〈幟〉のカナシュ/1
カナシュの街は、うっすらと漂う霧に包まれていた。
石畳の大通りを二人の子供が走っている。広い通りは無人で、霧に支配されているように薄白い。霧に巻かれながらも、少年が幼い少女の手を引いて必死に駆ける。
「はあっ、はぁ、もうちょっと、だから……走れ……!」
「おにい、ちゃん、もう……」
二人を追うのは、周囲よりも少し濃い霧だ。白く濁った霧は意思を持つように広がって二人を包もうとする。
「あっ……」
「リズ!」
少女、リズが転んだ。兄のグレイが手を引いて立たせようとするが、限界まで走ったリズは起き上がれない。
「にげ……て」
「ダメだ! お前を……忘れるなんて、やだ!」
霧が包み込むように迫る。グレイが必死に手を引く。立ち上がろうとするリズの赤い靴に霧が触れた、瞬間だった。
一枚の紙片がひらりと飛び込んで、霧を阻んだ。
「迷い子に一夜の宿を!」
文字が記された紙片は、本の一頁だ。魔力の白い輝きを淡く放ち、子供たちに迫る霧を押し留める。霧除けの魔術だ。
魔術を放った女が霧を裂いて子供たちに駆け寄った。
「無事ですか」
大柄な女だった。隙のない黒の制服。短く切り揃えた漆黒の髪。慧牛族の証たる白い角が、緩やかに湾曲して黒髪を飾っている。
魔術の触媒である本を開き、周囲に視線を巡らせる。霧に切れ目はない。女が駆けてきた方角も、すでに濃い霧で満ちていた。
「霧が……」
少女、リズが声を震わせる。白い霧はただ周囲を囲むだけでなく、障壁となった紙片をじわじわと蝕む。何百年もの時間が過ぎていくように、紙が色あせ、虫食い穴が開いていく。
魔術師の女――オリヴィアが手元の本を捲る。開かれた頁には霧を払うための魔術が記されている。その効果は霧除けの障壁魔術よりもさらに短い。幼子を連れて大通りを抜け、【忘却】の霧に包まれた街を出るまで保つかどうか。
「……保たせるしかありませんね。二人とも、走れますか」
「う、うん。でもリズが」
「がん、ばる」
紙片がついに塵となって消えた。紙片が本の何頁を千切ったものだったか、オリヴィアにはもう思い出せない。本の方の千切った形跡をみれば類推はできるかもしれないが、そのものを思い出しているわけではない。
ごくわずかな喪失感と恐怖。紙片は魔術師の記憶からも、世界からも永遠に消えた。このまま霧の中に留まっていればオリヴィアも子供たちもそうなる。
「合図したら、走ります。ついてきなさい」
子供たちに言い放ち、本の頁に指を這わせる。
「どうかお守りください……大聖女様」
全ての魔力を振り絞る決意をした瞬間だった。
魔術師の持つ本が輝く。触れた部分ではなく、最初の頁だ。慌てて本を開きなおした時には、光はすでに溢れんばかりの強さで輝いていた。
「っ!?」
光が、霧に包まれた大通りを真っ白に染める。畏れたかのように霧の侵攻が止まった。光が一秒ほどで消え去った後、大通りの中央には――
「……へぁ?」
スマホを掲げた姿勢で、呆気にとられた表情のまつりが立っていた。
「ちょまっ何これー!? どこー!?」
「貴女は……!? そこは危ない、こちらへ!」
まつりとオリヴィア、二人分の驚愕の声が重なった。
留まっていた霧が再び動き出す。予期せぬ闖入者に対してどう動くべきか、わずかに迷ったオリヴィアが決断するより早く、まつりは鋭くスマホを構えた。
「え待って、なんかシーみたいでめっちゃエモくない? 霧もここまでくると逆に
民家の壁に飾られた旗が霧の向こうにうっすらと色を透けさせているのに気付き、それを背景にしてスマホに収める。『上を見て』と言いたげに人差し指を立てたポーズ。驚きを大げさに表現する表情。先端だけ桃色に染めたロングの茶髪が、白い霧の背景から鮮やかに浮かび上がっているように、オリヴィアには見えた。
パシャリ。軽いシャッター音が大通りに響く。
瞬間、霧が晴れた。
石造りの建物が立ち並ぶ大通り。多くの建物に飾られた色鮮やかな布や旗が、霧が晴れたことで露わになった。オリヴィアが間の抜けた声を、まつりが歓声を上げる。
「……え?」
「お、ちょっと明るくなった」
「なっ、な、な」
「でも見覚えねーなーこんなお洒落な道。そこの黒が似合うおねーさん、ここってどこ――」
「何をしたんですか今ッ!?!?」
オリヴィアのいっそ悲痛な叫びが、大通りにこだました。
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