第2話

 アパルトマンからすぐのビュット= ショーモン公園の吊り橋の上で、結衣は、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

(無断でレッスンを休んだ。もう、あそこには行けない。いいんだ、これで。私は、あの世界に愛されていないのだから)

 このまま、この橋から下を眺めていたら、飛び降りてしまいそうだった。

(パリまで来て、何年も留学して、私は一体、何をしていたんだろう。何も手に入らなかった。何一つ変わらないまま、ただ、年をとった)

 もう二十一歳だった。

 最後の頼みの綱のように握り締めていた希望が、昨日、手の中で灰になったのを感じた。


(ここから落ちたら、死ぬかな? 死ねないかな)

 昨日の場面が蘇った。

 ただ、純粋に、ひたむきに夢を追いかけてきただけのはずだった。

 『なぜ、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。どんなに残酷なことを言っているか、あなたにわかる? 私の人生は、あなたの一言で始まって、あなたの一言で終わったのよ』

 飛び降りるのは簡単な気がした。今は、踊るよりも容易いだろうと思い、周りを見た。

 小さな子供の手を引く親子連れや、恋人達が憩う公園に続く吊り橋だった。いろんな人に迷惑がかかりそうだからやめておいた。


 踊ることを辞めたら、私の生きている価値なんて、どこにある? 


 公園へ行く気にもならず、来た道を戻り始めたが、部屋へ帰る気にもならず、反対方向に曲がった。

ただ、なんとなく。どんよりと、あても無く歩く自分が、廃人になったような気がした。


すぐに、大きめのケーキショップが見えた。随分と混んでいる。

「有名なのかな?」

【La pâtisserie de Dawn】(ドーンの洋菓子店)

 何の気なしに、スマートフォンで検索してみたら、地元で有名なパティスリーだった。

(ケーキなんて、食べないから。近くにこんな店があったことも知らなかったな)

 パティスリーのショーウィンドウは、外からでも見えるように設置されていて、覗くと、沢山の小さいケーキがずらりと並んでいた。

「うわぁ、綺麗」

 思わず日本語で呟いた。

 ケーキショップを見ることなど、ほとんどなかったので、まるで、ジュエリーショップのようだと結衣は思った。どのケーキも、芸術品のように、小さく、美しく、堂々と価値をアピールしていた。 

 

「いらっしゃい、お嬢さん。何を差し上げましょうか?」

 人の良さそうな中年の女の店員が話しかけてきた。

「いえ、ごめんなさい。ちょっと覗いただけなの」

「どうぞ、見てって。どれも美味しそうでしょ?」

「ええ、それに、凄く綺麗」

「フランス語上手ね。中国人?」

「いえ、日本人です。ケーキなんて、もう何年も食べてないな」

呟いた結衣に、店員は心底驚いたように言った。

「ケーキを何年も食べずにいられるなんて、信じられない! だから、あなたはそんなに細いのね。でも、元気なさそうだわ。」親しげに話しかける店員のペースに乗せられて、結衣は店内に入ってしまっていた。「一つ、私がご馳走するから、お食べなさい。そうね、このオレンジケーキがいいわ。元気の出るケーキよ!」

 そういって、店員は勝手にオレンジケーキをトレーにとった。

「いえ、ホントに私……」

 断りかけて、結衣は思った。

(食べたって、いいんじゃない? バレリーナの節制なんて、もう必要ないんだわ)

「ちゃんとお金は払います。それ、一ついただきます」

「じゃあ、紅茶をサービスしてあげるから、ここにお掛けなさい。どうしたの、そんなに青白い顔して。こんなに天気のいい日に」

店員は、また結衣を促して、テラスへ出ると、涼しい木陰の白いテーブル席へ案内した。

結衣に戸惑う暇も与えず、店員はすぐに、綺麗なドレープ模様の皿に乗せた、オレンジケーキと紅茶を運んで戻ってきた。

「どうぞ、当店人気のオレンジケーキよ」

 小さくて、キラキラしたオレンジの輪切りが乗った、焼き菓子だった。クリームたっぷりのケーキじゃなくて良かった。と思った自分が、つくづく情けなかった。もう、いいって、思ったのに。

