたいから飲み水を買ってこい。その後は人を近づけさせるな」


 ベルの視線はもはやオリヴィアに向かない。言われた通りぶらぶらと歩いたりしゃがんだり徐にピースしたり絵を覗き込んだりする聖女と、その背後に広がるケーフェイの街、湾、岬を見ている。

 岬は風が強い。まつりの長い髪がたなびいて、陽光に茶色と桃色を鮮やかに浮かび上がらせる。

 風と波の音の中に、しゃ、しゃ、とすべる筆の音がしばし響いた。



「そういえば、よく笑う人だった」


 絵を描きながら、ベルがぽつりとこぼした。

 スケッチは紙の六割ほどを埋めている。


「自分を指差すな。お前みたいに下品で明るい笑い方じゃない。穏やかで、優しい……自分を指差すな!」


 中心には海。湾の沖合に浮かぶ船が、小さく描かれている。

 ケーフェイの街並みは曖昧に描かれて、しかし確かに街の輪郭を捉えている。


「彼女は……ぼくの憧れの人だった。ああ、そうだ。憧れて、焦がれていたんだ」


 まつりは海を見て目を細める姿で描かれている。長い髪が風に揺られ、軽く片手で押さえた姿勢。

 口元には、楽しそうな笑み。


「いつまでも笑っていて欲しかったし、……ぼくの絵を見て笑ってくれたら、と願っていた」


 空白になっていた、南の岬の部分に筆をつける。

 岬を覆っていた霧はいつの間にか晴れていた。灯台は千年の時を経たかのように侵食され、ほとんど土台しか残っていない。それでも、わずかに残った底部は絵の中で誇らしげに描かれる。


「もういないよ。……恋人が乗っていた船が沈んでな。しばらく塞いでいて……あっちの灯台から飛び降りた。ああ、くそ。思い出したよ、全部」


 最後の仕上げをどうするか、少しだけ悩んだ後、白の空に線を描き足す。目には見えない、風の表現。存在するが見えないもの。本来なら聖女の髪の靡きで表現すべきそれを、絵に描き入れる。

 ふう、と一息をついた。

 気づけば、すでに日は沈みかけていた。


「謝らなくていい。いや……。礼を言わないとな。忘れたくとも思い出せなかった。これでようやく……ちゃんと送れる」


 涙がスケッチに落ちないよう、袖で目元を強く拭う。

 

 双子灯台の輝きに導かれて、港には多くの船が訪れる。

 船はさまざまなものを運んでくる。宝物、情報、そして人々。

 湾の潮流が複雑なのは、世界中から集まる船が、故郷の波を連れてくるから。


 〈波集い〉ケーフェイ。

 夕日に照らされた海と街、そして灯台を背景に、絵の中のまつりは遠くを見つめて微笑んでいた。

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