第10話 離しちゃダメ!
オレンジケーキを食べ終わったので、食器を芳江に返しながら結衣は言った。
「ご馳走様でした。やっぱり美味しかったです。ちょっと調べたんですけど、一人暮らしはなかなか難しいみたいで。今度、いつ来れるか。でも、また買いに来ます」
「ありがとうね。力になれたらいいんだけど」
結衣は店をでた。
振り返って見ると、大きな一軒家だった。下に店舗。きっと奥に厨房があるのだろう。二階に窓が四個並んでいる。
(あそこが、下宿部屋なのかな?)
結衣は想像してみた。
母親の元を離れて、遠く離れて。
自由に、自分で働いて。
誰も見ていない部屋でバーレッスンをして。
ポジションをとって、トウで立って。
誰も見ていないから、誰にも批判されないから。誰にも期待されないから。
思い切り体を動かして。
寝る前に筋肉に悲鳴を上げさせて、気持ちよく布団にはいる。
ぐっすり眠って、朝目覚めたら、オレンジケーキの焼ける匂いがする。
死んでしまおうかとも思っていた自分を木陰のテーブルに座らせて、オレンジレーキを運んできたマダム・ポーリーの姿が、自分に置き換わった。
この半年、窮屈な実家で閉じこもっていた自分が、何か掴みかけているような気がした。
(きっと、離しちゃダメ!)結衣は勇気を出して、店に戻った。
「いらっしゃい。あれ? 忘れ物?」
振り向いた芳江が、結衣を見てたずねた。
「すみません。やっぱりここで働きたいんですけど。二階の部屋を貸していただくことはできませんか? 私のお給料から、家賃と光熱水費を引いていただいて、それで、雇ってもらうことはできないでしょうか?」
芳江は面食らっていた。
厨房からパティシエが出てきて
「あんた、食い下がるね」と呆れた。
「すみません。でも、どうしても、ここで働きたいんです。お願いします」結衣は、一気に言うと頭を下げた。
芳江とパティシエが顔を見合わせた。
「……なんで?」バティシェが問いかけた。
「――私、パリにバレエ留学してたんですけど、ダメだったんです。プロになれなかったんです。それで、私の人生は終わったって思ってた時、このオレンジケーキに出会って。ぜんぜんうまく言えないんですけど、本当にこのオレンジケーキのお陰で今日まで乗り切ってこれたんです。日本に戻って来て、母親に毎日、バレエの世界に戻れって責められて、もう限界って思った時に、このオレンジケーキが見つかって。もう、絶対、このオレンジケーキのそばじゃなきゃいけない気がするんです。お願いします!」
結衣はまた頭を下げた。
「んー。聞いても全然わからなかった」パティシエが言った。
「変なこと言っているのはわかってます」結衣は頭を下げたまま、答えた。
「あのね、年頃の娘さんが、赤の他人の家に住み込みでバイトするなんて、普通に考えて、危ないでしょ ? ダメだよ。」パティシエが諭すように言った。結衣は頭をあげて、二人を見ながら
「お二人は、いい人に見えます。心配してません。それに、パリでもずっと大好きだったオレンジケーキがあるので、赤の他人の家って気がしません。」と言った。
「常識的に考えて、それ、おかしいでしょ。」パティシエが呆れて言うのを制するように結衣は、「私、中学を出てすぐに、親元を離れて、パリに留学してたので、常識っていうものが、ないんです !」とたたみかけて、なんとか押し切ろうとした。
パティシエは「何を堂々と……」と思わず笑った。
「私も、お二人に危害を加えるような人間ではありません。信じてください!」
結衣は再び頭を下げた。
パティシエと芳江は、顔を見合わせて、なんとなく笑ってしまった。
「食事はどうする?」パティシエの問いかけに、結衣が頭をあげた。
「食事……ですか?」
「家賃と光熱水費を引くだろ。あんた、食事はどうするの? 自分の分、自分で用意す
る? 俺たちと食べる? うちで食べるなら、家賃と光熱水費と食費を引いて、――そう
だな。五万円かな?」
「うちで食べなよ。どうせ二人分用意するのも三人分用意するのも、大して変わりゃしないんだから」芳江も言った。
「雇ってもらえるんですか?」
「月五万だよ。金貯まらないよ?」
「よろしくお願いします!」結衣は希望が膨らむのを感じていた。
「とりあえず、部屋見てみるか? それから決めなさい」バティシエは、結衣を奥へ促した。
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