第11話 わくわくする
「ほとんどが、今は物置になってるけど……、ここはたまに客間にしてたから」芳江がそういいながら一番奥の部屋を開けた。
「でも、しばらく使ってないな」パティシエが中を覗きながら言った。
何も無い真四角の部屋。
奥に窓が一つ。店の外から見えた窓だ。
殺風景で、練習室のようだと結衣は思っていた。
もっとも、ずっと小さいけれど。
(よかった。畳じゃない。ここならバーレッスンくらいはできる)
「下も見ておきな」パティシエが先に立って、さっさと降りて行った。
「ここが母ちゃんの部屋、ここが俺の部屋、ここが厨房」指で刺しながら廊下を進んで、奥のドアを開けながら
「こっちが、居間っていうのか、茶の間っていのうか? なんだ、生活空間?」
ごちゃごちゃした居間だった。古い貼り紙。色がバラバラなカーテン。所狭しと置かれた小物。
「奥が台所、その横が洗面所と風呂。あ、トイレはさっきの母ちゃんの部屋の横にあった、あそこだけ。二階にはない」
一通り説明すると、結衣の方を向いてパティシエが訊いた。
「若い女の子が、こんなところで下宿するのは、どうかと思わない?」
結衣はパティシエの方を真っすぐ見て
「どうぞ、よろしくお願いします」と言った。
「―― 諦めないねぇ」
「すみません。……いつから来たらいいですか?」
「そうねぇ、明日はお店休みだから、部屋掃除しておくよ」芳江がそう言うと、結衣は芳江の方に向き直って
「掃除は自分でします! 明日、来てもいいですか?」と言った。
「明日ぁ?」パティシエが呆れた。
「荷物とか、どのくらいあるの?」
「多分、スーツケース一つ」
「旅行じゃないんだから」
「あんただって、フランスに行く時、スーツケース一つだったよ。みんな向こうで用意してくれてたんでょ。布団とか」
(あ、そうか。布団とか。いるんだわ)
結衣は、しまったと思った。布団を実家から運び出すのは無理そうだった。
(どこかで買おうか。通販でここに送ろうか。それだと、明日は無理?)
考えていると芳江が結衣に
「どこかに簡易ベットがあったはずだから、出しておくよ。布団は来客用があるから、干しておくから。それ使いなさい」と言ってくれた。
「ありがとうございます! あの、ベッドはいりません。お布団だけ、貸してください」
「へー、布団派?」パティシエが意外そうな顔をしたので、
「まぁ」と答えたが、普段はベッドで寝ていた。
部屋に、なるべく物を置きたくなかった。
あの部屋で、誰にも見られず、踊ることを考えていた。
どのくらいぶりだろう。踊れるだろうか。
(バレリーナにはならない。もうバレエはやらない。でも、体を動かしたい。毎日の習慣だったから)
避けていたバレエに、誰からも隠れて、こっそり手を伸ばしてみるつもりだった。
ただ、ずっと、習慣だったから、と自分に言い聞かせて。
店に立って、結衣は暇だった。
昨日は、忙しかった。
必要最低限と思われるものをスーツケースに詰め込み、こっそり家を出た。
置き手紙はしてきた。
『自分で暮らしてみる。心配しないで。バレリーナになれなくてごめんなさい』と。
きっと、ものすごく怒るだろう。そして、すごく探すだろう。
親のカードとスマホは置いてきた。
新しいスマホを買った。電話番号は変えた。
メールアドレスも新しいものを作った。
思いつく限りの策を講じて、家を出た。
新幹線の切符を買う時、財布の中の現金は残り僅かになっていた。それも親のお金だった。最後まで、親に頼っていると感じて、胸の中で『ごめんなさい』と謝った。
新幹線の中で、少し不安な気持ちもあったが、新しい未来に向かっている感覚にわくわくした。
わくわくするのなんて、いつ以来だろう。
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