〈幟〉のカナシュ/6



 孤児院の建物は古いがしっかりと手入れされており、子供たちが刻んだであろうさまざまな傷と共にあった。

 庭先の太い門柱に刻まれた何本もの横線を指でなぞり、まつりは小さく笑う。


「どこの世界でもこれはやるんだね」

「お待たせしました、まつり。危険はなさそうです。……どうかしましたか?」

「ううん、さんきゅ」


 広場で霧を払ってからしばし、オリヴィアはその場に立ち尽くして呆然としていた。三人がかりで揺さぶって我に返らせてから、グレイたちの当初の目的を果たすため孤児院を訪れたというわけだった。

 先に入り霧が残っていないか確かめたオリヴィアが戻ると、入れ替わりにグレイとリズが駆け込む。


「行こう、リズ!」

「うん!」

「転ぶなよ〜」


 その後を追って、まつりとオリヴィアも孤児院に足を踏み入れた。窓からは、広場の幟の先端が少し見えている。


「……まつり」

「どしたん?」

「……霧払いの魔術、あるいは霧除けの結界魔術は、あくまでごく短時間のものです」


 眼鏡のブリッジに触れながらオリヴィアが言う。言葉はぽつりぽつりと雫のようで、まつりは合いの手を控えて頷くにとどめた。

 魔術とかマジであるんだ、オリヴィアは魔法少女なんだね、とか今さら言ったら怒られそうな雰囲気でもあった。


「霧を完全に晴らしてしまうことができるのは、歴代の聖女だけ。まつり、貴女は……」


 姿勢を正し、オリヴィアはまつりに向き直る。眼鏡の奥の瞳は意識してまつりを真っ直ぐ見つめようとしていた。


「【忘却】の霧を払う力を持った聖女なのですね」

「え、違うけど」

 

「どうか私たちをお救い……え?」

「うん?」

「…………ええと、今、違うと仰いましたか?」

「あたし聖女ってガラじゃねーしさ、何かの間違い説ない?」

「で、でも実際に霧を払ったではありませんか!」

「実際にっつっても、自撮りしただけじゃん? なんで霧が晴れたかあたしもわかんねーし」

「それは……まあ……私もあんなに軽い感じの行為だとは……」

「前にも聖女っていたんだっけ。みんな自撮りゃーだったの?」

「じど……りゃ……? あ、ああ。聖女が【思い出】を構成する業はそれぞれ異なります。三百年前……先代の、大聖女と呼ばれる御方は、〈地誌〉を用いていました」

「大。デカかったの?」

「偉大という意味です」

「知ってた」

「もう……! 真面目に聞きなさい」

「へーい。ちし……って、本のこと? 三百年前じゃスマホはまだないか」


 もしかしてそれ? とオリヴィアの手元の本を指さす。答えはどことなく誇らしげだった。


「いえ、これは魔術の触媒となる魔導書です。大聖女は魔術の発展にも大いに寄与されたので、その系譜ではありますが」

「……オリヴィアさ、大聖女ちゃんのこと大好きなんだね」

「だっ……何を仰っているんですか。これは敬意というものです。貴女も敬意を払いなさい、ちゃんとは何事ですか」

「いいじゃん、照れんなし」

「照れていません」


 益体もないやり取りに、オリヴィアが深々とため息をこぼす。なぜか楽しそうに笑うまつりを睨むように見つめ、居住まいを正して背筋を伸ばした。


「大聖女によりもたらされた〈地誌〉は、その土地の来歴や地勢を記したもの。【忘却】の霧から人々を守る奇跡の品、【想い出】です。その〈地誌〉を守るのが我々〈地誌〉編纂局の務めであり……次代の聖女が現れた時、その対応をする役目を負っています」

「う、うん……」

「……情けない顔をしていないで、わからないならわからないと言ってください」

「全然わからん。全の然」

「少しはわかろうとする努力をしなさい!」

「はぁ!? わかんないって言えって言ったのオリヴィアじゃん!」


 数秒の睨み合い。


「……私は編纂局という組織に所属していて、聖女が現れた時お手伝いをする仕事があります」

「めっちゃわかりやすい。ありがと」

「もう……。……ゆえに、私は見極めなければなりません。貴女が聖女なのかどうか」

「やー、あたしは聖女とか無理かなー。ロンペンが待ってるから早く帰んないとだし」


 まつりの声はあっけらかんとしていて、聖女という存在を気にしている様子はない。オリヴィアがその単語を口にする際の重さとは対照的だった。

 オリヴィアの視線がふと窓の外へ。風に揺れる幟の上端を遠く眺める。少しだけ言葉を選ぶ時間を取って告げた。


「……重要なのは、貴女が聖女を名乗るかどうかではなく、貴女のジドリが霧を払うという事実です。嫌でも協力していただきます」

「お? それ、あれじゃん。きょーはくってやつ?」

「いいえ、取引です。というより……元の世界に帰りたいのならば、協力は必須ですよ」


 まつりのいたずらな笑みに対して、オリヴィアは苦い表情を浮かべる。視線は並んで窓の外。広場の幟よりも向こう、空の果てを見て。


「帰界の術。大聖女が開発し、しかし使われることのないまま封印された、世界を超えるための術式は……」


「――今や霧に沈んだ、大聖女の最期の地。〈忘都〉アテニアに眠っています」

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