第7話 進上洋菓子店
「まさか……。ここ?」
駅から随分離れていた。おかげで、随分探した。
交番でも、人にも聞きまくって、なんとかたどり着いた「進上洋菓子店」は、小さな路地の奥の大きな建物の一階に、くすんだ看板を出していた。
およそ、営業しているとは思えない暗さだったが、ちょっと覗くと、客らしい二人が見えたので、結衣も入った。
「いやー、これは高いわ。これじゃ売れへんし。もうちょっとまけてよ」二人の女が、店の店員らしい中年の女に値切り交渉をしていた。
結衣は、構わずショーケースを覗いた。
小さな、美しいケーキ。種類は多くはなかったが、どれもとても綺麗だった。
パリのドーンを思い出した。
もっとショーケースが明るければ、映えるのに。と結衣は思った。
目当てのオレンジケーキも並んでいた。
毎日食べていたから、絶対、これだとわかった。
二人の女客は、まだ値切り交渉を続けていた。
「こないなところで、こないに高い値段で売ったら、誰も買わんよ」
「そう言われてもねぇ。私が決めてるわけじゃないから」
店員が困った顔をしていたので、結衣は思わず口を挟んだ。
「ここのパティシエさんって、パリのパティスリーにいた方ですよね? 私、このオレンジケーキ、パリで大好きだったんです。パリでも五ユーロしてたから、六〇〇円は妥当だと思いますよ」2人の女客に向かって言いながら、うっとりとオレンジケーキを見た。
「買わないなら、先に、いいですか? このオレンジケーキ、五個ください。私、このケーキのために、東京から新幹線できたんです」
それを聞いていた二人の女客が「ウチにも、それ、ちょうだい」と競って買って行った。
「はあ、ありがとうね。お嬢さん。私、接客って苦手でね。ホントに、五個も買うの?」
「はい、東京から来たのも、パリで大好きだったのも、全部本当です。ずっと探してたんです。やっと見つけた」うっとりとオレンジケーキを見ながら、結衣は言った。
「あの、一つ、ここで食べて行ってもいいですか?」
店内を見渡すと、イートインスペースというよりは、置き場所がなかったから脇に追いやられてるらしい、テーブルと椅子があった。
「いいけど、こんなとこで? お腹空いてるんだね」店員は、オレンジケーキの入った箱を結衣に手渡した。
「母ちゃん、皿とフォークだしてやれ」
どうやら厨房らしい奥から、男が顔を出して言った。
結衣がドーンの厨房を覗いたときに見た日本人だった。
「やっぱり……」
ずっと探していたので、頭に手ぬぐいを巻いたダサいオッサンを見て、結衣は嬉しくなった。
(あの時のラーメン屋みたいなパティシエ……)
「あんた、誰?」
男に聞かれて、結衣は思わず自己紹介をした。
「はい。あの、牧野結衣って言います。パリのドーンの洋菓子店で、オレンジケーキの虜になって。あの、パティシエさんが日本に帰国したって聞いたので、私も日本に帰って来て、ずっと探してたんですけど、今日、やっとここを見つけて伺いました」
「へー。そりゃ嬉しいね」
男はニコニコして、厨房から出てきた。
「なかなか探せなくて半年経ったので。こっちでは作っていないのかと思いました」
「店開けたのが、先月だからね。もともとオヤジがやってた店なんだけど、ずっと使ってなかったから、厨房は随分手を入れないと使えなくて。厨房で手一杯で、店の方はこんな感じ……」
男は店を見渡した。
「確かに……。ちょっと入るの勇気いりました」
「こっちは、おいおいね。銀行から融資受けるのって、大変なのよ」
男は笑いながらそう言った。
奥からさっきの店員が皿とフォークを持って来た。
「待ってな、紅茶いれてやるから」男はそう言うと、厨房に引っ込んだ。
「あの」結衣は店員に話しかけた。
「パティシエさんの、お母さんなんですか?」
「そうよ」
「あ、足の骨折はもう大丈夫なんですね」
店員がスタスタ歩いているのを見て、結衣はそう言った。
「あら、なんで知ってるの?」
厨房から男が紅茶のポットとカップを持って出て来た。
「あんた、このお嬢さんに、私の骨折の話したの?」
「骨折?」
「いえ、パリのお店で、マダム・ポーリーから聞いたんです。パティシエさんのお母さんが、足を骨折したから、帰国したって」結衣は説明した。
「そーなんだよ。足折ったっていうから、病院に飛んで行ったわけよ。普通さ、足をつったりなんかして寝てると思うじゃない。ぜんぜん、起きて同じ病室の患者の世話なんかしてんの。見たときコケたよ。聞いたら、足の小指の骨だって。じゃあ、そう言えよっての」
「小指だって、大ごとだよ。折れてるんだから。入院だってしたし。足の小指ってさ、よくタンスの角とかにぶつけるじゃない?」
そう問いかけられて、あまりぶつけないけど、思わず結衣はうなずいた。
「その度にさ、あ、絶対折れた! って思っても、大丈夫なのが小指じゃない。よくこんだけぶつけて折れないなぁって、思ってたんだけど、今回は、ホントに折れたのよ! 小指も折れるんだよ」
おちゃめなお母さんだな、と結衣は思った。
ともかく、半年もお預けをくらったオレンジケーキが目の前にあるので、結衣は箱から一つだして、皿に置いた。
パティシエが紅茶をカップについでくれた。
「このケーキ、冷凍できますか?」もっと買っていこうかと考えながら結衣が聞いた。
「できるよ。ただ、香りは飛んじゃうけどね」
「そうですよね。この香りがいいんですよね」結衣はいっぱいに吸い込んだ。
それに、実家の冷凍庫でケーキなんて冷凍していたら、母親に何て言われるか……
「やっと会えたけど、今度いつ来れるかなぁ」
愛おしそうにケーキを一口食べる結衣を見て、パティシェはにこりとした。
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