第2話 ただの夢だったら

 「牧野さん?」

 急に、名前を呼ばれて、結衣は驚いた。

「やっぱり、牧野さんよね? 面影あるもの!」無邪気なほどのテンションで喜ぶ若い女の顔が、うっすら制服姿の中学生に重なった。

「佳奈……ちゃん?」

「そう! 凄い偶然じゃない? パリでばったり会うなんて」

「そうだね……」

「お友達?」佳奈と連れ立った若い男が訊いた。

「うん。中学の同級生で、3年間同じクラスだったの。高校は……あれ、牧野さん、どこに行ったんだっけ? あ、違うね。牧野さん、確か留学したんだ! バレエ留学。えー、もしかしてパリに? 今も住んでるの?」

「うん、中学卒業して、すぐに……」

 佳奈のテンションが、ちょっと辛くなってきて、結衣は早く帰りたくなった。

「そうだ。牧野さん、バレエやってて、凄かったんだよ。たくさんコンクールとか。テレビの取材が学校に来たことあったよね。今って、もしかしてプロ? ここのバレエにも出たりするの? 私たち、今見てきたところなの?」

「ここは……」 結衣は振り返って、ガルニエ宮を見上げた。

「ここには、フランス人しか立てないの」

 もう、地雷。無理。

 結衣は逃げるようにその場を離れた。

「え……」

 佳奈は訳が分からず、きょとんとしたが、一瞬で怒りが込み上げてきた。

(なあに? 私、何か悪いこと言った? こんな素敵な夜に、昔の友達にまであったから、ちょっと興奮しちゃったけど、今の何?)

「綺麗な人だったね」

賢に言われて、佳奈は我に返った。

「うん、中学の時から、大人っぽくて、美人だった。背も高かったし。でも、何今の? なんで、急にプイッて。私、何にも悪いこと言ってないよね?」

「うーん、よく分からないけど。あんまり人と話す気分じゃなかったみたいだね」

「そういえば、中学の時から、とっつきづらい所あったわ。私、あなた達とは住む世界が違うのよ。みたいな。一度も一緒に遊んだことないし。いつもバレエのレッスンがあるからって、すぐ帰ってたし。早退したり、学校休むこともけっこうあって。みんな、女の子は名前とか、ニックネームで呼びあってたけど、あの子だけ、みんなから、牧野さんって苗字で呼ばれてた。友達いなかったんじゃないかな?」

(じゃあ、佳奈ちゃんも友達じゃなかったんだね。それで、あのテンションで話しかけられる方が、凄いと思うけど)賢は心の中だけで、呟いた。

「ごはん食べに行こうか」

「そうね」

せっかくの素敵な夜を、感じの悪い女のせいで、台無しにしたくない。佳奈は結衣のことは忘れることにした。


部屋に戻った結衣は、さっきのことを反省していた。

(あんな態度をとっちゃ、いけなかった。せっかく、会えたことを喜んでくれたのに。佳奈ちゃん、お化粧をして、すっかり大人になってた。一緒にいたのは、恋人かな? パリに旅行にくるなんて、もう結婚とかするのかな? 凄いな。私は、まだ、ここで、生徒でいるのに。みんな、人生歩んでるんだ)

 自分だけが取り残された気がしていた。

 もう、この何年か、ずっとそんな気がしていた。

(それでも、私には、何を犠牲にしても、構わないと思えるものがあった。昨日までは)

麻痺が効いていたような頭に、現実が戻ってきた。

(だいたい、今日、あの公演を見になんて、行かなければよかった)

チケットは、随分前にとってあった。その時は、楽しみにしていた。

(明日は、レッスンに行くの、よそうかな……)

 いや、明後日もその次も、もう、行ける気がしない……。

 佳奈と会ったことで、少し遠のいていた苦い思いが、鈍痛のように戻ってきた。

(明日、目が覚めたら、すべて夢だったらいいのに。今日のことばかりじゃなく、私がずっと夢見ていたものが、本当にただの夢だったら、どんなにいいだろう……)

 食事もせずに、結衣は眠りについた。寝つきは子供のころから、めっぽう良かった。

どんなに緊張するコンクールの前日でも、どんな悩みのある夜でも。

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