第4話 パティシエ

 賢は、休憩時間にPCで検索をかけていた。

【マキノ・バレエ・パリ・コンクール】

 手持ちの情報をすべて入力して入手したのは、国際コンクールで優勝して、スカラシップを獲得した、まだ幼さの残る少女の画像だった。

 名前は『牧野 結衣』

もう、十年も前のものだった。

「綺麗な子だったな」

 佳奈から、ラインの着信があって、賢は検索を閉じた。

 毎日、休憩時間めがけてラインを送ってくる。

(休憩時間を押して、仕事をしてることもあるんだけどな。女の子って気楽だな)

 ちょっと、疎ましく思いながら、賢はラブトークに付き合った。



 結衣は、今日もドーンの洋菓子店へやってきた。毎日、ここへ来るために、起きているような気がした。

「おはよう、ユイ」人のよさそうな女店員がすぐに話しかけてきた。

 店員はマダム・ポーリーと呼ばれていた。もう、すっかり顔なじみだった。

「今日は、随分、早いのね」

「ごめんなさい。まだ開店前よね。朝は涼しくて、あんまり気持ちがいいから、早起きして散歩してたの。でも、気がついたら、こっちに向かっちゃってて」

「そうだ、ユイ。今ならまだ、職人がケーキを焼いてるわよ。あなたの大好きな、オレンジケーキ、作ってる職人を見たくない? 日本人なのよ。あなたと同じ。覗いてみる?」

 内緒話のようにマダム・ポーリーに言われて、結衣はがぜん、興味が出た。

(知らなかった。この一カ月、私を勇気づけていたオレンジケーキを作ってる職人が、同じ日本人だなんて)

 店と厨房を隔てる銀色の扉。小さな丸い窓からのぞくと五、六人の職人が、忙しそうに働いていた。

 中に、東洋人は一人だけなので、彼だと分かった。

 ちょっとイメージと違った。

(パティシエというより……、ラーメン屋さんみたい)

 頭に白いタオルを巻いたダサさ。若くもない。誰も若いなんて言ってなかったけど。

 毎日、自分を生かしてくれるオレンジケーキの輝きが少し失せたようで、見なきゃよかったと、結衣は思った。

 それでも今日もオレンジケーキを買って帰るのに、開店までの時間を、マダム・ポーリーと話しながら過ごした。

「でも、ユイ。あなたさ……」マダム・ポーリーが、自分の姿をみながら、言い出したので、結衣には、何を意味しているのかわかった。

「言わないでー! わかってる。すごく太っちゃったの」

「ええ、本当に。あんなに細かったのに。私は、別に、今も可愛いと思うけど。さすがに食べ過ぎなんじゃない?」

「だって、おいしいんだもん。この楽しみを知ってしまったら、どうしろっていうのよ!もう、マダム・ポーリーのせいだから!」

「あらぁ、責任とれるかしら……」

 こんなに、気楽に話せる相手は、何年ぶりだろう。

 毎日、マダム・ポーリーと話して、オレンジケーキを五個買って帰るのが日課になっていた。

 成長期を過ぎて、食事は、もう何年も、さほど調理がいらず低カロリーな、サラダやササミのソテーやスープで、おいしいとか、楽しいとか、考えたこともなかったのに、ここ最近は、いろいろなものがおいしかった。

今まで食べなかったものを随分試した。ダントツがこのオレンジケーキだった。

 そして何より、レッスンに行っていない。

 毎日欠かさずしていたハードなレッスンを、していないことは大きかった。


 子供の頃、先生はよく、言っていた。

一日レッスンをサボると、自分が気づく。

二日レッスンをサボると、仲間が気づく。

三日レッスンをサボると、観客が気づく。


 今、結衣はもう、一ヵ月レッスンをサボっている。

一ヵ月レッスンをサボると、ケーキ屋の店員まで気づく。

 新しいフレーズを頭の中で付け足して、結衣は笑った。

 今日も、何もしない一日が始まった。

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