第3話 オレンジケーキ

 アパルトマンからすぐのビュット= ショーモン公園の吊り橋の上で、結衣は、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

(無断でレッスンを休んだ。もう、あそこには行けない。いいんだ、これで。私は、あの世界に愛されていないのだから)

 このまま、この橋から下を眺めていたら、飛び降りてしまいそうだった。

(パリまで来て、何年も留学して、私は一体、何をしていたんだろう。何も手に入らなかった。何一つ変わらないまま、ただ、年をとった)

 もう二十一歳だった。

 最後の頼みの綱のように握り締めていた希望が、昨日、手の中で灰になったのを感じた。


(ここから落ちたら、死ぬかな? 死ねないかな)

 昨日の場面が蘇った。

 ただ、純粋に、ひたむきに夢を追いかけてきただけのはずだった。

 『なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。どんなに残酷なことを言っているか、あなたにわかる? 私の人生は、あなたの一言で始まって、あなたの一言で終わったのよ』

 飛び降りるのは簡単な気がした。今は、踊るよりも容易いだろうと思い、周りを見た。

 小さな子供の手を引く親子連れや、恋人達が憩う公園に続く吊り橋だった。いろんな人に迷惑がかかりそうだからやめておいた。


 踊ることを辞めたら、私の生きている価値なんて、どこにある? 


 公園へ行く気にもならず、来た道を戻り始めたが、部屋へ帰る気にもならず、反対方向に曲がった。

ただ、なんとなく。どんよりと、あても無く歩く自分が、廃人になったような気がした。


すぐに、大きめのケーキショップが見えた。随分と混んでいる。

「有名なのかな?」

【La pâtisserie de Dawn】(ドーンの洋菓子店)

 何の気なしに、スマートフォンで検索してみたら、地元で有名なパティスリーだった。

(ケーキなんて、食べないから。近くにこんな店があったことも知らなかったな)

 パティスリーのショーウィンドウは、外からでも見えるように設置されていて、覗くと、沢山の小さいケーキがずらりと並んでいた。

「うわぁ、綺麗」

 思わず日本語で呟いた。

 ケーキショップを見ることなど、ほとんどなかったので、まるで、ジュエリーショップのようだと結衣は思った。どのケーキも、芸術品のように、小さく、美しく、堂々と価値をアピールしていた。 

 

「いらっしゃい、お嬢さん。何を差し上げましょうか?」

 人の良さそうな中年の女の店員が話しかけてきた。

「いえ、ごめんなさい。ちょっと覗いただけなの」

「どうぞ、見てって。どれも美味しそうでしょ?」

「ええ、それに、凄く綺麗」

「フランス語上手ね。中国人?」

「いえ、日本人です。ケーキなんて、もう何年も食べてないな」

呟いた結衣に、店員は心底驚いたように言った。

「ケーキを何年も食べずにいられるなんて、信じられない! だから、あなたはそんなに細いのね。でも、元気なさそうだわ。」親しげに話しかける店員のペースに乗せられて、結衣は店内に入ってしまっていた。「一つ、私がご馳走するから、お食べなさい。そうね、このオレンジケーキがいいわ。元気の出るケーキよ!」

 そういって、店員は勝手にオレンジケーキをトレーにとった。

「いえ、ホントに私……」

 断りかけて、結衣は思った。

(食べたって、いいんじゃない? バレリーナの節制なんて、もう必要ないんだわ)

「ちゃんとお金は払います。それ、一ついただきます」

「じゃあ、紅茶をサービスしてあげるから、ここにお掛けなさい。どうしたの、そんなに青白い顔して。こんなに天気のいい日に」

店員は、また結衣を促して、テラスへ出ると、涼しい木陰の白いテーブル席へ案内した。

結衣に戸惑う暇も与えず、店員はすぐに、綺麗なドレープ模様の皿に乗せた、オレンジケーキと紅茶を運んで戻ってきた。

「どうぞ、当店人気のオレンジケーキよ」

 小さくて、キラキラしたオレンジの輪切りが乗った、焼き菓子だった。クリームたっぷりのケーキじゃなくて良かった。と思った自分が、つくづく情けなかった。もう、いいって、思ったのに。

「すごく、いい匂い」

「そうでしょ? ごゆっくり」店員は、店に戻って行った。

 結衣は、紅茶を一口飲んだ。渋みのきつい紅茶が、昨日から何も食べていない胃を刺激した。

 手をつけるのが、申し訳ないくらい、美しくカットされた焼き菓子だった。端の方を、少しフォークでとって、一口食べた。

 びっくりするくらいの、オレンジの風味と、甘いバターの香り。

「おいしい……」誰もいないのに、声に出して言ってしまった。

 少しずつ、ちょっとずつ、惜しむように結衣はケーキを食べた。


 食べ終わったときには、本当に元気になった。

 世界が終わったような気がしていたのに、ひょっとしたら、何か、新しい楽しみが見つかるかもしれないような気さえした。

 店に入って、お金を払い、もう一つオレンジケーキを買って、部屋へ帰った。

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