「すごく、いい匂い」

「そうでしょ? ごゆっくり」店員は、店に戻って行った。

 結衣は、紅茶を一口飲んだ。渋みのきつい紅茶が、昨日から何も食べていない胃を刺激した。

 手をつけるのが、申し訳ないくらい、美しくカットされた焼き菓子だった。端の方を、少しフォークでとって、一口食べた。

 びっくりするくらいの、オレンジの風味と、甘いバターの香り。

「おいしい……」誰もいないのに、声に出して言ってしまった。

 少しずつ、ちょっとずつ、惜しむように結衣はケーキを食べた。


 食べ終わったときには、本当に元気になった。

 世界が終わったような気がしていたのに、ひょっとしたら、何か、新しい楽しみが見つかるかもしれないような気さえした。

 店に入って、お金を払い、もう一つオレンジケーキを買って、部屋へ帰った。

 


 賢は、休憩時間にPCで検索をかけていた。

【マキノ・バレエ・パリ・コンクール】

 手持ちの情報をすべて入力して入手したのは、国際コンクールで優勝して、スカラシップを獲得した、まだ幼さの残る少女の画像だった。

 名前は『牧野 結衣』

もう、十年も前のものだった。

「綺麗な子だったな」

 佳奈から、ラインの着信があって、賢は検索を閉じた。

 毎日、休憩時間めがけてラインを送ってくる。

(休憩時間を押して、仕事をしてることもあるんだけどな。女の子って気楽だな)

 ちょっと、疎ましく思いながら、賢はラブトークに付き合った。



 結衣は、今日もドーンの洋菓子店へやってきた。毎日、ここへ来るために、起きているような気がした。

「おはよう、ユイ」人のよさそうな女店員がすぐに話しかけてきた。

 店員はマダム・ポーリーと呼ばれていた。もう、すっかり顔なじみだった。

「今日は、随分、早いのね」

「ごめんなさい。まだ開店前よね。朝は涼しくて、あんまり気持ちがいいから、早起きして散歩してたの。でも、気がついたら、こっちに向かっちゃってて」

「そうだ、ユイ。今ならまだ、職人がケーキを焼いてるわよ。あなたの大好きな、オレンジケーキ、作ってる職人を見たくない? 日本人なのよ。あなたと同じ。覗いてみる?」

 内緒話のようにマダム・ポーリーに言われて、結衣はがぜん、興味が出た。

(知らなかった。この一カ月、私を勇気づけていたオレンジケーキを作ってる職人が、同じ日本人だなんて)

 店と厨房を隔てる銀色の扉。小さな丸い窓からのぞくと五、六人の職人が、忙しそうに働いていた。

 中に、東洋人は一人だけなので、彼だと分かった。

 ちょっとイメージと違った。

(パティシエというより……、ラーメン屋さんみたい)

 頭に白いタオルを巻いたダサさ。若くもない。誰も若いなんて言ってなかったけど。

 毎日、自分を生かしてくれるオレンジケーキの輝きが少し失せたようで、見なきゃよかったと、結衣は思った。

 それでも今日もオレンジケーキを買って帰るのに、開店までの時間を、マダム・ポーリーと話しながら過ごした。

「でも、ユイ。あなたさ……」マダム・ポーリーが、自分の姿をみながら、言い出したので、結衣には、何を意味しているのかわかった。

「言わないでー! わかってる。すごく太っちゃったの」

「ええ、本当に。あんなに細かったのに。私は、別に、今も可愛いと思うけど。さすがに食べ過ぎなんじゃない?」

「だって、おいしいんだもん。この楽しみを知ってしまったら、どうしろっていうのよ!もう、マダム・ポーリーのせいだから!」

「あらぁ、責任とれるかしら……」

 こんなに、気楽に話せる相手は、何年ぶりだろう。

 毎日、マダム・ポーリーと話して、オレンジケーキを五個買って帰るのが日課になっていた。

 成長期を過ぎて、食事は、もう何年も、さほど調理がいらず低カロリーな、サラダやササミのソテーやスープで、おいしいとか、楽しいとか、考えたこともなかったのに、ここ最近は、いろいろなものがおいしかった。

