Fairy tale
ゆぎ 真晝
第1話
「完璧」
心の中で、何度も呟いた。
就職して二年目に入った頃、合コンで知り合い、付き合うことになった彼。
隣を歩く彼に、付き合い始めてもう三ヵ月になるのに、いまだに見とれてしまう。
なんて素敵なんだろう。
私の誕生日のために、有休を合わせて、初めて二人で来た旅行がなんとパリ! パリよ!
『んー、パリがいいな』って、冗談で言ったのは私だけど、『いいね』って軽くOKされた時には、正直、こっちがびっくりしたわよ。
慌てて、貯金を掻き集めて、お母さんにもSOSを出す羽目になったけど、来て良かった。
なんて素敵なんだろう。
パリ行きが決まってからというもの、この旅行中にプロポーズされるような気がしちゃってるのよね。だって、パリだもん。パリにしたのは私だけど……
だいたい、そこらの男は、ヨーロッパを選ばない。なぜなら、英語が通じる所なら、なんとか、カッコ良く立ち回れるけど、フランス語だのイタリア語だの、まったく言葉がわからない土地じゃ、頼りがいのある男を演じられないから。
でも、彼は、フランス語もイタリア語も、もちろん英語もいけちゃう。もうカッコいい。
ガイドブックなんか開かない。でも、ちゃんと、おいしいお店も、ルーブルへの行き方もリサーチ済。(ひょっとしたら、何度も来てるのかも? 誰と? いや、考えない、考えない)今は、私と恋人繋ぎで手をつないで、このオペラ通りを歩いているんだから。ちょっとくらい、街の中が臭かろうが、汚かろうが、夢のように素敵。
「佳奈(かな)ちゃん、バレエって見たことあるの?」
「ううん、初めて。すっごく楽しみ」
だって、オペラとバレエ、どっちがいい? って訊かれたから。オペラは言葉がわからなかったら、チンプンカンプンで、あとで話が合わなくなりそうだし、バレエなら、言葉がないから、私でも賢(けん)くんと同じレベルで見てることになるでしょ。
「オペラ座も見たかったから、チケットとれてラッキーだったよね」
「ホント。それに、賢くんと、こうやって、ちょっとオシャレして。なんか、夢みたい」
「うん、異国感が増すよね。こういうのって」
「ホント、ステキ! 私、いつか新婚旅行に行く時も、絶対パリに来る! こんな素敵なところ、無いもの!」
「新婚旅行? 今から考えるの早いよー。まだ二十二歳でしょ?」
もう二十二歳なのよ。ぜんぜん早くない。きっと、来年には……再来年になっちゃうかもしれないけど、二十五歳までには、もう一度、賢くんとパリに来るんだ。新婚旅行で!
「完璧……」
結衣(ゆい)は心の中で呟いた。
ステージでは、村娘の格好をしたエトワールが、周りの皆に促されて踊り始めた。
軽やかに、優雅に。そして初々しく。
片足でつま先立ちしたまま跳ねる独特のステップ。まるで体重など無いかのよう。
でも、私にはわかる。今、トウで立つ足だけでなく、弾みをつける逆足も、腰も、腕すらも悲鳴をあげているはず。体が悲鳴を上げる度に、優雅に微笑むようバレリーナは訓練されている。幼い頃から。
結衣にも同じことができた。
完璧に踊れた。
このヴァリエーションは、何度も踊ったことがある。エトワールの動きに合わせて、結衣の腕や足の筋肉が、ピクリと反応した。息遣いを合わせることすらできた。
優雅に見えるヴァリエーションでも、その運動量は半端なものではない。子供の頃は、ヴァリエーションを一つ踊りきると、呼吸に味がついた。
やがて、エトワールはくるくると回りながら、恋する喜びと、踊れる喜びを振りまく。
このステージで踊れたら、私にもできただろうか。踊れることの喜びを、観客へ伝えられただろうか。
私は喜んで踊っただろうか……。
拍手と大歓声の中、たまらず結衣は席を立った。まだ第一幕の途中だった。
街は今だ華やかで、多くの観光客がガルニエ宮の前で記念撮影をしていた。
泣き出しそうになるのを堪えて、結衣は歩く気になれず、石段に腰掛けていた。
どのくらい座っていたのだろう。劇場から出てくる人の波が、終演を知らせた。観客たちの表情で、舞台が大成功だったのがわかる。
「帰らなきゃ」観客達の波に乗って、結衣も歩き出した。
佳奈は初めてのバレエに興奮していた。
「素晴らしかったわ」
「本当に。来て良かったね」
クールな賢も、少しテンションがあがっているようだった。
パリの夜は、もうすっかり更けていた。駅へむかう人の群れはみんな着飾っていた。
(でも、どんなパリジャンより、賢くんの方が、素敵)うっとりしながら、自分の恋人を見た。
(ってか、パリジェンヌだって、そんなに大したことないんじゃない? ほら、あの子にも、あの人にも、私、負けてないんじゃない?)
