〈幟〉のカナシュ/2


 霧が晴れたのは数秒だった。再び漂い始めた白い霧に巻かれる前にと、まつりたち一行は手近な民家へと避難していた。

 扉の内側には紙片が貼り付けられて、霧の侵入を防いでいる。窓から見える大通りは再び薄くけぶっていた。


「うおー……霧やっべー……んで、えーっと。私、石堂 まつり。至星女学院ホシジョの二年。おねーさんは?」

「オリヴィア・ヴィタリと申します。〈地誌〉編纂局に所属しています」


 一息をついて、名乗りあう。互いに『ホシジョ……?』『ちしへんさんきょく……?』と首を傾げあい、互いの所属の説明は後回しにすることに自然となった。

 オリヴィアがそっと頭を下げる。


「まずは……危ないところを助けていただき、感謝します」

「いーって。つかあたしがやったかどうかもわかんないし」


 限界まで走って疲れ果てた子供たちは、部屋の隅に毛布を敷いて休ませている。霧に襲われた絶望と、そこから助け出された安堵の落差で、今は呆然としていた。

 二人にちらりと視線を向けて、まつりが微笑む。


「とりま怪我とかしてなさそうでよかったよね」


 オリヴィアは少し驚いたような表情を浮かべてから、小さく頷く。眼鏡の位置を神経質な指使いで直し、レンズ越しにどことなく険しい視線をまつりへと向けた。


「……はい。それで、貴女は……失礼ですが、どこから?」

「紺屋町だけど。静岡の」

「コンヤチョ……シズオカ? そんな地名は……やはり、いえ、まさか……」


 そう言ったきり黙り込んでしまったオリヴィアに、まつりが首を傾げる。

 椅子を引いて尻を下ろし、ぐるりと周囲を見回す。歴史のある洋館のような雰囲気の、けれど社会科見学で見に行った洋館よりずっと質素な内装。椅子の上で身体を回し、台所と思しき壁際に吊るされた干し肉を背景に一枚、大きく口を開いて自撮りした。

 パシャリという軽いシャッター音がオリヴィアの視線を引く。


「ちゃんと住んでる、って感じがする。ね、ね、オリヴィア。今度はあたしから、いい?」

「え、ええ。どうぞ」

「ここ、どこ?」

「……アークィム聖国の東部、カナシュの街です」

「マジか。海外じゃん」


 全く知らない地名を聞かされて、納得したように頷くまつり。その言葉の意味を、オリヴィアは正しく読み取ったようだった。首を横に振って見せる。


「国外、という意味ですね。それは違います、まつり」

「違うって?」

「この国には……いえ。この大陸には、こういう伝承があります」


 魔術の触媒となっている本の、最初の頁を開く。まつりが現れた時に輝いていた頁だ。そこに刻まれた文章を、言葉に重みがあるかのようにゆっくりと読み上げた。


「【忘却】の霧、満ちる時。異界より、聖女が来たる」

「お、おお……何一つわかんねー……いかい? せーじょ? ホシジョじゃなくて?」

「はい。【忘却】の霧を払う力を持ち、異世界から訪れるという存在……」


 オリヴィアは震える声を絞り出す。


「貴女は、聖女かもしれません」

本気で?」



 霧に呑まれたモノは、【忘却】される。

 人々の記憶から消え、その存在も消える。最初は空白を感じるが、やがてそこに何かがあったことすら忘れられる。

 【忘却】の霧。

 古の時代から大陸を蝕む、白い脅威だ。

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