〈波集い〉ケーフェイ/2


「聖女ねえ……」


 ベルのアトリエは乱雑に置かれた画材でいっぱいだった。草臥れたソファの周辺には酒瓶が転がっている。ベルはソファにしどけなく座って、まつりたちを立たせたまま説明を聞いていた。

 酒瓶を掴み、直接口をつけてぐいと呷る。視線はまつりを無遠慮に見つめる。


「……そういうわけで、ジドリのためのスマホという触媒に代わる魔術開発にご協力いただけないかと」

「何でぼくに? 魔術を使える画家なんて、聖国にいくらでもいるだろう」

「以前、貴女が書いた論文を読んだことがあります。精緻な魔術式、色という概念に関する理解、いずれも感服しましたので」

「世辞は要らない。ん、っく……ぷは。……あれは人に言われてまとめただけのもので、大したものじゃない。精緻、なんてのはぼくにとって褒め言葉でもなんでもないしな」


 交渉はひとまず任せてください、と厳命……懇願……されたまつりは、二人のやりとりを聞きながらアトリエの中を見回していた。描きかけのキャンバス。絵の具や筆などの画材。石膏の抽象的なオブジェ。ふと、アトリエの隅に立て掛けられたキャンバスに目が留まった。絵を隠す紫色の布に手を伸ばす。

 

「その絵に触れるな!」

「ぴゃ!?」


 ベルが鋭く声を上げて、まつりの手を留める。小さくなってオリヴィアの隣に戻ってくるまつりを見て、ベルが嘲るように笑った。


「こいつが聖女、ねえ」

「その疑い……失礼、間違えました。その可能性があり、精査中です」

「ま、どうでもいいさ。神官、お前の話だとジドリってのはまず正確に風景を写す必要があるんだろう。それならお断りだ」

「……何故ですか? 魔術師としても、画家としても、貴女の実力は……」

「現実を正確に描くことを写実という。画家も、画術師も、最終的にはそこを目指してるのは変わりない」


 ベルは酒を含み、喉を鳴らして、吐き捨てるように言った。


「それはそれでいい。尊い努力だ。だがぼくの趣味じゃない。絵はぼくだ。ぼくの見方が正しい。現実なんかに、ぼくの世界を規定されるのは全く気に食わない」

「それ、は……」


 オリヴィアが絶句する。まつりはきょとんとして、意味を取りかねた様子だった。くつくつと、愉快げにベルは笑う。


「アンタもぼくの評判くらいは調べてきたんだろう? 感情に流されて余計な色を乗せる、とか。そうだな、ぼくが一番気に入っているのは……神が定めた現実を汚す絵、ってやつだ」

「それって……」


 今度はまつりが声を漏らした。その表情に。他の二人の疑問符が重なる。


「それって盛れるってこと!? あがる!」

「……おい、翻訳しろ神官」

「いえその、私もどういう意味か……」

「この辺にきらきら〜〜ってエフェクトかけたり、ハートマークとか乗せたり、……ちょっとだけ目を大きくしたり……できる!?」

「あ? あー……なるほど……ハートマークってのはなんだ、聖女」

「こういうやつ! 色はやっぱりピンク! あ、ハートって心臓のことね」

「心臓を? 生贄文化か……? しかし、そうか……盛れる、か」


 ベルは掴んだ酒瓶を真っ直ぐに立てる勢いで飲み干して、空になった瓶を投げ捨てる。

 先程触れるなと言った絵、それを隠す布を指した。


「聖女、布を捲れ。丁寧にな」

「これ?」


 まつりが慎重に布を捲り上げる。大きなキャンバスには、岬に立つ灯台が描かれていた。背景に入江と港町……ケーフェイを描いた絵だ。


「わ……」

「どう見る?」

「灯台、めっちゃでっかい」

「大きさが少々誇張されているように思いますが」

「……でも、なんか、ちょっと、寂しい感じ?」


 まつりとオリヴィアの感想を聞き、ベルが小さく鼻を鳴らす。尻尾をくねらせて立ち上がり、絵の枠をそっと撫でた。


「南の岬に、灯台がある。いや、あった。【忘却】の霧にやられて、今じゃ覚えてるやつも少なくなったが」


 ベルの金色の瞳が絵画を睨む。そのどこかに見つけるべき何かがあるというように鋭く。


「ぼくは描きたいものしか描かない。描きたいと思った何かを奪われたんだ。忌々しい霧をどうにかできたら、話を聞いてやる」

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