今まで食べなかったものを随分試した。ダントツがこのオレンジケーキだった。

 そして何より、レッスンに行っていない。

 毎日欠かさずしていたハードなレッスンを、していないことは大きかった。


 子供の頃、先生はよく、言っていた。

一日レッスンをサボると、自分が気づく。

二日レッスンをサボると、仲間が気づく。

三日レッスンをサボると、観客が気づく。


 今、結衣はもう、一ヵ月レッスンをサボっている。

一ヵ月レッスンをサボると、ケーキ屋の店員まで気づく。

 新しいフレーズを頭の中で付け足して、結衣は笑った。

 今日も、何もしない一日が始まった。

 



「永村先生ですか? ご無沙汰しております。牧野結衣の母です。はい。その節は、大変お世話になりました。――ええ、実は、今、帰国していまして。それが、もう、バレエを辞めたなんて言って帰ってきたんです。ええ。説得はしてるんですが、どこのカンパニーにも入る気が無いみたいで」

結衣の母親の葵(あおい)が電話しているのが聞こえた。

(やだ、永村先生にかけてるんだ)

結衣が3歳の頃から指導してもらっていた先生だった。

「それで、先生、またしばらく、そちらに通わせていただきたいのですが……。ええ。いえ、でも。それはそうなんですが……。はい。わかりました。また、ご連絡させていただくと思います。よろしくお願いします。では、失礼いたします」

葵は、がっかりした顔で、電話を切った。

「永村先生に電話したの?」結衣が聞くと、葵は睨むようにこちらを見た。

「本人がバレエを辞める気なのに、通われても迷惑だって言われたわ。また、結衣さん自身が通いたいと思っているなら、いつでもいらしてくださいって」

(さすが。永村先生は正しい)

「だけど、こんなに長くバレエから離れるなんて……。どこかでレッスンしなきゃ。それに、その体もなんとかしなきゃ」葵は結衣を険しい顔で見た。

「ママ、どこのカンパニーにも入る気が無いんじゃないわ。どこのカンパニーにも入れなかったのよ」

「もっと努力しなさい。幾つ受けたっていうの? 普通の大学生だって、就職するときには何社も受けて、たくさん落ちて、やっと引っかかった会社に入社するのよ! あなたみたいに、ちょっと失敗しただけで、辞めたなんて言わないわよ」

「ジョギングにいってくる」

家にいると息が詰まるので、結衣は最近よくジョギングに出かけるようになった。母親もそれは良しとしていた。母親のダイエットメニューとジョギングで3キロくらいは落ちてきていた。

もっとまじめにやれば、体形をもどす自信はあった。

オレンジケーキの誘惑もないし。

結衣は迷っていた。体形がもどれば、母親はますますバレエに戻るよう力を入れるだろう。

(今、この体形のままトウで立ったら、足を傷める)

この理屈は、非常に説得力があった。とにかく痩せることが先ということになって、一時休戦中だった。

(でも、3キロ落ちただけで、永村先生に連絡するなんて)

ジョギングをする気にもならなくて、結衣は手近なベンチに腰かけて、スマホを取り出した。

最近の毎日の日課。おいしいオレンジケーキを検索し始めた。目当てのものが見つからずため息をついた。ネットで検索できないなら、そもそも無いのでは? と思えた。

(あの人も、辞めちゃったのかな)


パリで長いバカンスが終わり、やっとドーンの開いた日、待ちわびたオレンジケーキを買いに行った結衣に、マダム・ポーリーが申し訳なさそうに言ったのだった。

「あなたの大好きなオレンジケーキを作っていた職人が、日本に帰ってしまったのよ。お母さんが、足を骨折したとかで。ごめんなさいね、私も残念よ」

ただ、毎日ダラダラと過ごしていた結衣は、それがきっかけになって、日本へ帰ることを決意したのだった。


結衣の前を、フワフワしたワンピースを来た女の子と、細身のパンツがすごく似合う男が通りかかった。

(このワンピース、村娘の衣装みたい)そう思いながら、目で追っていて気が付いた。

「佳奈ちゃん?」呼ばれた相手は、驚いてこちらを振り向いた。

「え……。牧野さん?」

「この間、パリでは、ごめんなさい。なんだか失礼な態度をとってしまって。ずっと気になっていたの」結衣は、ちゃんと謝る機会があってよかったと思いながら、小さく頭を下げた。

「え……。牧野さん?」佳奈は、もう一度聞いた。

結衣は、そこではじめて気が付いた。

(そうだった。私、すごく太ったんだった!)

