〈幟〉のカナシュ/5
「もう一度だけ聞きますが、本当に行くつもりですか? 【忘却】されて消えたいんですか!?」
「だってあんなん言われたら見たいっしょ。ランド行ってカリブの海賊乗らないのは無理、みたいな?」
「意味がわかりませんっ!!」
絶叫に近いオリヴィアの抗議は、白い霧に包まれて反響せず消えた。
喧々諤々、議論というよりはオリヴィアが詰め寄ってまつりが笑う数往復の後、折れたのはオリヴィアの方だった。決め手はまつりの『やってみたら確かめになるでしょ?』だ。
休んでいた民家を出た一行は、広場に向けて走る。一番遅いリズに合わせて小走りといった速度だ。先頭はオリヴィア。その手が本から千切った頁を掲げる。
「風よ、迷いを払い道を示せ!」
紙片の文字が薄く輝き、紙片から風が溢れる。オリヴィアの黒髪を揺らし、周囲の霧を押し退けた。霧の下をくぐるように四人は石畳の大通りを走る。
「すごい!」
「霧払いの魔術は結界より保ちません! 急いで!」
オリヴィアの後にグレイが続き、固く手を繋いだリズが引っ張られて走る。最後尾はスマホを落とさないよう握り締めたまつりだ。押し退けられた霧は意志があるかのように蠢いて、四人を押し包もうとする。紙片から吹く風がわずかに散らし、また霧が追いすがる。
霧中を駆け抜けて、数分。
「抜けました!」
「ここが広場だよ、まつりねーちゃん!」
「めっっっちゃ霧じゃん、何も見えねー!」
「まつり、先ほどの説明は覚えていますね!?」
「あー……うん! カッコたるジガとゲン……なんとか!」
オリヴィアだけでなくグレイとリズまでも不安そうな顔になるが、当のまつりはどこ吹く風できょろきょろと周囲を見回している。
『【忘却】に対抗する聖女の力とは、すなわち確固たる自我と現実感覚だと言われています。「私はここにいる」という、揺るぎない確信。それを込めて具現化された【思い出】こそが霧を払うのだと――』
オリヴィアが語った内容は【忘却】の霧に関する知見や魔術理論に踏み込んだ解説であり、最大限噛み砕いたものではあったが、まつりにとっては完全に未知の概念。概要を掴むことすら容易ではなかった。
『ここにいる』と言っても、『ここ』についてまつりは何も知らない。地球ではない別の世界、知らない土地、初めて聞く概念。そもそも聖女であるなんて自覚も、全くないのだ。
だから、まつりは諦めた。
理解は諦めて、ただ、思った。
「そんなすっげー怖い霧の中に入ってでも取り戻したいくらいに……憧れちゃうくらいに、綺麗なんだね。そんなの、めっちゃ見てみたい」
グレイとリズは臨場感たっぷりにカナシュの街を案内してくれた。歴史や文化に関する知識はオリヴィアが捕捉してくれた。子供の目線だから道の繋がりや方角は曖昧で、行きつ戻りつだったけれど、想像するのには十分だ。
広場の中心には泉。染色に使うための水が豊富な土地に建てられた街だ。泉はいつもこんこんと湧いていた。
泉を囲むように立つ何本もの幟。旅人が呆気に取られるように見上げ、街の人々はそれを誇りと共に見守る。
広場からは何本も道が伸びており、いくつもの工房が布を織っている。細い道をしばらく行くと大地の女神の神殿と、併設された孤児院が見えてくる。神官のディメリと十数名の子供たちが暮らす孤児院だ。
今は白い霧に覆われて見えないその光景を、まつりは想像する。
その想像の中に、まつりは立っていた。
いや、しゃがんだ。
「ま、まつり!?」
「おなか、いたいの……?」
「いや下から撮る時はしゃがまないと盛れないんだってマジで」
スマホを下げ、背後の空間を広く画面に収める。制服のスカートが捲れないように手で軽く整えてから、口元と鼻を隠すような少々キザっぽいピースサイン。
撮ろうとしていることに気付き、オリヴィアが慌てて魔術書を開く。最後の頁。手を当てて叫ぶ。
「思い出は灯火!」
ありったけの魔力が注がれた本が輝く。その輝きを
「霧の夜に我らを導きたまえ!」
パシャリ。
まつりを中心に、風が吹いたようだった。
実際には空気は動いていない。だが霧が吹き払われていく様子に、その場の全員が風を幻視した。
広場を覆っていた霧は突風を受けたように吹き散らされる。その勢いは離れるほどに激しく、広場から全ての道へと伝播し、街全体を覆っていた【忘却】の霧を吹き飛ばす。
青空。
「わ……!」
まつりの視界が一気に開けた。
鮮やかに染められた布を堂々と掲げた幟が、広場に何本も立っている。明るい陽光を受けて色を誇り、工房の技を示す紋様が輝く。
〈幟〉のカナシュ。
染色と織物の街が、【忘却】の霧から解き放たれた瞬間だった。
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