自分を、特別美人だと思ったことはなかった。でも、あの日の合コンで、みんながキャーキャー言った賢くんが、連絡先を聞いてきたのも、メールをくれたのも、自分だった。
自分は今、モテ期なんだ、と思った。このチャンスを絶対逃さない。
賢くんといれば、自分のランクが上がっていくのがわかった。
ほら、あのカップルより、ぜったい私達のほうが、イケてる。あそこを行く、女の人より……、いや、あの人はすごくスタイルがいいな。東洋人? きっと顔は大したことないはず……。わ、美人だ。あ……、私、この人、知ってる……。
「牧野さん?」
急に、名前を呼ばれて、結衣は驚いた。
「やっぱり、牧野さんよね? 面影あるもの!」無邪気なほどのテンションで喜ぶ若い女の顔が、うっすら制服姿の中学生に重なった。
「佳奈……ちゃん?」
「そう! 凄い偶然じゃない? パリでばったり会うなんて」
「そうだね……」
「お友達?」佳奈と連れ立った若い男が訊いた。
「うん。中学の同級生で、3年間同じクラスだったの。高校は……あれ、牧野さん、どこに行ったんだっけ? あ、違うね。牧野さん、確か留学したんだ! バレエ留学。えー、もしかしてパリに? 今も住んでるの?」
「うん、中学卒業して、すぐに……」
佳奈のテンションが、ちょっと辛くなってきて、結衣は早く帰りたくなった。
「そうだ。牧野さん、バレエやってて、凄かったんだよ。たくさんコンクールとか。テレビの取材が学校に来たことあったよね。今って、もしかしてプロ? ここのバレエにも出たりするの? 私たち、今見てきたところなの?」
「ここは……」 結衣は振り返って、ガルニエ宮を見上げた。
「ここには、フランス人しか立てないの」
もう、地雷。無理。
結衣は逃げるようにその場を離れた。
「え……」
佳奈は訳が分からず、きょとんとしたが、一瞬で怒りが込み上げてきた。
(なあに? 私、何か悪いこと言った? こんな素敵な夜に、昔の友達にまであったから、ちょっと興奮しちゃったけど、今の何?)
「綺麗な人だったね」
賢に言われて、佳奈は我に返った。
「うん、中学の時から、大人っぽくて、美人だった。背も高かったし。でも、何今の? なんで、急にプイッて。私、何にも悪いこと言ってないよね?」
「うーん、よく分からないけど。あんまり人と話す気分じゃなかったみたいだね」
「そういえば、中学の時から、とっつきづらい所あったわ。私、あなた達とは住む世界が違うのよ。みたいな。一度も一緒に遊んだことないし。いつもバレエのレッスンがあるからって、すぐ帰ってたし。早退したり、学校休むこともけっこうあって。みんな、女の子は名前とか、ニックネームで呼びあってたけど、あの子だけ、みんなから、牧野さんって苗字で呼ばれてた。友達いなかったんじゃないかな?」
(じゃあ、佳奈ちゃんも友達じゃなかったんだね。それで、あのテンションで話しかけられる方が、凄いと思うけど)賢は心の中だけで、呟いた。
「ごはん食べに行こうか」
「そうね」
せっかくの素敵な夜を、感じの悪い女のせいで、台無しにしたくない。佳奈は結衣のことは忘れることにした。
部屋に戻った結衣は、さっきのことを反省していた。
(あんな態度をとっちゃ、いけなかった。せっかく、会えたことを喜んでくれたのに。佳奈ちゃん、お化粧をして、すっかり大人になってた。一緒にいたのは、恋人かな? パリに旅行にくるなんて、もう結婚とかするのかな? 凄いな。私は、まだ、ここで、生徒でいるのに。みんな、人生歩んでるんだ)
自分だけが取り残された気がしていた。
もう、この何年か、ずっとそんな気がしていた。
(それでも、私には、何を犠牲にしても、構わないと思えるものがあった。昨日までは)
麻痺が効いていたような頭に、現実が戻ってきた。
(だいたい、今日、あの公演を見になんて、行かなければよかった)
チケットは、随分前にとってあった。その時は、楽しみにしていた。
(明日は、レッスンに行くの、よそうかな……)
いや、明後日もその次も、もう、行ける気がしない……。
佳奈と会ったことで、少し遠のいていた苦い思いが、鈍痛のように戻ってきた。
(明日、目が覚めたら、すべて夢だったらいいのに。今日のことばかりじゃなく、私がずっと夢見ていたものが、本当にただの夢だったら、どんなにいいだろう……)
食事もせずに、結衣は眠りについた。寝つきは子供のころから、めっぽう良かった。
どんなに緊張するコンクールの前日でも、どんな悩みのある夜でも。
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