佳奈は、少し愉快そうな顔をしていた。

「ごめんね、急に声かけて。じゃあ、私、もう行かなきゃ」結衣は慌てて立ち去った。

 


「見た? あの子。パリで会った私の元同級生。別人みたいだったわ」

なぜか嬉しそうな佳奈を見ながら(女の子って怖いな)と賢は思っていた。


この一件で、さすがに、結衣も自分の体形をなんとかしなければと思うようになった。相変わらず、母親の猛攻撃を逃れるためと、体を引き締めるための一石二鳥のジョギングに本気で取り組むようになっていた。

ジョギングシューズも、ウェアも買った。

カードで。

親のカードで。

母親に逆らいながら、すべてを親に依存している自分が嫌だった。

(働こうかな……)

これから先、自分がどうなるのかわからなかった。


公園を何周か走ると、汗が流れ始めた。当たる風が、心地よかった。もう秋だった。

体を動かすのは好きだった。体重が落ちてきて、より動きやすくなっていた。

(バーレッスンがしたい ……)結衣は思った。

小さい頃からレッスンは毎日の日課だった。

食事をするのと同じ。

息をするのと同じ。

結衣の部屋にはレッスンバーがあったが、家でそんなことをすれば、母親が期待してしまう。

結衣は、少しスピードを上げて走った。


実家に戻って、二ヵ月が経つ頃、結衣の体形は、ほぼもどっていた。

いよいよ母親のバレエ就職斡旋が厳しくなり、結衣は息がつまりそうだった。

 この頃の母のお気に入りは新国立バレエのプリンシパルを経て、今では有名なバレエスクールの主宰を務めるバレエダンサーが、若い頃、一時期バレエをやめようと離れたことがあるという話しだった。だから、大丈夫なのだと自分に言い聞かせるように、結衣に説いて聞かせた。この話は心底うんざりだった。ちょっとバレエを続けることに迷った才能ある少女の話と、一緒にしないでと思った。

 自分がその年ごろには、迷ったりしなかった。ただ一筋に、夢を追っていた。それでも、駄目だったのだ。

ジョギング以外の時間は、部屋に閉じこもって、母親と顔を合わせないようにしていた。レッスンバーはバラバラにしてクローゼットにしまった。期待させないように。母親は、そんな結衣を冷たく突き放していた。

街は、ツリーやイルミネーションの華やかな季節になっていた。

この家で家族と一緒にイヴを過ごすのは何年ぶりだろう。

留学中は、離れていても、電話やメールで繋がっていた。パリまで母親が来て、一緒に「くるみ割り人形」を見に行ったこともあった。

今は、同じ家の中にいるのに、遠く離れているような気がした。

この家の中に、クリスマスの華やかさはなかった。


新しい年を迎えた日も、家の中は冷え冷えとしていた。

いつもなら、正月休暇はのんびり過ごす父親も、嫌気がさしたように出かけてしまった。


結衣の二十二歳の誕生日。イベント続きのこの時期にも、母親は毎年かならずお祝いしてくれた。小さい頃は、クリスマスよりもお正月よりも、自分の誕生日が一番楽しみだった。今年は、家族と顔を合わせることもなく、誰にも祝われることなく過ぎて行った。

二十二歳になってしまった。

また、条件が一つ悪くなったと、母親は嘆いていた。結衣は、もう返事もしなかった。


春らしくなってきたころ、結衣も母親も、消耗しきっていた。

(ママも、もう、限界の顔をしている)急に老けたような母親の顔をちらりと見ながら、結衣はジョギングシューズを履いた。

今日もハードめのランニングを終え、クールダウンをしながら、スマホで日課の検索を行った。

数多の画像の中で、まさにあのオレンジケーキでは? と思う画像をみつけ、結衣は思わず声を出しそうになった。追いかけると、誰のかわからないブログへ移った。

『大阪のおばちゃんにもらったオレンジケーキ、めっちゃうまかった!』隅に、小さくケーキの箱も写っていた。

画像が荒く、あまり読み取れなかったが、住所は大阪と福田の文字が読み取れた。

そして店の名前「進上洋菓子店」も。

(見つけた! とうとう見つけた!)

店の名前さえわかれば、なんとかなるだろう。

結衣はその日の午後には、新幹線に乗っていた。

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